及川長編 そんなものさいいもんさ fin
「あ、苗字」
「松川くんだ」
「何してるの」
「んー……」
「?」
「徹が後輩の女の子とどっか行ったから、それ待ち」
「……へぇ?」
「……って言っても、先に帰っていいって言われたんだけどね」
「及川が?」
「うん……」
「珍しいな」

松川くんの言葉に、やっぱりそうだよねって心の中で溜息を吐いた。放課後の教室。もう誰も残っていないそこには私と徹の鞄だけが残っている。ここでつい先程、ホームルームが終わっていつも通り二人で教室を出ようとしたとき徹が立ち止まったのだ。

「あ」
「?どうしたの?」
「ごめん、用事思い出した。あー……ほんっとごめん名前ちゃん、遅くなるだろうから先帰ってて?」
「えっ」
「ごめんね!待ってるの寒いし、暗くなるの早いから心配だし、また明日一緒に帰ろ」
「う、うん……」
「気をつけて帰ってね!帰ったら絶対連絡ちょうだいね!じゃあ、」

顔の前で両手を合わせて眉を下げる徹は挨拶もそこそこに鞄も置いたまま教室を出ようとして、それで、

「あ!徹先輩!」
「んげっ、待っててって言ったのに」
「遅いから来ちゃいました!」
「もー……ほら、早く行くよ」
「あっ、待ってくださーい!」

私は二人の背中を呆然と見つめることしかできなかった。え?なに、今の。
人懐っこくて、守ってあげたくなるような女の子だった。一目見てそんな印象を受けてしまうような、私とは真逆の女の子と一緒に徹は何処かへ行ってしまったのだ。用事って、何?その子と何するの?
……なんて。考えても分かるわけがないのにもやもやと胸の中を黒い何かが覆っていく。誰、その子。この感情がどういったものかなんてすぐに分かったけど、でもまさか私がそんなことを徹に思うだなんて考えたこともなかったから戸惑う。
正確に言うとこの間、休日のショッピングセンターで知らない女の子と歩いている徹を見てしまった時も感じたけど、でもそれとはまたちょっと違った感じ。

だって徹はどれだけ私が拒否しても嫌な態度を取っても、ぎゃーぎゃーとうるさいくらいに吠えながら私にくっついてくる。先に帰っていいなんて初めて言われた。いや。別にいいんだけど。いつもと違う態度に戸惑っているだけで。

それで徹に言われたから大人しく帰るか、鞄置いてっちゃったしちょっと待ってみるかと迷ってたところに現れたのが松川くんだった。松川くんのクラスからだとこの教室の前を通るから、私が一人でいるのを見て話しかけてくれたんだろう。
「松川くんだ」って出た声が思いの外小さくて、私は自嘲気味に笑った。

「……でもやっぱり帰ろっかな」
「いいの?」
「うん。……寒いし、早く帰ってドラマの再放送観たいから!」
「じゃあ駅まで送ろうか」
「えっ、いいよ、松川くん方向違うじゃん」
「いいから。ほら、行こう」
「う、うん……」

意外と強引に私の鞄を持ってしまった松川くんに、私は慌ててついていくしかない。まだ暖房の名残りで暖かかった教室とは違って、キンと冷えた空気がを刺した。

「最近どう?」
「最近って?」
「及川とはうまくいってる?」
「うーーーん……うーーん……うん……うん?」
「ははっ、なにそれ」
「……この際だから聞いてくれる?私もちょっと自分でよく分かってなくて」
「何でもどうぞ」
「あはは、やっぱ松川くんカウンセラーだよね」

久しぶりに言ったな、これ。そう思っていると、「それ久しぶりに聞いた気がする」って同じことを言う松川くんが可笑しくて頬が緩む。あぁ、なんかよく相談に乗ってくれてたのがもう随分前のような気がする。
あの頃はまだ暑い夏だったもんなぁ。まさか徹が私のこと好きだなんて思わなくて、私だってまだ徹のことが嫌いで、今のこんな関係になるだなんて夢にも思わなくて。

「この前さ、花巻くんと休みの日に出かけたんだけど」
「え?浮気?」
「ちっがう!クリスマスプレゼント!徹の……一緒に選んでもらってて」
「あぁ、そんな時期だもんね」
「そう。それで、……その、」
「…………」
「徹が女の子といるの、見かけちゃって……」
「…………思ったよりヘビーな話題だな」

言葉にすると、鮮明に思い出されるあの日の光景。隠そうとしてた花巻くんの努力も虚しく気付いてしまったあの時の私。本当はあの子誰だろうってずっと気になってたけど、でもそんなことよりももっともっと大きな棘が胸の奥深くにずっぷりと刺さって抜けなくなってしまったのだ。
知らない女の子と休みの日に二人で出かけていることよりも、私の知らない徹がいるんだって気付いてしまったことの方が痛くて辛かった。今まで気にしたことなかったのに、きっとそれは徹がもうすぐいなくなることへの大きな不安から来ることだろうって分かってる。分かってるからこそ、どうしたらいいのか解決策は一向に見つからなくて、そもそもそんなものあるのかも分からなくて、私はきっとずっと一人で苦しんでいたのだ。

「徹はモテるから」
「うん?」
「こういうことが、これからもあると思う」
「……ないとは言い切れないね」
「そのとき私は、どうなっちゃうんだろうって」
「こわい?」
「……うー……ん、……うん。怖い……んだと思う。私の知らない徹が増えていくのが、怖い」
「苗字の気にしすぎかもしれないよ?」
「うん、そうかも。だけどさ、なんか私、結構徹のこと好きみたいんだよね」
「へえ?」
「だから……これ以上好きになるのが、こわい」
「はは、苗字からそんなこと聞けるだなんて思わなかった」
「あはは……私もこんなこと言う日が来るなんて、思ってなかった」

人と話すのは良い。松川くんに話しながら、頭の中でごちゃごちゃとしていたパズルのピースが一つずつハマっていくように整理されていく。
つまりなんだ、私は。

「及川が海外行くの、嫌なんだ」
「…………」
「あれ、違った?」
「……ううん、」
「…………」
「徹が離れていっちゃうの、……嫌だ」

って。今絶対、眉を下げてきっと情けない顔をしていると思う。だけど、初めて口に出したそれは思いの外ストンと心の奥底に収まった気がした。
あんな私には到底真似できないくらいの情熱を持ってバレーをする徹を応援したい気持ちはあるのに、応援すると言った言葉に嘘はないのに、そしたらそこに私がいなくなってしまうんじゃないかという恐怖。

いつからこんなになってしまったんだろう。いつからこんなに……徹を好きになってしまったんだろう。
言葉にしてしまったそれは急速に私の胸をぎゅうぎゅうと締め付ける。苦しい。どうして。だって。

「苗字?」
「あ……」
「ティッシュしかないけど、どうぞ」
「あ、りがと……」

ポロポロと目尻からこぼれ落ちる涙は、重力に従って地面にシミを作っていく。最悪だ。こんなところで泣くなんてどうかしている。
だけど松川くんは何も気にしていないという風に当たり前な顔してポケットティッシュを手渡してくれて、貰ったそれを目に当てた私はその優しさに余計に涙腺が緩んでしまう。

「っ、ごめん、松川くん」
「全然。俺こそなんかごめんね」
「……こ、のこと、……徹には」
「言わない言わない」
「……ありがとう」
「いーえ」

相変わらず絶妙な距離感で接してくれる松川くんが優しくて、私は静かに泣いた。立ち止まって、さり気なく道の端に誘導してくれる松川くんはただ私の隣にいてくれるだけ。
徹みたいにうるさく励ましたりはしてこない。だけどそれが今の私にはちょうど良かった。

「俺は及川が何を思ってるのかとか全然知らないけどさ」
「う、ん」
「でも苗字のことは大事にしてると思うよ、あいつなりに」
「うん……」
「だから納得できるようにっていうか、……後悔しないようにね。苗字が思ってること、言っても良いと思うし」
「うん……」
「時間を大事に」
「ふっ……松川くんがずっと名言っぽいこと言ってる」
「え、何笑ってんの」

ごめん。でもちょっと面白くなっちゃったの。
くすくすと笑う私に松川くんは眉間に皺を寄せて変な顔をしていて、でもさっきよりも随分と心が軽くなった気がしてお礼を言うと「どういたしまして」ってまたいつもの顔で笑ってくれた。

さすが、やっぱ話を聞いてもらうのは松川くんだな。


優しくないのはわたしだけ




21.07.08.
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