角名中編 嘘つき女と無気力男 fin

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倫太郎の手は相変わらず私の頬を掴んで離さない。真っ直ぐに交わった視線は初めて感じる、私の知らない倫太郎だった。
そもそも私は倫太郎のことをどれくらい知っているんだろう。やっぱり彼女だから少しくらい、ってわかったつもりでいたことも全部、幻想だったのではないか。

「今からすげえダサいこと言うよ」

倫太郎のその歪んだ表情が……怒りとも悲しみとも言えぬその曖昧な表情が、はっきりと私に知らしめる。私は倫太郎のことを、何も知らない。それを自覚して胸がじくじくと痛んだ。

「名前、高二の時一瞬侑と付き合ってたじゃん」
「へ」
「気ぃ合うから付き合う?ってやりとり、目の前でしてたじゃん。侑が言って、名前もいいよって」
「……」

倫太郎の言葉で私は一気にあの頃に引き戻されて、それから胸がギュッと締め付けられた。甘酸っぱい、ほろ苦い、青春の思い出。

倫太郎が言う高二の時なんて私は絶賛片想い中で、それこそ毎日侑に話を聞いてもらっていた。バレーのことしか頭にないような侑はめんどくさそうに、でもなんだかんだ言って話を聞いてくれるから私はそれに甘えてた。
「敢えて角名の前で俺が名前にちょっかい出して見せればええやん」って。提案したのは侑。ちょっと、聞くのめんどいからってテキトーになってない?って思ったけど、侑曰く「これは絶対上手くいく」、とか何を根拠にそう言っていたのか。

そんなこと信じられない私は、最初はやっぱり渋っていた。


* * *


「嫌やってそんなん……角名に笑っておめでとうとか言われたら私もう立ち直られへん」
「大丈夫、角名はそう簡単に笑わん」
「いやそこちゃうねんけど」
「それにもしそうなったら失恋ついでにほんまに俺と付き合えばええやん」
「はぁ!?な、なん、」
「顔もそこそこやし、胸もまぁ……伸びしろありそうやからな。今彼女おらんし名前なら付き合ったってもいい」
「ほんっっっまに気持ち悪いねんけど!」

結論から言うとこの作戦は上手くいかなかった。二年で集まっている時に軽い口調で「付き合わへん?」と言った侑に、私は角名の様子を窺っていたけど……角名はそれに何の反応も示さなかったし、スマホをいじっていて聞いていたのかすら怪しくて。
頷いた私に、「まじで言うとん?やめとき、侑やで」って止めてくれたのは治と銀だけ。

そうして本当に侑と付き合うことになってしまった私だけど、お互い好き同士だったわけでもないし、一週間後には自然に友達に戻ることになった。
だからその日、ちょうど部活がなくて教室で泣いていたのは侑と別れたからじゃない。この一週間は侑が近くにいてくれたお陰で気が紛れていたけど……やっとこの時、角名に失恋したのを実感したからだ。

泣いて、涙がこの想いごと流れてってくれたらええ。角名の一挙一動に一々喜んで悲しんで、もうこんなに苦しみたくない。片想いはしんどい。
そうやって誰に気を遣うこともなく泣いていた私。こんなときに限って……直前も廊下を歩く音なんて聞こえなかったのに教室の扉が開いて、突然現れたのは角名に驚いた。

「苗字?」
「え、す、角名っ、」
「……帰んないの?」
「あ、……うん。もうちょっとおる……」

やから早く帰って。口には出さなかったけど、その意味は角名にもちゃんと伝わっていたと思う。ず、と鼻を啜る音が静かな教室に響いた。なんでおんの。なんで今日。なんでこのタイミング。まさかの角名の登場に、素直に喜べないのは今私の顔はぐちゃぐちゃで、どう考えても好きな人に見せるものではないから。

だけどまぁ角名だし、こんな泣いてる女子とかめんどくさいってあっさり帰ってくれると思ったのに……まさか自分の前で椅子を引く音がしたのには驚いて、私は思わず角名に視線を合わせてしまった。

「……そんなに、」
「え……?」
「いや、……侑と別れたって聞いたけど」
「あ……うん、ほら、やっぱあんなノリ、やったし」

そもそも私が付き合いたいんは、角名やったし。言えるはずもない言葉は飲み込んで、また俯く。

「……」
「……」

ああもう何この時間、地獄。ごめんやけど早く帰って欲しい。今日ぐらい一人で思いっきり泣いて……そんで明日からはまたちゃんとマネージャーとして笑うから。
角名がいたら正直泣くどころじゃなくて、だからっていつも通り話せるわけもない。

俯いたまま、自分のスカートの上に乗った拳をジッと見つめる。そんな私の前で、角名が動く気配がした。

「え、」
「……」
「す、角名……?」

机越しに、私を覗き込んだ角名と目が合った。びくりと肩が跳ねる。な、なに。角名の表情からは何も読めないし、何も分からなくて。
私は自分が酷い顔だってことも忘れて、こんな至近距離で絡む視線から逃れられなくなってしまった。

「……苗字、俺と付き合う?」
「え……え!?」

それは予想もしていないセリフ。私は弾かれるように立ち上がった。

「侑みたいにって言われたら、まぁちょっと無理だけどさ」
「え、なん、」
「俺なら苗字とまぁまぁ上手くやっていけると思うんだけど」
「……」
「それに一人で泣かなくて済むし」
「……えぇ、?」

なに。なになになに。これどういう展開?相変わらず私を真っ直ぐ見上げる角名の表情は変わらない。
動揺も、緊張も、全部私だけみたいなこの空間は異質で、それでも角名が言った「付き合う?」って言葉がじわじわと私の心に染み込んでくる。

うそ。なんで?ほんまに?涙なんか引っ込んで口をパクパクさせる私に、角名は「どうする?」なんて追撃をかましてくるのだからやめてほしい。
角名がどういうつもりで付き合うかって言ったんかも分からんし、もしかした気まぐれかもしれん。角名がそういう冗談言うとは思えないけど、でもじゃあなんで……って私は未だ状況を理解できないまま。

それでもこの時の私はしっかりと喜びを感じ始め、緩む頬を隠して「……よろしく、お願いします」って頷いた。


* * *


「名前と侑が付き合い始めた時、なんで侑なんだよって」
「えっ、」
「俺だって名前のこと好きなのに、なんでいつも侑って思ってた」

目の前の倫太郎は、本当に倫太郎なんだろうか。知らない表情、どころじゃない。まるで知らない人みたいに知らないことを言う倫太郎が言う「すげえダサいこと」に、私はついていけなくて、なのに心臓は大丈夫か?ってくらいにバクバクいってる。
全然大丈夫ちゃうけど。なにそれ。倫太郎が私のこと好きって言うた。今更気付いた、私は倫太郎からの好きという言葉すら今までで一度も貰ったことがなかったのだと。

なんとなく付き合い始めて、なんとなく今まで過ごしていた。それにしてはうまくやって来れたと思う、倫太郎があの時言った「まぁまぁ上手く」やれなきゃこんなに長続きもしてなかった。手を繋いだり、触れたり、それ以上も私にとっては全部幸せな時間で、その度にもしかしたら倫太郎もちょっとくらいは私のことを……って思う瞬間は何度もあった。
だけど最終的に落ち着くのは結局は倫太郎の気まぐれで、付き合っていても私の片想いは半分続いていると思っていたのに。

「侑と別れたって聞いた時、弱ってるとこに付け入るみたいで汚いってわかってて名前に告ったんだよ、俺」
「なん、それ……」

そんなん聞いてへんって。そもそも告られてへんし。付き合う?って提案された、だけやし。

頬を掴むように添えられていた手が緩んで、親指がするすると私の頬を撫でる。ジワジワと身体中に熱が巡り、でも一番熱いのは触れられているその部分。
ぐちゃぐちゃに泣いて、倫太郎の言葉に真っ赤な顔して、……きっと今の私は高校二年生のあの頃と同じ顔をしている。

「それなのになんかあったらすぐ俺じゃなくて侑んとこ行くのにも、俺には言わないことを侑には言ってたりすんのも、すっげえイライラする」
「りんたろ、」
「俺が俺がって、なんで直接言ってこねえの?アイツんとこいくわけ?」
「待って、」
「名前って昔から俺といる時もずっと侑の話してんの、知ってた?……ほんとふざけんなよって感じだから、マジで」

それじゃあ倫太郎は怒っていたから私に時々塩対応だったわけで、私に興味がないどころかめちゃくちゃあるからあんな態度だったわけで、それで……どれで?
自惚れた思考だって言うのは十分承知している。だけどそうじゃないと、目の前の倫太郎の説明が付かない。

こんなに感情的になる倫太郎なんて初めてなんだもん。期待、したいよ。

「倫太郎、」
「……なに」

とりあえず一旦、この気持ちを伝えな始まらんのかもしれへん。"思ってること全部ぶち撒け合う"ってほんまめちゃくちゃ大事やんって。あの時侑が教えてくれたことに私はようやく感謝した。


21.10.21.
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