角名中編 嘘つき女と無気力男 fin

▼ ▼ ▼


しばらく私は喋ることもせず項垂れていて、治もそんな私に話しかけることはなかった。店の中の雑多な音が脳内に響いて、さっきの倫太郎の声もあの人の声も聞こえた喧騒も全部がごちゃまぜになって思考を鈍らせる。
だけど徐に立ち上がると……私はバッグの中から財布を取り出して、五千円札を一枚カウンターに置いた。

「……行ってくる、わ」
「どこ行くん」
「倫太郎んとこ」
「は?今から?」
「今店出てその足で駅行けば、終電、間に合うし」
「行ってどないすんねん、角名おらんのに」
「だって、」
「苗字も明日仕事あるんやろ」
「休むし」
「……本気かい」
「……本気」

ならもう止めへんわ、好きにしい。そう言った治は布巾で手を拭いて、すぐにお会計をしてくれた。私は小さくお礼を言って、店を出ると小走りで駅に向かう。

遠距離恋愛というのは厄介だ。普通に話したいことも、聞きたいことも、その距離の分すぐには伝わらなくて、その距離の分心も離れていくように思ってしまう。
目を見てその声を聴くだけで安心するようなことでさえ、必要以上に拗れてしまう。どうしてもずっと感じる寂しさが、元々ない自信を更になくしてしまう。

倫太郎のほんのたまに笑ったときの表情が好きだった。柔らかい息遣いが、一緒に寝る直前に私を見つめる視線が、めんどくさそうにしながら私を抱き寄せて頭を撫でてくれるその手付きが好きだった。なのにそれすらも不安に押し潰されて思い出せなくなってしまいそうで。

こんなに勢いで行動したことなんてない。何の用意もなく飛び乗った新幹線、二時間ちょっとの間に倫太郎からのメッセージは勿論ゼロ。
倫太郎の家の最寄りに着いて、来てしまった旨を伝えておこうか迷って……やめた。記憶を辿って倫太郎の家に向かう間も、合鍵をさして部屋に入ってからも、ずっと思い出すのは電話越しに聞いたあの人の声。例えばもしも倫太郎があの人と一緒にこの部屋に帰ってきたら、なんて考えて―――

「!」

スマホが着信を伝える。急いで画面を見て、……そして落胆した。

「侑かーい……」

乾いた声は誰もいない部屋に響く。いや、有難いけども。どうせ治に聞いたんやろ、優しすぎやん。

「……もしもし?」
「あ、名前?お前角名んとこ行ったってほんま?もう着いたん?」
「…………侑、その優しさ彼女に向けた方がええで」
「はぁ?何言うとんねん、言われんでもアイツにはめちゃくちゃめーっちゃくちゃ優しいしてるわ!」
「ほんまかいな……」

ええなぁ。彼氏に優しくしてもらえる、侑の彼女。
こんなこと比べたって仕方ない。羨んだって私も倫太郎に優しくしてもらえるわけじゃない。それなのにどうしても今の私は惨めで、倫太郎だけが悪いわけじゃないのに倫太郎のせいにすれば自分は楽だからって、……よっぽど悪いのは私の方だ。
こんなんやから倫太郎は私に塩対応やねん。ていうかもうほんまに愛想尽かされたんかも……

「おい、泣いとん?」
「……泣いてない」
「声震えとるけど」
「……震えて、な゛い゛」
「嘘つくの下手か」
「だって……だってさぁ、」

嘘でもつかなやってられへんわ。って思いながら、誤魔化しなんかきかないくらいに嗚咽が漏れる。だって。だってだってだって。もう今更、どうしたらええんよ。

「り、りんたろ、おらへんっ、」
「……飯行く言うてたんやろ?もう帰ってくるやろ」
「も、帰ってこぉへん、かもっ、」
「なんでそうなんねん」
「だって、……熱愛、でとったし、」
「それ解決したんちゃうんかい。てか絶対ガセやろあんなん」
「わからへん、やんかぁっ……!」

ぐす、ぐす、と鼻を啜るたびに涙が頬を濡らして、手にも、フローリングの床にも、落ちていく。頭がガンガン揺れるように痛くって、きっと顔もぐっちゃぐちゃで……こんな私なんて倫太郎にも誰にも必要とされないんじゃないかって笑っちゃうくらいネガティブな思考に侵されてしまう。

今の唯一の光である侑だって、この電話を切れば私の知らない顔で彼女のところにいくんだから。

「も、侑、っ、」
「ん?」
「私っ、」

「なにしてんの」

ヒュッと喉から息が漏れた。反射的に振り返れば、眉を顰めた倫太郎が私を見下ろしている。倫太郎。帰ってきたの、全然気付かなかった。
驚いて目を見開けばボロボロとまた涙が落ちて……電話の向こうからは「名前ー?」ってこの場に似つかわしくない侑の声が聞こえていた。

「ビビったんだけど。来るなら言ってよ……って俺も人のこと言えねえけど」
「り、倫……」
「で、また侑?なにそれまだ繋がってんの?」
「あ、……」
「もしもし?」

私の手からスマホを抜き取って当たり前のように耳に当てる倫太郎は、電話の相手が侑だと知っている。

「侑?……うん、あー……うん。うん、ごめん。……ん、…………じゃあまた」

何を話していたのかは分からないけどそのまま通話を切って私にスマホを返した倫太郎は、疲れと苛立ちを含ませた……どう見ても私の来訪を喜んでいる表情じゃないのは確かだった。
さっきの名残で落ちた涙が、この場の空気を更に重くしてしまう。

倫太郎はジッと私を見つめた後……はぁ、とため息を吐いて、冷たくなった手で私の涙を拭った。倫太郎の指がなぞっていった部分がピリピリする。
暫くされるがままになっていたけれど、倫太郎が「で、何してんの」ってまた普通に訪ねてくるその声がいつもより冷たい気がして……私は答えを躊躇った。

「……」
「名前」
「……り、倫太郎が、」
「うん」
「……」
「なに」
「…………」
「……んだよ」

びくりと肩が跳ねる。もういっそ全部吐き出してしまえば楽になれるのかもしれない、そう思って来たはずだった。でも実際は何も考えずにただ動く身体に従った結果が今で、倫太郎の問いへの答えが見つからない。言いたいことも聞きたいこともたくさんあるはずなのに、肝心なことはやっぱり喉の奥をつっかえて出てこないのだ。

「泣いてるだけじゃ分かんないんだけど」
「ぅ、っ、ごめ、」
「あー……もう、なんだよ」
「ごめ、なさいぃ……」
「そうじゃなくて」

そう言って、倫太郎は私の頭の後ろに手を回して抱き寄せる。ゴン、とおでこ同士がぶつかって、地味に痛くて目を瞑ってしまうとそのままガブリと唇を食べられた。

「ん、んん」

泣いていたから息が苦しくて、すぐに根を上げる私に倫太郎は何を思っているのか。酸素を求めて口を開くとそのまま下唇を緩く噛まれてピクリと肩が跳ねる。だけど頭を固定されているから逃げることもできず、かわりに私は倫太郎の胸あたりのシャツをぎゅっと握った。

ほんのりと香るアルコール。これじゃまるで、この前と立場が逆だ。倫太郎はそんなに酔ってるわけじゃなさそうだけど……

「はぁ、っ」
「……」
「や、りんたろ、」

私の非難とも取れぬ曖昧な抵抗なんて、倫太郎にとっては何でもないんだろう。ゆっくりと舌を掬われて、涙ごと飲み込まれて。漸く解放されて大きく息を吐き出した時には、もう身体に力なんて入らなくて上半身は完全に倫太郎に預けている。

沈黙に包まれた室内はさっきまでの重々しい空気はもうなくて……実際にはそこまで私の頭が回らないだけかもしれないけれど、とにかく私は滲んだ視界にしっかりと倫太郎を映すことができた。

「……はぁ、……はぁっ、……」
「……」
「わ、私、」
「うん」

優しい倫太郎の声に、胸がじんとしてまた泣きそうになる。私ばっかりって怒ってたはずなのにいつの間にか怒りよりも不安と悲しみでいっぱいになって、この間一応で仲直りした後だってこんな風に穏やかな気持ちにはなれなかった。

だけどここで流されてしまえばまた同じ。もう私の中だけで留めておくには大きすぎる気持ちを、それが例えこの後どうなるんだとしてももうぶちまけなければならない。
どくん、どくん、って緊張で吐きそうなくらいに胸が鳴っていた。

「私ばっかり、好きなん、」
「……はぁ?」
「私ばっかり倫太郎のこと好きで、それがしんどくって、……倫太郎がどう思ってんのかとか、何考えてんのかとか、何も分からん……」
「……」
「倫太郎が私のことちゃんと好き、なんか、ずっと不安やった……」
「だから来たの?」
「……ん、……あの人」
「あの人?」
「倫太郎が、熱愛の……あの人んとこ、行ってまうかもって……」
「行かねえよ」
「いたっ」
「行くわけないじゃん」

別にほんまに痛かったわけちゃう。ぺちりと音を立てて頬に添えられた手はさっきよりも温かいのに、まるで叱られた子供のようにまたじわじわと涙が込み上げてくる。
怒ってるのか怒ってないのかも分からなくて、真っ直ぐに見つめ合うことから逃げようとするとグッと倫太郎の親指と手のひらに力を込められる。

「また逃げるの?」
「な、なん……」
「いっつもそうじゃん。だからそんなこともずっと俺に言えないんでしょ」
「……」
「名前が言ったんだから俺が言いたいことも全部聞いて欲しいんだけど」

ゆらゆらと揺れる倫太郎、その眉がグッと寄せられて。……表情の意味を知るのは怖いのに、もう私はその瞳から逃げられない。
覚悟を決めたのは私か倫太郎か、はたまたお互いか……それを知る人なんていまここに誰もおらんかった。


21.10.20.
- ナノ -