黒尾中編 炎天下のチェリー・ガール fin

策士夏に溺れる


「苗字どこまでやった?」
「えーっと、ここまで」
「え、結構やってる」
「そりゃあね!終業式の日にだいぶ終わらせたからね!」
「にしては終わってねえな」
「はぁ!?やんのかコラ」
「だってそっからやってないっしょこれ」
「…………」
「はい図星ー」

音駒高校近くのファミレス、向かい合って座る黒尾は意地悪く笑ってから私のワークに"バーカ"と書いた。反対向きに書かれた黒尾の字は絶妙に私の書いた答えの上で主張していてムカつく。ちょっと!これ提出のやつなんですけど!?ていうかちゃんと他の教科は終わらせたし!

書かれた落書きを消しゴムで消しながら盗み見た黒尾は、自分の問題を解いているのかもうこちらに見向きもしない。
店内の冷房は効きすぎなくらいで、一応持ってきていた薄手のカーディガンを羽織って丁度いいくらいだった。

「にしても黒尾が終わってないの、意外だよね」
「俺は練習も合宿もあったんですぅ」
「うわっ、言い訳だ」
「そんなこと言う苗字が終わってないってのはどういうことデスカ?」
「…………」
「……はいはい、わからないとこどこ?」
「ここ……」
「あーそこね、そこは……」

身を乗り出して教えてくれる黒尾は思いの外真剣な表情で、ドキドキする。ちょっと待って、別に普通に勉強してるだけなのに何でドキドキ?
そのせいで全然頭に入らない内容は、勿論問題を解かせてはくれない。

「……って感じ。分かった?」
「えっ、いや全然」
「はぁああん?お前今聞いてた?」
「き、聞いてた聞いてたっ」
「いーや聞いてなかったな今のは」
「……もう一回教えて?」
「……今度はちゃんと聞けよ」

そう言いながら、また最初っから解説を始める黒尾に胸の奥の方がきゅんと鳴った。問題を指差す骨張った指に男の人を感じて、これまであまり意識しなかったくせに今になってそういうところばかり気になる自分が恨めしい。い、今は集中!集中して!って言い聞かせてもそう簡単にはいかず、チラリともう一度盗み見た黒尾と「!」バッチリ目が合って。

「……聞いてねえな?」

って。じとりと甘く睨まれながら言われて、息が詰まった。な、なにそれ。怒られると思ったのに全然そんなこともなく、予想外の表情に戸惑った私は分かりやすく吃ってしまう。

「きっ、聞いて、る」
「はい嘘ー、なに、集中切れてきた?休憩する?」
「え、でも……」
「うん、まだ何もやってねえけど」
「…………」
「まぁまだ時間あるし。大丈夫デショ」

そう言って笑った黒尾は、立ち上がり私のグラスも持つとドリンクバーへ行ってしまった。

「……なに、今の」

そんな顔、したことあったっけ。いつもの馬鹿にしたり揶揄って面白がってるとかそんなんじゃない、しょうがねえなあってちょっと甘やかされているような柔らかさがあった、今の黒尾。
そんなのに慣れてない私は、そんな風に不意打ちの甘さにどうすればいいのか知らない。黒尾ってもしかして、結構私のこと好き?とか。考えかけてはぶんぶんと左右に頭を振る。

先日の夜の出来事以来、私と黒尾の間にはびっくりするくらいに何もなかった。少しは期待してたんだよ。……好き、って言われるのかなって。付き合うことになるのかなって。だけど黒尾は何も言ってくれなくて、私も何も言えなくて。あの後もふわふわした空気は存分に残したまま、解散してしまったのだ。

あれ?……もしかして夢だった?それか私の願望?そう思ってしまうくらい、ほんとに何も、何もない。これじゃ以前と変わらない、クラスメイト。友達。それにモヤモヤして、何かの間違いだったのかと胸がぎゅうって締め付けられる。

こんなんじゃ宿題も手につかないよ。私バカだから、ずっと黒尾のこと考えちゃうんだよ。あの日の空気とか、温度とか、感触とか……そういうことを思い出して何度もベッドで悶えて。今まで以上に私の頭の中を占める黒尾に私はお手上げで、それならもう本人にちゃんと聞けばいいじゃん!なんて我ながら思い切ったと思う。普段中々踏み出せないくせに、不安なくせに、あの日の黒尾を嘘だと思いたくない気持ちの方が今は上だった。

「苗字?」
「へっ」
「ぼーっとしてんね」
「いや、その、……うん、……あ、それっ!ありがとう!」
「なんだそれ。ほい」
「な、なんにもない……、ぶふぉっ!!?」
「ぶっ!はははははっ!汚ねえ!」
「ちょっと!なにこれ!」
「ひゃっひゃっひゃっ……!ふっ……くく……りんご、グレープ、ソーダ、紅茶、コーヒー、ホワイトウォーター……全部混ぜでございマース」
「さいってい!めちゃくちゃ不味いんですけど!?」
「色見て気付くと思ったのに苗字飲むんだもんなぁー、はぁーーー笑った」

……あれ?やっぱりいつもの黒尾?
戻ってきた黒尾から受け取ったドリンクを、ストローで吸い込んだ瞬間に吐き出してしまった私。それを見て爆笑する黒尾と、怒る私って。あまりにも普通すぎた。

さっきの色を含んだ視線はどこにやってしまったのか、またいつも通りに戻ってしまった空気。
「夏休みの課題一緒にやろうよ」って呼び出したけど、もう一つの、っていうか本命の理由である「それと話したいことがあるんだけど」はまだまだ切り出せそうになかった。


それからも一通り課題をやって、帰ろっかって切り出したのはどっちだったか。午前で部活が終わった黒尾と昼過ぎに会ってから、もう何時間も経っていた。

「終わって良かったな〜」
「いやぁほんと。これで残りの夏休み全力で楽しめる〜!」
「でも夏休み明けの実力テスト、勉強しとかないとまた補習になりますよヨ?」
「わ、分かってるし!」
「ぶふっ……今日教えたとこ絶対出るから。そこだけでも復習しとけば?」
「……うん、」
「…………」
「…………」

一ヶ月前よりも少し涼しくなったこの時間、ひぐらしに混じって秋の気配を感じさせる鳴き声が聞こえる。言葉少なに歩くのは、この夏休みに何度か一緒に歩いた道で。
今、だよね。今しかないよね。会った時から何度も何度も頭の中で繰り返した言葉は、カラカラになってしまった喉から漸くこぼれ落ちた。

「……ぁの、」
「ん?」
「……ちょっと、話、したい……から」
「あー……公園寄ってく?」
「う、ん」

黒尾が指さしたのはここから見える公園。……この間、私たちが立ち寄った場所だった。
砂を踏む音がやけに大きく聞こえて、加えて心臓の音も煩い。それはあの時とはまた違う、……何が起こるか分からない不安じゃなくて、今から伝えようとしている言葉への緊張だった。

あの日とは違う、ベンチに腰掛けた黒尾に倣って私も隣に座る。人一人分空いたそのスペースがもどかしくて、だけど伸ばしたい手が動くことはなかった。

「…………」
「…………」
「……話、なんだけど」
「んー……俺から話していい?」
「えっ」
「ごめん。でも、俺から話させて」
「…………ぅん」

どくん。一度大きく胸が鳴る。黒尾が少し私に身体を傾けて、そうやって絡んだ視線には色んな感情が見え隠れしているように思えた。あ、なんか、泣きそう。どうしてか分からないけど鼻の奥がツンとした。

「…………あー……ぁー……うん」
「……?」
「その。言ってねぇなって……ことが、あって。……伝えたくて」
「……うん」
「……あー……その、」

こんなの、期待するなって方が無理だと思う。だってそのゆらりと揺れる瞳がこの前と同じだから。夢だったわけがない。そう、言っている気がした。
そう思ったらその視線さえ甘いような気がして、それがまた別のドキドキに変えていく。

涼しいと思っていたはずなのにじわりと濡れた肌が、この瞬間瞬間をスローモーションのように感じさせた。

「……苗字名前サン」
「っ……」
「一年の時からずっと好きでした」
「ぇ、あ、……」
「俺と付き合ってください」
「…………、っ」
「……返事、欲しいんですけど?」
「……わっ……私も。……黒尾のこと、好き」
「うん」
「だからっ……よ、よろしく、お願いします……」
「……っしゃ!」

私の言葉に、はにかむように笑った黒尾。グイッて私の手を引っ張って、もどかしかった距離が埋まる。黒尾のシャツにぐいっと頭を押し付けられて聞こえた、どくんどくんって私と同じくらいに速いその音に胸がいっぱいになる。ぎゅう、ってちょっと痛いくらいに抱き締められるその力から色んなものが見えた気がして、歪む視界を誤魔化すように私も黒尾の背中に腕を回した。

「なんかさ、」
「うん」
「夢みたい」
「えぇ?」
「この前のアレも……帰ったあと夢だったんじゃないかって考えたりして、」
「ふっ、」
「……笑わないでくださーい」
「ちが、……ふふ、私もだったから」
「え?」
「私も。……夢だったんじゃないかって、何回も思ったよ」
「……へぇ」
「だから一緒」
「あーくそ……可愛いすぎない?」
「は、はぁっ!?」
「あ。戻っちゃった」
「ううううるさい!」

クツクツと笑う黒尾に合わせて揺れる身体が、この振動さえもが愛おしい。だって仕方ないじゃん。黒尾とこうしてるのだって恥ずかしいし、でも嬉しくて、黒尾が同じ気持ちなんだって改めて奇跡みたいに思うから。

「あ。それで、苗字の話って?」
「えっ」
「話したいことあるんだろ?何?」
「いや……いや!」
「んー?」
「ニヤニヤすんなバカ黒尾!」
「えー?してませんけどー?」
「してるじゃん!分かってるくせになんでそんな意地悪すんの!?」
「ボク好きな子ほど意地悪したくなっちゃうみたいなんで?」
「す、すすす、好きな子とか言うな!」
「ぶっは!顔真っ赤!」
「黒尾もだからね!?」

静かな公園に私たちの声だけが響いて、そう簡単にはこの前みたいな良い雰囲気を作れない私たちだけど。だけど私も黒尾もきっと今同じ気持ちで、これはこれでアリなんじゃないかって思える。
夏休みが始まるときはこんなことになるだなんて、考えてもみなかったのに。

「……黒尾」
「ん?」
「、好きだよ!」
「えっ」
「ふふ、顔真っ赤ですけどー?」
「おまっ……ばーか!……ばぁーか!」
「あははは!」

ぎゃいぎゃい騒いで、いつの間にか追いかけっこが始まって。騒ぎすぎて汗だくになって、なのに楽しくてやめられない。こうやって過ごした夏を、私はきっとこれからもずっと忘れないと思うんだ。


21.08.02 fin.


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