黒尾長編 アカシアを君に贈りたい fin

私の今日を目覚めたら
 昼休みに黒尾が言った言葉が頭をよぎった。先日も訪れた二度目の黒尾の家、黒尾の香りでいっぱいの黒尾の部屋。落ち着いて、なんていられない。むしろ毎秒心拍数は上がってるんじゃないかと思うほど心臓は忙しなく脈打っていて、ソワソワと落ち着かない視線は部屋の至る所を行ったり来たりしていた。
 だってほんとに連れて来られると思ってなかったし。冗談だと思ってたし!

 事の発端は私が今日の朝見た夢の話。夢の中でも私は黒尾にドキドキして、夢から覚めても私は黒尾にドキドキしてる。
 こんなの悔しい、私黒尾のこと好きすぎじゃんかって思うけど、それはもう今更だし認めるしかない。
 夢の中で黒尾に抱き締められて、首筋に感じた熱い息遣い。夢の続きって、それって……?

「苗字、座んねぇの?」
「すわ、座ります」
「……飲む?」
「飲み、ます」
「んな分かりやすくガチガチになられたら逆に面白えんだけど」
「黒尾はいつも面白がってるじゃん!」

 来る時に買ったペットボトルの紅茶を口に含んで、それでもやっぱり落ち着かないのはどうしたらいいのか。先日来た時もそれなりに甘い時間を過ごしたこの空間が追い討ちをかけてくる。
 だって私、もしかしたら今日この後……って変な想像しない!やめて私の頭!

「あー……映画でも見る?」
「へ、え?」
「まぁそうなったらリビングだけど」
「えっと」
「それともこの前みたいにいちゃいちゃする?」
「い、っ……!?」

 苦笑いしたように一瞬気遣った黒尾が、次の瞬間にはちょっと意地悪な瞳で私を見つめるから……途端にボッと赤く染まる頬。いちゃいちゃ、なんて黒尾の口から聞くとは思わなかった。どうしたらいい?どうするのが正解?経験値がなさすぎてこの間みたいに固まっていたら、この間みたいに黒尾がなんとかしてくれないかな……って丸投げな思考。

 嫌じゃないから困る。ただ恥ずかしいだけ。でも口に出すのなんて、絶対無理。
 スカートの裾をぎゅうっと握って、黒尾の視から逃げるようにキョロキョロする私。うう。なんか言ってよ。

「…………」
「…………」

 きっと私の黒尾任せな考えに気付いての沈黙なのだと思う。あくまで私から何をしたいのか言わないと動きませんよって構えを感じる。結局また黒尾に視線を戻して、にやにやと私を見遣る黒尾にごくんと唾を飲み込んで。

「……いちゃいちゃ、って、なに」

 ほんの小さな声で、そう呟いた。

「お。いちゃいちゃに興味がおありですか苗字サン」
「か、揶揄うならもう……」
「うーそ。ほら、おいで」
「なに、……」
「この前みたいに俺の膝乗って、こっち向いて」
「む、むむむ無理!」
「無理じゃない」
「無理だってば、」
「無理じゃないデース」
「ぎゃっ!」

 なんてデジャヴ。これ、この間もした。強めに引っ張られて倒れ込んだのはベッドに腰掛ける黒尾の上、あれよあれよと誕生日デートの日と同じように黒尾の上で黒尾に向かい合った私は、緊張で吐きそう。
 やっぱりまだ慣れないよ。黒尾の体温とか、教室とは明らかに違う視線とか、その他諸々。私はこういう空気に圧倒的に不慣れで、居心地が悪い。

 夢でもこんな匂いした気がする。いつも無意識に嗅ぐから覚えてしまっていたのだろうか、黒尾の柔軟剤だか制汗剤だか分からない香りがいつもより強くてくらくらして、それでもその視線に捕まってしまえば抵抗することもできなくって。

「苗字」
「ん……」
「恥ずかしい?」
「う、ん」
「でしょうね、顔真っ赤」
「分かってるなら聞かないでよ……」
「でも俺はそうやって苗字が恥ずかしがってんのが見たいんだから仕方なくない?」
「く、黒尾趣味悪い」

 ぷに、と頬を摘まれて、それからコツンとおでこをくっつけられる。一瞬にして空気を蕩けさせるのがうまいこの男はなんなんだ。この、二人きりになった時だけの甘い空気に、それから触れたところから伝わる熱に、溶けてしまいそう。近いよ。掠れた声でなんとか呟いた言葉にも、黒尾はくくっと笑うだけだった。

「でも破廉恥な夢見たのはそっちじゃん」
「破廉恥じゃないし、ゆ、夢だもん……」
「知ってる?夢って願望の現れなんだって」
「へ」
「つまり苗字は俺とソウイウコトしたいってことじゃんね?」
「ち、違っ、」
「……嘘」

 ちゅ、と触れ合う唇。ぴくんと肩が跳ねて、だけど目を瞑る暇もなかった。願望だなんて否定したいのに、私の表情を見てにたりと笑う黒尾に私はこの先を期待せずにはいられない。
 何度も言うけど、嫌じゃないんだよ。胸が痛くて、悲しくないのに泣きそうなのは恥ずかしいから。ドキドキしすぎて苦しいから。

 頬に添えられたままだった手が、首筋に降りてくる。すすすと焦ったくなぞるその手つきに擽ったくて身を捩るけど、黒尾はやめてくれない。

「じゃあ夢の中の苗字は嫌だったワケ?」
「えぇ……」
「よい、しょっと」
「わっ」

 黒尾が私の腰に手を回してそのまま後ろに倒れ込めば、私も一緒にふかふかのベッドに沈む。かと思えば体勢を変えて黒尾の上から隣に移動させられて……気付けば夢で見たみたいに、寝転んだその後ろから黒尾に抱き締められているみたいになっていて。
 ドクン。また心臓が跳ねる。今朝目覚めた時の何倍も頭がふわふわしている。だってこれは間違いなく現実で、うなじに当たる黒尾の息も感じる熱も全部本物なのだ。

 なに。なに!内心パニックになってる私なんてお構いなしに後ろから首筋に顔を埋められて、さっきしたみたいに今度はそこにキスされる。どんな顔してるのって、見たくても振り向けない。さっきだって正面から抱き締められていたのに、顔の見えない今の方がその時よりずっと緊張しているなんて変な話。

「……ドウデスカ」
「どう、って」
「夢とおんなじ?」
「う、うん……」

 おんなじだけど、おんなじじゃない。リアルにこんなことが自分の身に起こってるって、まだ半分信じられないよ。

「こっからどうなったの?この続き聞いてなくね?」
「え?」
「俺が苗字の首に顔を埋めて――――その後」
「そ、そこで目が覚めたからっ」
「ふぅん?」
「ほ、ほんとだってば」
「何も言ってねえじゃん」

 いっそ揶揄ってくれた方がマシだった。それなのに耳を擽るその声は至って真面目というか、茶化すような雰囲気は感じ取れない。
 もう無理、ほんと無理……!私は身体を捻ってそこから逃れようとした、そのときだった。

「ぅ、ひゃっ、あ」

 ざらりと首筋を伝う感触。黒尾がその場所を、舐めたのだ。

「な、何するの!」
「いやぁ……なんとなく?」
「やめてよ、変態!」
「えーそれはひどくない?」
「や、だ、って」

 必死に抵抗してみても、黒尾はそのままちゅ、ちゅ、とその場所に軽く吸い付いてくるから私の身体は勝手に反応してしまう。なにこれ。なんて拷問。恥ずかしくて恥ずかしくて、ぼろぼろと涙がこぼれる。それなのに黒尾は尚楽しそうにそれを続けるから、私は吐き出す息がどんどん熱くなっているのに嫌でも思い知らされた。

「あ、っ、やぁ、」
「あーやば……苗字、変な声出すなって」
「変、なこと、してるのは、黒尾でしょおっ」
「変な気分なってくる」
「んんん、あっ……」
「ちょっとマジで苗字それは煽りすぎ……で、しょ、」

 我慢の限界、だった。ぞくぞくと今までに感じた事のないような感覚が身体中を駆け巡って、自分がどうなってしまうのか分からなくて不安で。

 こんなことしたことないから分からないけど、世のカップルってみんなこうなんだろうか。周りの彼氏持ちの子達は普通にこんなことをしてるのだろうか。
 正直私と黒尾がこういう……いちゃ、いちゃ?するのってなんか想像できなくて、いや現在進行形でしてるんだけど、どんな反応をすればいいか分からないっていうか。だって普通にキスするのもまだ恥ずかしいのに今なんてこんな、……ちょっとえっちな空気になってる気がするのは私の気のせい?

 このまま流されてどんどん次に進んじゃったらどうしよう。次ってなにって具体的には分からないけど、でもそれはその、もっと恥ずかしい……
 なんて考えていると私の表情を見ようと上から覗き込んできた黒尾。目が合った黒尾は一瞬フリーズした後、面白いくらいに青ざめていく。

「な、おま、泣いて、」
「え、?」
「え、わ、悪い、ちょっと悪ふざけしすぎた、え、」
「え、え、」
「苗字の反応があまりにも可愛くて止まんなくなったっつうか、ごめん、怖がらせるつもりなかったんだけど」
「黒尾、」
「ごめんほんとまじごめん」
「ちょ、黒尾、待って」
「とりあえず起きよ、うん、話はそっから……」
「待ってってば!」
「う、おっ」

 つらつらと出てくる黒尾からの謝罪に、私は一瞬呆けてしまった。あ、これもしかして、怖くて泣いたって思ってる……?ってすぐに気付いて、でも黒尾は私の話を聞いてくれない。

 少しだけ目を逸らされているのに地味に傷付いて、さっきまでの甘い空気が一瞬にして引いていく。しかもそのまま身を起こそうとする黒尾に、咄嗟に私はその腕を引っ張って静止させた。

「……」
「えー……っと、苗字?」
「……バカ」
「はいバカですゴメンナサイ」
「違う、もん」
「……」
「い、嫌なわけじゃ、ない、し」
「え?」

 こんなこと言いたくない。恥ずかしくて顔から火が出そう。でも勘違いされたままも嫌で、だってそもそも私がこういう夢を見たって話したからこうなったわけだし、だから黒尾までがそんなちょっと傷付いたみたいな顔をするのは不本意だった。

 滲んだ視界越しに黒尾を見たことなんて悲しいかな何度もあるのに……そうじゃない、今はただただ羞恥の涙が零れ落ちる。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返すたびに落ちる雫に黒尾は分かりやすく眉を下げて動揺していた。

「苗字、」
「ご、ごめん……でもこれ、嫌なわけじゃなくて、」
「……」
「その、恥ずかしかった、だけで……」
「……ほんとに?」
「ん……でも、い、いきなりこういうのは……まだ慣れない」
「そ、だよな……ごめん」
「だからって嫌なわけじゃないから、」
「……そんな何回も言わなくても」
「だって黒尾が……!」

 謝るから。自分でもこの気持ちがどういったものか分からないけど、でも後悔してほしいわけじゃなかった。さっきまでやめてほしくて仕方なかったのに今はさっきまでの熱が引いてしまうのが少しだけもどかしいなんて……流石に言えやしないけど。

「……も、もうちょっと、待って欲しい……」
「……ん」
「ごめん……」
「いや、待つけど全然。苗字が良いって言うまで」
「う、……」
「……嫌ではなかったんでしょ?」
「ん……」
「ま、今はそれだけで十分」

 そう言ってやっと少しだけ笑ってくれた黒尾は、もういつも通りだった。それにホッとしたような……少しだけ残念なような。

「さて、じゃあほんとにリビングに行きますか」
「えっ」
「え、なに」
「や、その」
「なに」
「その……もう少しこのままじゃ、だめ、ですか」
「……」

 私の言葉にスンッと真顔になる黒尾が怖い。でも、だって。確かにこの先に進むのは怖いけど、でも今ならもうちょっと素直に甘えられる気がするんだもん。いつもと違う、恋人同士の時間を……もう少しだけ味わいたいんだもん。

 そんな想いが伝わったのか、「あー……」って唸った黒尾はガシガシと頭を掻いて、それから私の鼻をぎゅっと摘む。

「はひっ」
「……なんか試されてんのかなぁって」
「はへはへへふ……?」
「……いや、なんもない。明日学校で照れて無視するとかやめてネ」
「んっ」

 そう言いながら降ってきた口付けに、今度こそ私は目を瞑る。緩く合わさった唇がやわやわとその感触を楽しむように撫でて、かと思えば下唇に甘く噛みつかれて。
 あっという間にまた火が灯る身体にまだ気付かないフリをしながら……私は黒尾の首に腕を回すのだった。


21.11.27.
title by ユリ柩
ashurahime 2nd anniversary より
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