黒尾長編 アカシアを君に贈りたい fin

好い唇にご褒美を
「……なぁ」
「……なに?」
「いつまでそこにいんの」
「きょ、今日はここでいいの!この場所が気に入ってんの!」
「……そんな扉の前が?」
「うん!あーめちゃくちゃ居心地いいなぁここ、黒尾の部屋で一番お気に入りかもなぁ〜〜」
「…………」
「…………」

くすりとも笑ってくれない黒尾にめげそうになるけど、いやいやこんなところで折れてたまるかと私は首を振る。
ドア前に座り込んでいつもより随分遠くにいる黒尾を見れば、黒尾もまたそれはそれは分かりやすく不満気な顔でベッドに肘をついてこちらを見つめていた。

季節は春。つい先日音駒高校を卒業したばかりの私達は、三年の時のクラスの集まりに参加したり、二人で少し遠くまで出掛けてみたり、あとはこうやってお互いの家を行き来したり。十分に春休みを満喫していると思う。
今日もお互いの大学の入学前課題をするために黒尾の部屋に遊びに来ていた私は、つい数十分前の出来事を思い出して密かにため息を吐いた。


* * *


「ね、なにあれ?」
「あー、この前掃除してきたときに出来たやつ。なんかボードゲームとかトランプとかめちゃくちゃあって、ちょっと処分しよっかなあって」
「ふーん?あ、オセロある」
「やる?」
「いいの?」
「別にいーよ。俺も久々にやりたくなってきたわ」
「一人じゃできないもんねぇ。……あ。ねぇ黒尾」
「?」
「せっかくだから、負けた方が勝った方の言うこと聞く……ってことにしない?」

って。勉強の合間の休憩時間にそう提案したのは私の方。だから、それで負けたのも私だからってやっぱり嫌だなんて言う権利はない。っていうか、そんなことを言わなきゃいけないほど大したことを言われるとは思っていなかったんだ。

「よっしゃ!」
「何最後の!最後の一個であんなひっくり返る!?」
「ぶひゃひゃひゃひゃっ!あれなくても負けてただろ今のは!」
「く、悔しい〜〜」
「勝ったから一個、俺の言うこと聞いてくれんだよな?」
「……致し方ない」
「やりぃ」
「なに……」
「そうだな、じゃあ……そろそろお互い名前で呼ぶ……ってのは?」
「え……」

他の人からしたら、大したこと?ってなるかもしれない。だって黒尾と私は一応その……彼氏と彼女、だし、名前で呼び合っていてもおかしくない。むしろ付き合って約半年、未だ苗字で呼び合っている方がおかしいのかも。
でも考えてみると友達期間の長かった私達が今更名前って……単純に恥ずかしいじゃん!


それで私が渋るから、最初はにやにや笑って私の反応を面白がっていた黒尾も段々と機嫌が悪くなって……それで今だ。勘弁してほしい。そりゃあやっとお付き合いにもちょっとは慣れてきて、例えばこうやって二人きりで部屋にいても前よりは緊張しなくなってきたけど……

それでも未だドキドキと高鳴る心臓の音に気付かれたくないのだ。どうしてとかはなく、ただ単純に恥ずかしいから。黒尾にそういうことがバレると十中八九揶揄われると知っているから。

だからって別に喧嘩したいわけでもないのになぁ…………

「苗字」
「……なに」
「勉強しねーの」
「ん……」

喧嘩したいわけじゃないのに一向に良くならない空気に、お腹のもっと奥底の方でモヤモヤが広がっていく。こういうときにどうしたらいいのか分からないのが辛い。そしてあんなこと言わなきゃ良かったって今更後悔しても遅い。
一つ言いたいのは、別に嫌じゃないんだよって。ただ恥ずかしい、照れ臭いだけなの。

居心地の悪い空間にどうしようか悩んでいると、黒尾がスッと立ち上がる。それに大袈裟にびくりと肩を跳ねさせてしまった私はそのまま黒尾を見上げると、私の前までやってきた黒尾はそのままその場でしゃがみ込んだ。
ま、真顔すぎてこわい……!体勢も相俟ってヤンキーみたいなんだけど!?……なんて勿論言えない。
ただただ私は、黒尾がどう出るか待つことしかできなくて。

すると、黒尾はその場で座り込んだ。「えっ」思わず出た音は勿論黒尾にも届いていて、何を思ったのだろう、そのままその場で胡座をかいて大きく腕を広げる。

「…………」
「な、なに……」
「…………」

来いってこと……?

何も言わない黒尾は怒っているのか呆れているのかも分からない。だけど私だって、早くこの空気をどうにかしたいとは思っているから。
恐る恐る、私も黒尾に腕を伸ばす。すると、「わ、っ!」その腕を引っ張られてくるりと反対を向かされた私は、そのまま黒尾の胡座にすっぽりと収まってしまった。どくんどくん、って心臓がまた忙しなく動き出す。ほら。ぎゅうってお腹にまわるその手の温度だけで、私はまたこんなにドキドキするんだよ。

「……黒尾?」
「……名前、」
「へっ」
「名前」

顔は見えない。けれど、私の名前と共に首筋にかかる息が擽ったい。……それから、胸が苦しい。
グンと上がった体温に黒尾は気付いているんだろうか。その口が、その声で、たった一言。普段はなんでもない私の名前を黒尾が紡ぐだけで、私はこんなになってしまうのだ。

「名前」
「な、も、もうやめて……」
「なんで?嫌?」
「嫌、とかじゃないけど……」
「じゃあいいじゃん。名前」
「ねぇ!」
「名前」
「ちょっと!面白がってる!」
「だって照れてるの可愛いし?」
「かわっ、……はぁ!?」
「うおっ、暴れんなって」

慌てて黒尾の上から退こうとしたら、優しくまた拘束されて。恥ずかしい。恥ずかしいけど……嫌じゃない。
先程までの威圧感はすっかりなくなって私の顔を覗き込もうとする黒尾はなんだかいつもより甘さを孕んでいて、そんなの益々こんな顔を見せるわけにはいかないじゃん。だって今、やばいもん。

「なぁ顔見せて?」
「無理っ」
「なんでよ。……名前」
「ヒッ……」
「こっち向いて?」

フッと耳に息を吹き掛けたのはきっとわざとだ。そろりと首を捻って非難の目を向ければ、目が合った黒尾は薄ら笑っていて。何笑ってんのよ。こっちはいっぱいいっぱいだってのに。

「はいやっと目が合いました〜」
「なんなのほんと……」
「名前。呼んでちょーだいよ」
「まだ言う?」
「だって嬉しくない?名前で呼ばれんの。名前だけずるい」
「私が言ったんじゃないんですけど!?」
「そんな真っ赤な顔して言われても、ねぇ?」

くつくつと黒尾が笑う度に振動が伝わって、教室で話していた時とは明らかに違う、コイビトとしての距離感と空気感に戸惑う。慣れたって、そんなの誰が言った?こんなの全然慣れてない。

片想いしてた時とは違う、私ばっかりが好きだと思っていた付き合いだした頃とも違う、明らかな黒尾からの好意を全身に浴びて、少しでも気を抜くとドロドロに溶かされてしまいそうなくらいに甘くて。

「はい、リピートアフターミー。鉄朗」
「……黒尾」
「ノンノン。鉄朗?」
「……て、てつ……」
「お。てーつーろーう、はい」
「てつ……て、てて、てつ、」
「ぶふっ壊れたオモチャみてえ」
「あああもう嫌だ!やっぱ無理!」
「えー……呼んでくんねえの?」

う゛。その顔やめてよ。なんか私が悪いことしてる気分にさせられるじゃん。「こっち向いて」って言われて足を揃えた黒尾の上で向かい合わせになるように体勢を変えると、さっきよりもはっきりばっちり黒尾の顔が見える。
腰に回された黒尾の手は優しいようで実はガッチリ組まれていて、どうやったって逃げられそうにはない。ううん、そもそも私は自分でここにきたのだ。逃げようとも思ってない。

恥ずかしくて逃げたくなるくらいに甘いこの瞬間を、頭より先に身体が求めてしまっているのか。名前、呼びたいけど。私だって黒尾に喜んで欲しいんだけど。
気持ちだけは十分にあるのに、たった四文字が言えなくて。口を開いて空気を吐いて、なのに音は乗ってこない。
そうやって口をパクパクさせてどれくらい経っただろう。忍耐強く待ってくれているというか、ただ頑固なだけというか、何も言わない黒尾に私も腹を括る。

よし。呼ぶぞ。ただの名前じゃん、そんな恥ずかしいことではない!なんて、口を開いた私に黒尾が一瞬期待を覗かせた。

「てつ……」
「ん」
「て、てつ……ろ、」
「おっ」
「……くん」
「……は?」
「……テツローくん」
「……まさかのくん付け」
「だっ……だってこの方がまだちょっと恥ずかしさ紛れるじゃん!?」
「いやどんな理論よ」

吹き出して笑う黒尾に逆ギレみたいに言い訳を重ねた私。だって、そうじゃん!なんか普通に呼び捨てよりこっちの方がまだマシじゃん!?
だけど黒尾は、子供みたいに笑って、ひとしきり笑うとそれからジッと私を見つめる。

「もう一回」
「えっ」
「もう一回呼んでみて」
「…………」
「ほら」
「……鉄朗、くん?」
「うん」
「……鉄朗くん」
「はい」
「……やっぱ無理!やめる!黒尾は黒尾だし!」
「ちょっ、それはないんじゃない?」
「無理です!まだちょっと我慢してて!」
「えー……」

だって。だってだってだって!きっと今日一真っ赤に染まってしまった顔を見られないように、今更ながら俯いて隠す。
私が名前を呼ぶと、すっごく嬉しそうに笑う黒尾。そんな表情するなんて聞いてない。そんな、幸せでたまらないって顔するなんて知らないよ。

「……名前サン?まじでもうほんとに呼んでくんねーの?」
「……まだちょっと……無理」
「ふーん……まっ、そんならもう少し我慢しますかぁ」
「……ごめん」
「いや?今後の楽しみが増えるだけですし、これはこれで?」

恐る恐る、窺うように顔を上げて確認した黒尾はいつものようにまたニヤリと口角を上げるだけで。何故かそれにきゅうんと胸が締め付けられている私に、黒尾は気づいているんだろうか。

「期待しないでください」
「無理でーす」
「……でもまぁ、たまになら?」
「はー?絶対普通に呼べるようにしてやっからな」
「それはどうだろう」
「……じゃあ呼べるようになるまでは俺も苗字って呼ぼ」
「えっ」
「あ。今残念そうな顔しましたね、お嬢サン?」
「し、してない」
「した」
「してない」
「した」
「してない!」

また肩を揺らして笑いながら、なんでもない風にちゅって唇を掠っていくその口が憎い。あぁ、今日も私は黒尾に振り回されてるなあ、なんて。
こんなことを言ったら「どっちがだよ」って言われるとは想像もしない私は、相変わらずドキドキと煩い心臓に翻弄されながらも黒尾の背中に回す腕に少しだけ力を込めた。今はこれが精一杯だよ、って。


21.07.30.
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