でも黒尾は理由もなくこんなことしない。私が今日を楽しみにしていたのは黒尾だって知っていて…だからきっと何かあったんだ。…何かって?
…せっかく準備、したし。ケーキも、作っちゃったし。せめてこれを届けて、一目顔を見るくらいは許されないだろうか。考えて、悩む。
普段の私なら絶対そんなことしない。だって理由は分からないけど黒尾が無理だって言ったんだから今日は無理なんだろう。後から連絡は来るだろうし、日を改めるべきだ。押しかけたら迷惑になるし、最悪引かれるだろう。
だけど私にとってもう今日は、ある意味黒尾の誕生日当日よりも特別な日で。どうしても、会いたくて。こんな状態のまま月曜日に黒尾と顔を合わせたら、私は何て言ってしまうか分からなかった。
だから……気が付けば私は家を飛び出していた。黒尾の家は前に教えてもらったことがある。行ったことはないけど、割と近所だからあああそこ…ってなったのを覚えていた。
15分ほど歩いて見えて来た黒尾の家。家を出る直前に送った私の"ケーキだけ届けに行っても良い?"には既読すら付いていなくて。
「…黒尾、いるのかな」
思わず出た弱気な声。呟いたのと、別の道から黒尾が現れたのは同時だった。黒尾いるじゃん!どこか行ってたのかな?途端に黒尾の姿を見つけたことが嬉しくて、私は思わず駆け寄ろうとした。…だけどすぐ、違和感に気付いて。
黒尾の隣に、もう一人知らない人がいることに気付いた足は一歩踏み出しただけで止まってしまった。
「鉄朗〜もう疲れた、早く休もう?」
「あーもうはいはい、昨日から飲み過ぎなんだよ」
「だぁって美味しかったんだもん…ね、ホテルめっちゃ綺麗だったよね〜さっきの下着どっちの方が似合ってる?黒?ピンク?」
「どっちでもいいんじゃないですかね」
「あっはは、鉄朗ってば照れちゃってぇ」
「だああ!そういう話外でするんじゃありませ………」
「ん?どぉしたの鉄朗?」
黒尾と目が合って。黒尾の目が丸く見開かれるのがスローモーションのように思えた。どしゃり。手に持っていたケーキの箱が足元に落ちる。なに、これ。
「黒尾…」
「苗字……!?」
名前を呼ばれた瞬間には、走り出した足。
とにかく何もないところへ行きたくて。私は黒尾から逃げるように、必死に、必死に走った。
「はぁ……っ、はぁっ……」
もう走れなくなって立ち止まったのは近所の公園だった。あの夏の日…黒尾に振られた場所。喉の奥がツンと痛くて、でもそれだけ。涙も出てこない。
フラフラと橋の方にあるベンチに座り、脱力する。そして漸く思い出す、さっきの黒尾。
綺麗なお姉さんと、腕を組んで帰ってきた黒尾。聞こえた会話。昨日から、あの人と一緒にいたんだ。私に連絡を返してくれた時も?さっき、私に今日の約束をなしにするメッセージを送った時も?ホテル。鉄朗。下着。聞いてしまった単語が、断片的に私の脳内を侵していく。
だめだった。黒尾がそんなことするわけない。そんなことする黒尾、想像もつかない。そう思うのに………思い浮かべてしまった一つの可能性は、"浮気"。
「うぅ…っ」
吐き気がした。だってこんなことになるだなんて、思ってもみなかった。今日のために頑張って練習したヘアメイク。ミチカ先輩に選んでもらったコーディネート。美味しいと褒めて欲しくて作ったケーキ。揺れる、アカシアのドライフラワー。
今の自分が酷く滑稽で、惨めで、恥ずかしくて。黒尾に好きな人がいるって知った時よりも、振られた時よりも、今までのどの瞬間よりも胸が苦しい。柄にもなく優しい声で私の名前を呼ぶ、そんな黒尾を私は知ってしまったから。
ジャリ、…
砂を踏む音がした。視線を上げる。…そこには、息を切らした黒尾がいて。
ひゅっと喉が鳴った。そこからまた一歩、黒尾が近付いて…
「来ないで!!!」
思わず大声を上げると、黒尾はまた驚いたような顔で立ち止まった。
「苗字…っ」
「こ、こないで、よ」
「ちょっと話、」
「ぃやだ…!聞きたくない!知らない!黒尾なんて知らない、!」
思い浮かんだ、ミチカ先輩。それからさっきの、色気たっぷりのお姉さん。そして先週初めて黒尾のバレーを観に行った時にいた、これまた知らない歳上らしき女の人達の会話。
"「黒尾くん、本気で狙っちゃおっかなー」
「えー?でも同じ学校に彼女いるらしいよ」
「そうなの?いやいやでも、男子校高校生なんてちょっと色気で攻めたらいけそうじゃん?」
「どうかなぁ?まぁ確かにアンタなら可愛いし、いけるかもね〜!」"
思い出した、というのか漸く気付かされた、というのか。私は決まって黒尾が好きそうだと勝手に思っている歳上の女の人に、勝手にコンプレックスを抱いていた。その時感じた胸のモヤモヤは、きっと私がこの数ヶ月間無意識に育ててしまった劣等感。
黒尾に選ばれるはずがない。私がどれだけ好きでも、黒尾はきっと他の人を見てる。また期待して傷付くのがこわい。
そんな想いが、黒尾自身を拒んでしまって。
「まじで聞いてって…!」
「私、黒尾の隣に、いる自信ない…」
「は…」
ぱしりと振り払ってしまった黒尾の手。そこでやっと、流れていないと思っていた涙が頬を濡らしているのに気付く。そしてまた黒尾も、そんな私を見てすごく傷付いた表情を見せた。
「…い、嫌なの、聞きたくない、…もうやだ、いっつも、こう…」
「苗字」
「わ、私ばっかり、振り回されて、っ、黒尾の言うことやることに、喜んでっ、悲しくなって…っ、ばか、みたいじゃん…!」
「苗字っ」
「わ、私の方が、…好きだもん…!好きになっちゃったんだもん…!っ、こんな、格好悪いの嫌だけど…っ、やめられないの…!でも、もう、こんな痛いのも嫌だ…!」
「苗字っ!」
私の名前を呼ぶ声と共に、今度はガッと私を掴んで離さない手。勢いよく引っ張られて、黒尾の胸に飛び込んで…そしてそのままギュッて抱きしめられる。
「苗字」
「ぅう、…ふっ…う、」
「ごめん。まじでごめん。でもこれだけ聞いて」
「ぅ、っ、…うっ…」
「あれ姉ちゃん。苗字が思ってるようなんじゃないよ」
「っ…………ぇ?」
「俺が好きなのは苗字だけ。苗字以外好きじゃない……信じて」
この前も、同じことを言ってくれた。だけど今はそこじゃない。ポロってまた涙が溢れて、でもそんなことも気にせず黒尾の胸を押して黒尾を見上げる。そしたら黒尾はハの字に眉を下げて、困ったように笑った。
「…また泣かしてんな、俺。ごめん」
優しく、そぉっと黒尾の親指が私の目元を拭った。
「…お姉、さん…?」
「うん。彼氏と別れたらしくて昨日の夜いきなし連れ出されて、飲んでベロベロに酔っ払って、終電無くなったからってテキトーなとこ泊まって、さっき帰ってきたとこ」
「で、でも…今までそんな話…」
「あー…ちょっと訳ありで、姉ちゃんとは別々で暮らしてて。そのうち話すつもりではいたけど」
黒尾の胸をに当てたままグッと握った拳がビリビリと痺れる。
「下着…」
「ちょっ、そんなとこまで聞いてんの?……ヤケになって勝負下着買ったって、ホテルで見せられただけ。姉弟だから何もねぇよ」
「き、昨日は何にも言ってなかった…」
「約束の時間までには帰ってくるつもりだったの!なのに朝からまた飲みだして、帰るの遅くなって、…で、今」
「………」
「…俺だって苗字と一緒にいれんの、楽しみにしてたの。だからんな顔しないで笑って?って泣かせたのは俺ですけど」
またさっきみたいに、さっきよりも、力強くぎゅうって抱き締められる。走って来てくれたからなのか黒尾の体温はいつもより高い気がして、…冷え切った私の身体に触れた途端うんと熱く感じて。
「ご、ごめ…」
「んーん」
「わ、私…勘違いして、変なこと言った…っ」
「俺のせいでしょ?気にすんな」
「ご、ごめ、なさ…」
「そんなことより!言ってくんねぇの?」
「?」
「苗字に祝ってもらうの!めちゃくちゃ楽しみにしてたんだって!」
「お、お誕生日おめでとう…?」
「ん。ありがと」
そう言って笑った黒尾は、それはそれは嬉しそうに笑うから、それで私まで嬉しくなってしまう。さっきまでに泣きすぎて頭の中はぼわんぼわんと変な感じがするし、せっかくしてきたメイクもぐちゃぐちゃだし、
「あ!ケーキ!」
「……家の冷蔵庫に避難させてマス」
「…絶対ぐちゃぐちゃじゃん…」
いつもうまくいかないけど。だけど黒尾はそんなこと気にしないで全部包み込んでくれるから。本当の誕生日の日に言ったときよりも、今言ったおんなじセリフに喜んでくれるそんな黒尾が誰よりも好きでたまらない。
「…今からデート、してくれますか」
「顔どろどろだけど…」
「いいじゃん。俺しか見ねぇし」
「それが一番恥ずかしいんじゃん…」
「なんで?めちゃくちゃ可愛いけど?」
「………」
「せめてなんか言って、俺も恥ずかしい」
私はせめて、あともう少しだけ。黒尾にちゃんと好かれてるよって、自分を信じてあげた方がいいのかもしれないね。
21.05.05.