短編

愛になれ



恋から始まりの続き


 教室どころか学校中が甘い香りで包まれるバレンタイン。今年は関係ないと思っていたのに。

「名前、それもしかして黒尾に?」
「……違う」
「……ふーん?」
「な、なにっ」
「ふふ、なんにも〜?」

 渡す予定もないのに結局持ってきてしまったのは、明らかに他の友チョコよりもしっかりと包装されたチョコブラウニー。
 去年これを食べた鉄朗が、「来年もこれがいい」って言ってたのを思い出して。
 鉄朗に話しかける勇気すらないのに……机の横に提げられた赤色の紙袋が、さっきから視界の端にちらちらと映り込んでいた。

「え、めちゃくちゃ美味い。なにこれ」
「ただのブラウニーだよ」
「名前が作ったの? 売ってるのより全然美味い」
「あはは、それは言い過ぎ」
「いやまじだって。俺来年もこれがいいわ」
「えぇ……おんなじのでいいの?」
「ん、これがいい。来年も作って」
「別に、良いけど……」

 ていうかこれくらいいつでも作りますけど。別に、なんて言って、きっとあのときの私は緩む口元を隠しきれていなかった。珍しく鉄朗も子供みたいに笑いながら私の頭をくしゃりと撫でて、「約束な」って。
 ――――遠い記憶から意識を戻したとき、今ここにある教室の騒めきにいない鉄朗にどうしようもなく泣きたくなる。

 私は誤魔化すように視線を滑らせ、目に入ってきたさっちゃんの持つ紙袋を指差した。頭の中から鉄朗を追い出したくて。さっきのお返しにわざと冷やかすみたいに口角を上げた私に、さっちゃんは苦笑いだ。

「それ、上手くできたんだ?」
「う、うん……」
「一緒に作れなくてごめんね、休みの日も放課後も全然予定合わなくて」
「ううん、いいのいいの! なんとかちゃんと作れたし!」
「でも渡すのって放課後だよね? それまで教室に置いといたらやばくない?」
「あ、それは元家庭科部の友達が冷蔵庫こっそり使っていいよって……」
「なら大丈夫か!」
「うん!」

 「だから今から行ってくる!」なんて駆けていったさっちゃんを見送り、私は小さくため息を吐く。この間一緒にレシピを見ていたチョコケーキ、それを大切そうに抱えたさっちゃんすら羨ましく思ってしまうなんて……それに気付いて更に気分は沈んでいく。しかも、

「!」

 そんなタイミングで教室に滑り込んできた鉄朗と目が合ってしまうって、私ってばどこまで運が悪いんだ。

「お、黒尾おはよー」
「はよー」

 他の男子に話しかけられて何事もなかったかのようにすぐに逸らされた視線。たったそれだけでギシギシと締め付けられるような胸の痛みに、私は机に突っ伏した。

 はあぁ、全然だめじゃん私。未練たらたらすぎて逆に笑えるんだけど。忘れるどころか絶対渡せるはずのないチョコまで持ってきて、話しかけられたら怒るくせに向こうから逸らされた視線には傷付いて……

「早退しよっかな……」

 って。まだ来たばっかだし、別にしないけど。でも思わず呟いてしまうのも仕方ない。
 なのにふと目の前に人の気配がして、さっちゃん帰ってきたのかなって身体を起こした視界に入ってきた人物に私は一瞬で背筋が伸びた。

「体調悪ぃの?」
「え、鉄っ、黒尾?」
「……熱ある?」
「え? な、ない。大丈夫」
「そう」
「うん、……」
「……」
「な、なに?」

 なんで。どうして。さっきまであっちにいたじゃん。
 今の、聞かれてたのかな。目の前に現れた鉄朗に、私は動揺を隠しきれない。だってこっちに来るなんて、また話しかけてくるなんて、思ってなかったから。

 目の前に鉄朗が立ってるだけで、私を見下ろしているだけで、ドキドキする。この間は話しかけてくるなって思ったくせに今は少しでもその目に映してほしいなんて情緒不安定すぎじゃない?

「……それ、あいつに渡すの」
「え?」

 狼狽える私に気がついていないのか、それともスルーしてるのか。それ、と鉄朗が目線をやったのは鉄朗へのチョコが入った赤い紙袋。あいつ……が誰なのかわからなくて首を傾げると、ムッと眉を顰め「あの、バイト先の」と辛うじて聞こえるくらいの小さな声で返された。

 バイト先の。っていうのはきっと前に聞かれた、そして私が今もしつこく付き纏われている先輩のことで間違いなさそう。どうしてここで先輩が出てくるのかはわかんないけど、鉄朗のその表情はもっと意味わかんないよ。

「なんで?」
「誤魔化すなよ」
「いや……渡さないよ、そういうんじゃないもん」
「……それ、去年作ってたやつ?」
「は?」
「や、なんもねぇ。悪い」

 って。……意味わかんないってば。言いたいことだけ言って自分の席に戻っていく鉄朗に、文句の一つでも言えたら良かったのに。
 なんで気付くかなぁ。そうだよ、鉄朗がまた作ってって言ったから。約束したから。貰ってくれないくせにどうして覚えてるの。話しかけてきたの。

 そうやって鉄朗のことばかり考えて過ごす一日は、付き合っていた頃と違って時間が止まってしまったんじゃないかってくらいにゆっくりと過ぎていった。


▽ ▽ ▽


「あれ、名前ちゃんいるじゃん。記念日だから彼氏と過ごすんじゃなかったっけ」
「え。あー……」
「また部活? あ、でももう引退したんだっけか。じゃあ喧嘩? 俺が話聞いてあげよっか?」
「や、大丈夫です……」
「大丈夫、俺そういうの得意だしさ」
「あはは、ほんとに大丈夫ですってば」
「いいっていいって、あ、じゃあバイト終わったら飯でも行く?」

 ずっとバイト先の先輩後輩として仲良くしてたはずだったのに、その先輩が私に告白してきたのが夏ぐらい。彼氏がいることは知っていたはずだけど、今まで仲良くしてそれなりに鉄朗のことを話してしまったせいで「そんな部活ばっかで構ってもらえないの辛くない?」とか「やっぱ同い年より歳上の方が楽しいよ?」とか……私が靡くはずもない言葉を並べるだけで諦めてはくれなかった。

 それは半年経った今も続いてて、今日だってシフトに入ればこの人と一緒になるってわかってたから本当は嫌だったのにどうしても人手が足りないからと頼まれては仕方なかったのだ。
 本来ならば恋人や好きな人を連想させる今日、バレンタインという日に鉄朗と過ごさないことをどう思われるか……別れたこと、まだバレたくない。

 ずっと鉄朗のことが頭から離れなかった学校とは違ってバイト中は早く終われ、早く終われってそればかりで、終わってからもダッシュで着替えて誰よりも早く店を出てきた、はずだったのに……

「名前ちゃん!」

 ひゅ、と喉が鳴った。振り向けばやっぱり、先輩の姿。その姿にゾッとしてしまう私はひどい後輩なんだろうか。

「お疲れ! 一人で帰んの危ないよ、俺送ってくから」
「いつも一人なんで」
「だからそれが危ないって。なんなら次からも俺が送ってくし」
「いや、いいです大丈夫です」
「遠慮しなくていいよ。てか彼氏なにやってんの? 可愛い女の子がこんな時間に一人で歩いててもなにも言わないんだ?」
「……」
「俺だったら絶対無理、毎回迎えに行っちゃうけどね」
「……」
「ほら、俺って彼女には尽くすタイプだからさぁ」

 聞いてないんですけど。私と鉄朗がもうとっくに別れたことを知らない先輩が鉄朗のことを話題に出すせいで、私の気持ちはどんどん沈んでいく。
 鉄朗だって彼女には尽くすタイプだったし。部活とか勉強とか他のことも大事にしてとお願いしたのは私の方で、言わなきゃ全部を背負い込んで私のことなんてどろどろに甘やかしてしまうタイプ。でも私はそんな風にして鉄朗自身も気付かない間に負担になるのは絶対嫌だったんだから、……仕方ないじゃん。 

 私はそんな隣でベラベラと話し続ける先輩の口を、どうにか止めたくて。スクールバッグとは別に持っていた、赤い紙袋を手渡す。

「ん?」
「えっと、バレンタイン……です。ほら、先輩チョコ欲しいって言ってたしいつもお世話になってるんで!」
「え……俺に? うそ、まじ? いいの?」
「勿論ですよ! あ、私このあと彼氏と待ち合わせしてるんで、」
「えっ? そこまで送るよ」
「いいですいいです! ほんとすぐなんで!」
「いやいや遠慮しないでいいから」
「え、遠慮とかじゃなくて……」

 あげる予定もなかった鉄朗へのチョコを手渡してそのまま去ろうと思ったのに……思いの外強く掴まれた手首にいよいよ焦りだす。いつもはここまで強引じゃないのに。暗い夜道、その力強さが途端に怖くなって。
 それでも私は震え出した身体がバレないように、その手を大きく自分に引き寄せた。

「あ、の!」

 早く一人になりたいって、その一心で。

「ほんとにいいんで」
「えー……そんなに拒否らなくていいじゃん、せっかく送ってあげるって言ってるんだからさ!」
「その……こういうの、いらないんで……」
「は?」
「こういうの、迷惑です。彼氏いるんで」
「チョコくれたのにそれは冷たくない?」

 ドクドクと嫌に心臓が鳴っていた。先輩のヘラヘラした表情とそれに合っていない声色が……怖い。これ以上言ったら逆上されちゃうかもとか、こんなとき鉄朗がいてくれたらとか、色んなことが思い浮かんでは消えて……遂にじわりと滲んだ涙はもう隠しきれなくて。
 今更『さっきチョコをあげたのは間違いだったな』……なんて遅すぎる後悔。

 そうしてギュッと拳を握り、意味がないとわかっているのに性懲りも無くまた大好きなあの人を呼ぶ。助けてって。呪文を唱えるみたいに心の中で呟いた、……その瞬間だった。

「それ、俺のなんですけど?」

 冷たい風が私の頬を撫でて、掴まれていた私の手を取りその大きな背中の後ろに隠した人物が誰かなんて……信じられるわけがない。私ってば未練ありすぎて、もしかして夢を見ているのかもって。そう本気で思った。だってそれくらい有り得なかった。

「鉄、朗……?」
「誰だよ、お前」
「名前の彼氏ですけど」
「は、……」
「すみませんねぇ、遅くなって。帰りは俺が送ってくんでいいっすよ」
「あ、……あぁ、」
「ていうか今度からは毎回迎えにくるんで、ほんと。お気遣いありがとうございます」

 いきなり現れた鉄朗はあまりにも堂々とそう言うから、そんなの先輩が騙されないはずがない。私だってあれ? ってなったもん。
 私からは背中しか見えないけど、きっと笑みを浮かべているようで全然笑っていない、そんな表情や声色や、身長も相まってその圧は先輩を諦めさせるには十分だったんだろう。

「そう、良かった、はは……ははは、」
「じゃあ、俺ら失礼します」
「あ、うん、名前ちゃんも、お疲れ! また!」
「あ、はい……」

 面白いくらいに顔を引き攣らせて足早に去っていく先輩の背中を呆然と見つめる私。助かった……?
 だけどバクバクと鳴る心臓はおさまってくれるどころかどんどん速くなっていく気がする。怖いから? ううん、きっと違う。

「これ」
「えっ」

 まだ状況を理解しきっていない私に、赤い紙袋が返された。反射的に受け取ってしまったそれを本来渡したかった目の前の男は、「あー……」って息を漏らして気まずそうに視線を逸らす、
 首裏をガリガリ掻いて、足元に目線を落として。

 そんな風になる鉄朗は珍しい。私はなにを言われるのかも、今の状況がなんなのかも、なにもわからないから鉄朗の次の言葉を待つしかない。
 期待するようなこと……なにひとつないのに。それでも脈打つこの心臓の音と溢れ出しそうな感情は、誤魔化すことが出来ないくらいになにかを期待してしまっている。

「……ごめん」

 って。なにに対してかわからない鉄朗の謝罪は、冷たい空気に溶けて消えていった。

「勝手なことして。……困ってるように見えたんだけど」
「う、あ、いや……うん。困ってた、助かったよ。ありがとう」
「でもあいつ、付き合ってんじゃねえの?」
「…………は?」
「え?」
「つ、付き……? え? 誰と誰が?」
「さっきの人と、……名前?」
「えっなんで!? 付き合ってないよ!」
「え、そうなの?」
「なんでそんなことになったの!?」

 思いがけない鉄朗の言葉に、私は思わず悲鳴のような大きな声を上げてしまった。え、だってあり得ないもん。なにそれ。ていうか前に先輩のこと聞いてきたじゃん!?

「あ、……え、まじ? うそ、」
「いや、いや……だってこの前鉄朗聞いてきたじゃん……てっきり先輩に付き纏われてること知ってるのかと……」
「は? ……なに、付き纏われてるって」
「え」
「俺は部活ばっかりで名前のことあんまり構ったりできない間に、名前とあの人といい感じになってるんだと思って、」
「や、やめてよ! そんなわけないじゃん、私は鉄朗しか……!」
「……」
「……」
「……んだよそれ……」
「わっ」

 目が合って、びりりと空気が震えた一瞬の沈黙の後。こちらによろめいた大きな身体はそのまま私をその腕の中に閉じ込め、ぎゅうって。え、な、待って。
 そんなことされると思っていなかった私は久々の鉄朗の香りに包まれて息が詰まる。

 鉄朗は私の首元に顔を埋めているから表情は確認出来ないけど、耳元でずず、って鼻を啜るその音に私までつられて泣きそうになった。

「て、鉄朗……?」
「んだよ……」
「顔見せて……」
「やだ。今無理」
「なんで」
「すっげえダサい顔してるから」
「それでもいいよ」
「俺が良くないんだって」

 見せないようにか、代わりに腕の力が強くなっていく。だけどそれがまるで『もう離さない』って言われてるみたいで……私もそんな鉄朗の背中に手を回して、どうかこの気持ちが伝わって欲しくて。

「すんごい勘違いしてたような気がするんですけど」
「……うん、多分、そうだね」
「俺名前がいねぇと無理なんだわ」
「……」
「さっきみたいなことがあってもすぐに守れるように、隣にいたい」
「……ん、」
「別れるっていうの、取り消したい」
「……んん、」
「……あれ? 名前サン泣いてます?」
「うっ、……て、鉄朗だって泣いてたじゃんっ」

 覗き込んできた鉄朗から逃げるようにその胸に顔を埋める。鉄朗が、いる。夢じゃない。噛み締めると余計に涙が溢れて、だってもうこんな風に出来る日はこないと思ってたんだもん。
 それなのに今私のことを抱き締めて小さく笑ってるのは、紛れもなく別れてからもずっと忘れることが出来なかった大好きな人で。

 まだ信じられないよ。ほんとにほんとに鉄朗? 夢じゃない? 何度も見た、目が覚めたら鉄朗がいない世界だったり、しない……?

「……名前?」

 ぽん、ぽんってあやすように緩く背中を叩く鉄朗に、私はようやくゆるゆると顔を上げる。

「さっきのチョコ、俺が貰っていい?」
「……元から鉄朗のだし」
「は」
「……渡せなかった、だけで。鉄朗しかあげる人いないし」
「……なんか久々すぎて照れるな、この感じ」
「……うるさいぃ」
「ぶはっ……ここ寒いじゃん、そろそろ行こっか?」
「ん」

 頷けば、私を拘束していた手は解かれて今度は自然に指同士を絡まる。鉄朗を見上げればちょうど目が合って、恥ずかしいけどジッと見つめていたら鉄朗の方が耐えきれなくなったのか照れ笑いみたいに頬を緩めて。

「名前呼んで」
「え? 鉄朗?」
「ん。もっと」
「んん? 鉄朗? 鉄朗〜、鉄朗くーん」
「うん」
「えぇ、なに」
「いや……名前に黒尾って呼ばれたの、結構キたんだよな」
「え、……」
「……まぁ、俺のせいなんですけど」
「……ごめん」
「悪いの俺だからね」

 そう言った鉄朗はギュッと手を握り込んだかと思えば、「んっ、」いきなり私を覗き込んで触れるだけのキスをする。
 一瞬、たったコンマ何秒触れただけなのに熱い。ずっと待ち望んでいた甘さにぐっと身体が火照っていく。

「……チョコ今食っていい?」
「だめ。帰ってからにして」
「えーなんで、腹減った」
「まだ手離さないで、……」
「……えー……それは、……可愛いな」

 ……鉄朗のその顔だって、十分可愛いよ。
 ゆっくり、ゆっくり。街灯に照らされる夜道を歩く私たちがぽつぽつと話すのは、離れていた間にあったこと、まだまだ伝え足りない想いたち。
 チョコなんて食べるまでもなく甘い声に顔を見上げれば、ずっと見たかった笑顔があって。

「……好き、鉄朗」

 私はもう離れないように、強く強くその手を握った。


22.02.25.

- ナノ -