短編

眠れない夜vol.1



衝撃だった。

「お、苗字じゃん」
「え?」
「やほ」
「えぇーっと、」
「どした?」
「だ、誰、ですか?」
「え、ひどくね?」

高校に入って初めての合宿、日中の厳しい練習を終えた私たち。特に一年生はあまりの疲労に死屍累々たる有様だった。え、これを毎回やるの?馬鹿じゃない?マネージャーの私でこれなんだから、選手はもっとしんどいんだろうと予想する。
勿論私とは体力を桁違いに持つ彼らではあるが、日中の暑さやらなんやら、練習だけではない色んな要因があるのだろう。
今日はよく眠れそうだと言っていた同級生たちの言葉に心の中で同意しつつ、お風呂から上がって部屋に戻る途中のことだった。

「えっと、」

暗い廊下で遭遇した見慣れない男に少しだけ動揺する。こんな人、いたっけ。梟谷?森然?生川?まだまだ全員は覚えられていないけど、やはりこんな人日中には見なかった気がする。
それなのに彼は私を知ってる風に右手を上げ、対する私の怪訝な表情に少しショックを受けたようだった。

「ちょっとちょっと、黒尾サンですよ〜」
「エッ……黒尾?嘘でしょ?」
「いやマジ?普通にショックだわ」
「だって、髪……」
「お前は俺を髪型だけで判断してんのか」
「そうだったみたい……」
「おいコラ」

トン、と頭に軽くチョップを入れられて、痛くもないのに私はそこを押さえる。身体中を巡る血液が沸騰したみたいに黒尾に触れられた場所からじんわりと熱が広がって、とくとくと心臓の音がみるみる速くなっていくのを感じて。

「ぜ、全然雰囲気違うね」

その一言を言うだけで精一杯だった。だって、そんな。聞いてないよ。
いつもと違う同級生に胸を高鳴らせる私も、知らない。黒尾のことなんて別に何とも思っていなかったのに、今、さっき、この瞬間を皮切りに顔すらうまく見れなくなってしまうなんて。

黒尾もお風呂上がりなんだろう、いつもぴょんぴょんと独特に跳ねた黒髪は今は僅かに湿気を帯びてしんなりと降りている。もう一度だけ、と逸らしていた視線を戻して見た黒尾の、その長い前髪から覗く瞳が私を捉えて……ギクリ。私は固まってしまった。

「……ナンデスカ」
「え、や、なにも、」
「すげえ顔してるけど」
「し、してないしてない」
「めちゃくちゃ顔赤いし」
「こんな、暗いのに、見えるわけ」
「暗くても分かるくらい真っ赤だっつってんの」

逆上せた?なんて。私を覗き込んできた黒尾に目を見開く。どく、どく。いつもはふざけて飄々と調子の良いことばっかり言う黒尾が、私や周りとバカやってたまに怒られている黒尾が、やはりまるで別人のように見えて。
別人のように……言うならば、色気、だろうか。今までは感じたことのないそれを携えた黒尾に私は口を開いてもはくはくと息を漏らすことしかできない。

何を言おうとしても言葉は思い付かなくて、ヒュッと喉から間抜けな音が出ただけだった。

「え、まじで大丈夫?ちょっと水持ってくるわ」
「だ、っ……」
「だ?」
「大丈夫、だから……!」
「や、でも」
「違う。違う違う違う、」
「何が?」
「そういうんじゃないから、大丈夫……」

的を得ない私の言葉に黒尾は困惑した様子で、ただ純粋に私を心配してくれていて、だけど触れるか触れないかで背中に添えられた手がシャツの上を掠るだけで私はくらくらしてしまう。

「か、かみが、」
「ん?紙?」
「かみ、違うから、びっくりしただけ」
「あ?あー……髪?」

私の言葉に、黒尾は自分の前髪を少しだけ摘んで見せた。それにつられて私はまた黒尾を見上げてしまうから、私を覗き込んだままの黒尾と顔を上げた私、至近距離で絡み合う視線。
夜の学校っていう非日常な空間で今だけは誰の声も聞こえなくて、ただ私の胸の音と黒尾の息遣いだけが響いていて。

「苗字、もしかしてこれ好きな感じ?」

途端ににやりと意地悪く上がった黒尾の口元に、しまった、と後悔してももう遅い。少なくとも今の私には、いつもみたいに言い返す余裕なんてなかった。あぁこれは揶揄われてる、これからもっと馬鹿にされるって分かっているのに、黒尾のそういうのはムカつくから否定したいのに、だって黒尾が言ったことが事実なんだもん。

初めて見る黒尾が不覚にも、悔しくも、かっこよくて。いつもより数倍大人っぽいその姿にときめいてしまっているなんて言いたくない。絶対。

「ぇ、」
「だから顔赤くしてんの?」
「や、その、」
「ぶはっ照れすぎ。良かったら触ります?ほれ」
「やめ、」

どくん、どくん。

もう無理――――――

私は身体を捻って黒尾から距離を取ると、真っ赤だと指摘された頬に手を添えてそれから黒尾を睨み付けた。自分で自分の感情に追い付けていない私の視界はゆらゆらと揺れていて、さっきまで全力で揶揄いモードだった黒尾がそれを見て「え、」と単音を吐く。

もうやだ、恥ずかしい。

「もう寝るから!」
「え、怒った?ごめんごめん、苗字の反応が面白いからつい―――
「怒ってないからほっといて!」
「えぇ、」
「おやすみ!」
「ちょ、苗字?」

言い残してバタバタと去っていく私は、黒尾からしてみればさそがし意味不明だと思う。でも私だって分からないのだ。この感情が。ただいつもと違う黒尾を見ただけでこんなにもドキドキする、理由が。
これは明日、なんて言って顔を合わせよう……なんて心配すら出来ないまま、あんなに疲れていた筈なのに頭まですっぽりと布団を被った私の夜は眠れないまま更けていく。


21.10.15. Twitter掲載・加筆修正
title by 草臥れた愛で良ければ

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