短編

零れ落ちたベガ



肩にかけるバッグの重みは今日一日の疲労感、ヒールで痛む足は今日吐いたため息の分だけ朝より酷くなっている気がする。
今日は朝から不幸続きだった。毎日あんなに早く起きて家を出ている私を嘲笑うかのような電車の遅延、遅刻して走ったせいでセットした髪は崩れ、追い討ちをかけるように仕事でやらかした後輩と各所を駆け回り謝罪、終わらない業務のせいで二時間の残業。

「はぁ……」

今日これで何度目のため息だろう。だけどこれはもう仕方ないと思う。
何もこんな日に、なんて思ってしまうけど別に予定があるわけではなくて、定時なんてとうに過ぎて暗くなった道を歩いて帰るだけの直帰コースは元より同じだった。

「あれっ、苗字?」
「へ……」

静かな空間に、それは一際大きく響く。私の名前を呼んだ今の私のテンションとは全くの真逆な声に振り向くと、街灯に照らされて伸びる影の先……こちらに手を上げるかつての同級生。

「夜久……?」
「おーやっぱり!苗字じゃん!」
「な、なんでいるの!?」
「久しぶり!」
「いや!え?なんで……」

もしかして幻覚?妄想?夢?なんて思うけど、それにしては眩しすぎる夜久に私は目を細める。夢なら醒めないで。
記憶より大きくなった気がする夜久が軽快に私へ駆け寄ってきて、うん、やっぱりあの頃と全然違う。以前よりがっしりとした肩が私の隣に並び、私はそんな夜久に何も言葉にならずただ喉から小さな息が漏れただけだった。

「ちょっと野暮用で帰ってきてんだわ」
「野暮用?」
「ん、まぁすぐにあっち戻るんだけど」
「そうなんだ……試合とか、ネット配信でたまに観てるよ」
「まじ?」
「うん、ほんとたまにだけど」
「それでも嬉しい!サンキュー!」
「……うん」

すごい、私いま、夜久と喋ってる。かつての同級生とは言えど今や世界で戦うバレーボール選手である夜久に、もう一度会えるなんて。こんなの予想していなかった。
大袈裟だけど、私今以上に嬉しいことってないかもしれない……なんて思うのは、私があの頃、夜久に淡い想いを抱いていたからで。

懐かしい夜久の影が私に寄り添って、その事実にぐんぐんと身体中の熱が上がっていく。
まるで片想いする女子高生みたいな、好きな人と話すときの高揚感。まさかこの歳になってまたこんな気持ちになるなんて。

「苗字、全然変わってねぇなぁ」
「えっそう?」
「後ろからでもすぐわかったし」
「こういうときは綺麗になったな、とか言うもんだよ」
「ははっ嘘、超綺麗になった」
「絶対思ってないやつじゃん……」

言いながらも、しっかりと頬を火照らせているんだけど。動揺したのは一瞬だけで、すぐにあの時の続きみたいに話せることに胸が踊る。

相変わらず足元はふわふわしていて、私の隣を歩き出した夜久に懐かしさで胸がキュッと締め付けられて。コツコツと鳴るパンプスのヒールの音だけがこれが現実だと教えてくれるけど……それでも尚、やはり夢じゃないかと疑ってしまう私がいた。

「そういえばさ、」
「わっ!」

にゅっと私を覗き込むように前に出てきた夜久に、私は素っ頓狂な声をあげた。シン、と静まり返る住宅街に響いて、慌てて自分の口に手を当てる。
だけど夜久は、そんなことは気にしていないという風に続けた。

「なんかフラフラしてなかったか?さっき」
「え、そ、そう……?」
「おう。あの人倒れんじゃねえかなーって心配で近くに来てみたら苗字だったし、びっくりした」
「あはは……ちょっと今日は朝から色々あって、しかも残業で、……疲れてて」
「あぁそれで……こんな日に大変だな、お疲れ」
「うん……うん?」

こんな日。夜久の口から転がり落ちた言葉にドクンと胸が鳴る。こんな日って、どんな日だ。
少しだけ伏せていた顔を上げて夜久を見上げると、あの頃と同じ……まん丸な猫目が私をじっと見つめていて。

「え?お前今日、誕生日じゃなかったっけ?」
「え……」
「あれ?違った?」
「や、違くない、けど!なんで覚えてんの!?」
「なんでって……なんでだろ、でも今思い出した」
「いや意味わかんないんですけど、こわ」

軽口を叩くけど、でも頭はそれどころじゃなかった。え、え、なんで!?なんで夜久が私の誕生日なんて……教えたのなんてそれこそ高校生のときなのに。
あれから何年も経ったのに平然と私の誕生日を口にする夜久に、忙しなく動き出す心臓は正直だ。

「そんなこと言う?」って笑う夜久に、私はもう平然となんて出来なかった。
今日は最悪な日だったから。だからこれくらい求めても、許されるんじゃないだろうかって。

「も、もし良かったらなんだけど!」
「ん?」
「このあと……飲みに行ったり、……しない?ほ、ほら!私誕生日だし!」
「え?」
「あ、でも別に嫌だったらいいけど、」
「あー……別にいいけど、何もないし」
「ほんと!?」
「おう」

すごい。勢いで口にした言葉は、あっという間に今日を最高の日にしてくれる。自分で言って自分で驚く私に、夜久は「なんつー顔してんだよ」って笑って、それからひょいと私のバッグを奪い取った。
重そうだから持ってやる、だなんていつの間にそんなこと出来るようになったの。

もう学生じゃない私と夜久が並ぶあの頃歩いた帰り道、その足取りは飛べるんじゃないかってくらいに軽かった。


21.09.15. Twitter掲載
21.10.06. 加筆修正
title by 星食

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