短編

世界が君と敵対することはない



徹を一番近くで見てきた高校の時からずっと覚悟していたこと。大好きな人のためなら何でもする、どこまでも着いていく。それが日本から遠く離れた異国の地だろうと、徹を一番近くで支えるためなら躊躇う理由にはならなかった。
親や友達と離れるのはもちろん寂しかったけれど、それでも私はその隣で笑っていたい、と。

「着いてきてくれてありがとう」
「ふふ、今更?」
「そりゃあ、ね。アルゼンチンまで着いてきてくれるとは思ってなかったし」
「ええ?じゃあ別れるつもりだった?」
「……それとこれとは話が別。俺がお前を離すわけないよ」
「徹こわーい」
「どうしてさ!?」

それほどの覚悟があった筈だった。

オフシーズンを狙って挙げた結婚式の写真を眺めると、写真の中の私と徹は幸せそうに笑っていた。
アルゼンチンの土地に慣れてきたかと聞かれればまだまだ全然慣れなくて、だって勢いで着いて来たけれど私はこっちの言葉すらほとんど話せない。
こんなことならもっと前からちゃんと勉強しておくんだった。俺がいるから大丈夫、こっちに来てから少しずつ覚えればいいよ、なんて徹の言葉を間に受けるんじゃなかった。
だって当の徹は、忙しくてほとんど家にいないんだから。

見知らぬ土地で生活するんだって、ワクワクで乗り越えられる時期はもう過ぎてしまったのだ。言葉も分からない、知り合いもいない、徹とも時間が合わない。
これからずっとこの生活が続いて、私はやっていけるんだろうか。徹のことを支えるためにこんなところまで着いてきたのに、自分自身のことでいっぱいいっぱいになっている私は果たして必要なんだろうか。

「……買い物、行かなきゃ」

今日は徹も早く帰って来るって言ってたから。せめて美味しくて栄養のあるご飯を作って待っていてあげたいのに、外に出るのがもう憂鬱で。
ここでの生活が始まってすぐの頃、「不自由なことはない?」「困ってない?」とよく聞いてくれた徹に買い物すらも上手くできない私を知られたくなくて何も相談できなかった意地っ張りな自分が憎らしい。…………もう今更言えるわけないよ。

何も知らないってだけで、頼る人がいないってだけで、どうしてこんなに不安になるんだろう。
ガヤガヤと賑やかな外に出ても、話しかけられたらどうしようとか、店員さんに私の分からないことまで聞かれたらどうしようとか、考えるのはずっとそんなことばかり。

「うっ……」

考え事ばかりしてたから?くらりと目眩がして立ち止まると、今度は吐き気に襲われた。やばい。そのまましゃがみ込むと周りの雑踏が一気に遥か遠くへ飛んでいってしまったみたいに、まるでここに私一人しかいないような感覚に陥る。手足が痺れる。気持ち悪い。助けて。
じわじわと滲んだ涙はやがて粒となり、重力に従って目尻から落ちた。冷や汗も酷い。こんな、誰にも助けてもらえない場所でどうして。

「……名前?」
「っ、」
「名前っ……!」

ゆっくりと顔を上げた先……そこには息を切らした徹がいた。駆け寄って私と視線が合った瞬間にその目は思いっきり見開かれる。

「名前、気分悪い?顔色悪いね、ほら捕まって」
「と、おる?」
「そうそう、徹くんだよ。水飲める?」
「なんで……」
「なんでって……今日は早く帰るって言ったでしょ」
「こんなに早いの?」
「なぁに、嬉しくなさそうだね」
「そ、そんなことない!」
「ほんとに?」
「うん……嬉しい」
「……ちょっとマシになった?」
「あっ……」
「ほら、ゆっくり立とうか」
「うん……」

まるでスーパーマンみたいに颯爽と現れた徹と話しているうちに少し落ち着いて、差し出された手に捕まって立ち上がる。
やはり少しくらくらするけどさっきのあの一瞬よりは随分マシだった。うん、真っ直ぐ立てるし今は気持ち悪くない。

「帰ろっか」
「でも、買い物行かなきゃ……」
「ほら」
「!買ってきてくれたの?」
「ふふん。俺はできる旦那さんだからね」

手を繋いで歩く帰り道。さっきまで一人が心細くて不安で仕方なかったのに、今は徹が隣にいるから安心して胸がポカポカする。
毎日辛うじて顔は合わせているけど、練習やら付き合いやらで遅かったこともあってこんな風にゆっくり二人で過ごすのは久しぶりだ。どうしよう。徹がいる。嬉しい。

帰ったら今日は徹とゆっくり過ごせるかな。この後のことを考える、そんな私を他所に徹はさっきのことが気になって気になって仕方ないらしく、家に着くとすぐさま私を椅子に座らせた。
え?え?と戸惑う私の頬やらおでこやらをぺたぺたと触る徹の眉間にはぐっと皺が寄っている。

「くすぐったいよ」
「身体熱くない?熱ある?」
「ないない、そういう感じじゃないもん」
「ほんとに?」
「うん」
「ならいいけど……」

まだどこか納得していないような徹は立ち上がろうとする私を制してキッチンに立った。そんなに心配しなくても、もう平気なんだけどなぁ。過保護な徹。
熱はないし、風邪をひいたわけでもないだろうし、何もおかしいところは…………あ。

「生理……」

カウンター越しに椅子に座って徹を眺めようとしたけど、視界に入ってきたカレンダーを見て無意識に零れ落ちた言葉。
そしてそれを聞き逃さないのが徹だ。

「え?」
「あ、いやなんでも、」
「生理って?なに、遅れてるの?」
「うん……三週間ぐらい遅れてるかも?」
「……いつもそんなに不定期だっけ?」
「ううん、割と定期的にくる」
「お前それ……」
「え?……いや、……いやいやいや」
「病院行くよ」
「えっ!?」

持ちかけていた包丁を置いてすぐに私の元に飛んできた徹は、片手でスマホを操作しながら私を抱きしめる。いやいや、ちょ、徹さん?いくら何でもそれは安易すぎない?
体調が悪いのは生理が遅れているからで、生理が遅れてるのはつまり……そういうことだって言いたいの?

すぐに近くでまだ診てもらえる病院を調べたのか、「ほら行くよ」って私を急かす徹、早すぎるよ。だけどそれがちょっと嬉しいと思ってしまっている私もいるから困りものだ。
本気で心配しているくせに、でもちょっとだけ期待してますとも取れる徹の表情が、ここ数日の寂しさや不安を取り除いていく。私の顔を覗き込んで、頬を撫でて。

「体調辛くない?」
「大丈夫だってば」
「ほら、早くしないとおぶっていくよ」
「それだけは嫌」
「ひどっ」

言いながらも徹はさっきより少しだけ表情を崩して、眉を下げたその優しい顔がまた私の胸をきゅんと高鳴らせた。「心配させてよ」って言葉に素直に頷いてその胸に顔を寄せると、緩く包み込んでくれる温もりに涙が出そうになる。

「……最近構ってやれなくてごめんね」
「……仕方ないもん」
「しばらく付き合いとかないし、早く帰って来られるから」
「いいよ、無理しないで」
「無理じゃありません〜俺が名前と居たいだけです〜〜」
「…………うん」
「ほら、行こう?」

その後、徹が調べてくれた病院に着くといつの間にか予約までしてくれていて、すぐに診てもらうことが出来た。結果は、やはりお腹に赤ちゃんがいると言われて。覚悟も何もしていなかったくせに、病院の先生に言われた瞬間早く徹に伝えたい!としか思わなかった私も存外徹と似たもの同士だ。
診察室を出て病院の前に座っていた徹の元に駆け寄ると、徹は「走っちゃだめだよ」って言いながらもソワソワ待ちきれないって顔。それを見て私は思わず笑って、そのまま勢い良く徹に抱き着いた。

「徹っ!」
「どうだった?」
「赤ちゃん、出来てた!」
「俺と名前の子供……?」
「うん!私と徹の子供!」

私の言葉を聞いて、途端に目をうるうるさせる徹。

「えっ」

次の瞬間にはぎゅうって私を抱き締めた徹は、同時にズズッと鼻を啜った。うそ。泣いてる?
首を捻って確かめようとしても、見せたくないのか頑なにこちらを向いてくれない。諦めた私は徹の背中に手を回して……ポン、ポン、ってあやすように優しく叩いた。

「……名前」
「うん?」
「ありがとう」
「うん」
「ここまで着いてきてくれて」
「え?今それ?」
「俺と家族になってくれて、ありがとう」
「……どういたしまして」
「俺、名前も子供も絶対守るから」
「うん」
「だから名前も、辛かったり寂しかったりしたら我慢せずに言うんだよ」
「え?」
「それにこっちの言葉なら、俺が教えられるし」
「……それは助かります?」
「分かってないでしょ、お前」

不満そうに徹は言うけど、ちゃあんと分かってるよ。私も徹の胸に顔を埋めながら小さく笑う。私が一人ぼっちだと思って不安になってることを徹は気づいてくれていたし、我慢するなって話でしょ。

そうだよね。これからは一人じゃなくてこの子がいるし、徹も輪に入れてあげなきゃ拗ねるよね。なんて。そんな姿を想像したらまた笑えてきて、結局はやっぱり徹に着いてきて正解だったなとしか思えなかった。


21.07.20.
title by 朝の病
及川 徹 2021's birthday.
なあさんリクエスト ありがとうございました!

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