短編

まぼろしにも似た




毎朝仕事に向かう時はいつも憂鬱だった。仕事自体は好きでも嫌いでもないけど、上司からのセクハラ紛いな言動も、ゆとり世代だと言われる自分よりも更に自由な後輩も、行き帰りの満員電車も、マイナスの感情を抱かせる要因は沢山あった。
それでも朝早くに起きて今日も会社へ向かうのは、義務とか責任とかとかでも何でもなく、お金のため。お金がなくちゃ生きていけない、ただそれだけが理由でもいいじゃないか。

昨今の日本、いや世界は色々と大変な世の中で、今年になって聞き慣れなかった"テレワーク"や"時差出勤"という言葉すらも既に定着してきた夏。心なしか数ヶ月前より人口密度が減った電車の中、それでも人でごった返す空間で、ふと目の前に立つ人の顔が視界に飛び込んできた。

「…黒尾…?」
「?」

最早それは呟きだった。それでも目の前の人はそれに気が付いたみたいで、私を見下ろしてクエスチョンマークを浮かべている。誰だ、コイツ。そんな表情。それでも見間違えるはずがない、その人は私が推してやまない人なのだから。

「えっと、オネーサン、どこかで会いましたっけ」
「えっ」
「え?」
「黒尾が喋ってる…」
「いや俺のことなんだと思ってんの」

目の前で、二次元に存在する私の推し、黒尾鉄朗がその瞳に私を映している。にわかには信じ難い光景に夢を疑ったけれど、ほっぺを抓ってみてもしっかりと痛い。しっかりした夢だな。そんな、目の前で意味不明な行動をする見知らぬ女に怪訝な顔をするも知らぬふりをしないのは、彼も少なからず私に興味を持っているのか、満員電車の中だから向き合うしかないからなのか。恐らく後者、だけども前者だと思いたかった。

「オネーサン大丈夫?もしかして気分悪い?」
「あっ…いえ、大丈夫、です」
「そ?ならいいけど…で。何で俺の名前知ってんの?」
「…えと、…何て言ったらいいか」
「会ったことあるっけ?」
「いえ、初対面なんですけど」
「だよな」

今度はただただ疑問、と言った表情。とりあえず害はないと判断していただけたらしい。

「黒尾…さん?って、日向とか影山とか、知ってますか」
「それは、知り合いかってこと?まぁ、知り合いっちゃあ知り合いだけど」
「じゃ、じゃあ研磨とかも?」
「え、オネーサン研磨も知ってんの?」
「ほ、ほんとに黒尾だ…」
「…はぁ?」

言ってもいいのか、迷った。私は自分よりも随分と高い位置にある黒尾の顔を見上げて、そしてすぐに足元に視線を戻す。でもどうせ言わないと説明できないから。もう一度黒尾と視線を合わせると、日向が主人公の漫画があること、それで黒尾も出てくること、簡単に話してみた。

「ほぉ…じゃあ俺は漫画の登場人物なわけ?」
「はい、私の推しです」
「ぶっ…ふふ…そうなんだ、それはドーモ」
「…疑わないんですか?」
「んー…つったって苗字サンは実際俺のこと知ってるわけだし?」
「…よく出来た夢」
「これ夢なの?」
「じゃないと、おかしいですもん」
「まぁ…確かに」

私が生きる現実世界に、日向や影山たちはいない。実際に今黒尾が目の前にいるけど、これが夢だから、ってことにしないとそれは辻褄が合わなかった。

「ま、なんでもいっか」
「はぁ…」
「だって夢ならそのうち醒めるっしょ」
「まぁ…」
「苗字サンは推しに会えたんだから、もうちょっとテンション上げてもよくね?」
「元からこんな感じなんです、これでもいつもよりテンション上がってます」
「そーなの?苗字サン?あ、名前ちゃんって呼ぶ?」
「えっ」
「名前ちゃんが喜ぶかなぁって」

不意打ちだった。さっき軽く名乗った自分の名前が、黒尾の口から溢れるだけでそれはとんでもなく愛おしいものに感じる。ぐぐぐ、と体温の上昇を感じて、でもそれが表に出ないように必死に抑えた。だって、恥ずかしい。
ていうか、そうやってなんでもない風に名前を覚えてて呼んでくれる、それを私が喜ぶと思ってやるところが何とも黒尾らしい。

「…黒尾ってチャラいんだ」
「あ、それ。敬語なしの方がいい」
「え、あ、いや、はい、」
「同い年っしょ?」
「…うん」

私の照れ隠しは見事に撃沈する。目の前のにやにや笑いは、よく漫画やアニメで見たそのまんま。名前、年齢。私が与えた最低限の情報を駆使して、ぐいぐいと距離を縮めてくる黒尾に私は目の前がチカチカした。なんて夢。私の願望に忠実すぎる。

「名前ちゃん、どこで降りんの?」
「へ…あぁ、次の次」
「お、俺と一緒じゃん」
「そうなの、びっくりだよねぇ」
「あ、それも知ってる感じ?」
「ま、まぁ…」

もうすぐ私達が降りる駅がやって来る。そしたらこの時間も、夢も、終わってしまうんだろうか。

「もし、これが夢じゃなかったらどーする?」
「えっ」
「なんか色々おかしいとこあるけど、夢じゃなかったら」
「夢じゃ、なかったら?」
「ん。もう一回、会ってくれる?」
「え…」
「俺だって、名前ちゃんに興味津々なんです」

ピラッと渡されたのは、漫画の中で見たものとやっぱりおんなじ、黒尾の名刺。失礼だと思いながらも満員電車の中、片手でそれを受け取れば手書きでメッセージアプリのIDが書き足されていた。今この状態で書けるわけがないし、これ、常備してんのか。

「…やっぱチャラい?」
「ふっ…それも、自分で確かめたらどう?」
「…夜なら空いてます、けど」
「いつでも。連絡お待ちしております」

今度こそ、頬が赤く染まるのを抑えられなかった。大好きな怪しい笑い方に、あんまり知らない大人黒尾の色気に、私が敵うわけがない。
そんなことをしてる間に降りる駅について、人の流れに押されてホームに降り立つ。すぐに振り返ったけど、もうどこにも黒尾の姿はなかった。

「やっぱ夢…」

そこでふと気づく、私の手に収まる小さな紙切れ。
それはさっき渡された、黒尾の名刺。黒尾はどこにもいないのに、それだけは私の手元にしっかりと残っている。

「…よし、仕事頑張ろ」

どういうことか、いまいち分からないけど。でも連絡お待ちしております、って、言ってたし。楽しみがあれば憂鬱な仕事だってあっという間に終わるはず。
それで、もし夢でもなんでもなくもう一度黒尾に会えたら、何を話そうか、なんて。そんなことを思うこの時間、いつもより何倍もやる気に満ち溢れていた。



20.7.26.
title by コペンハーゲンの庭で

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