短編

予兆なんてものはない





月曜日の朝。また今日から憂鬱な一週間が始まる。満員電車の中、自分のバッグを引き寄せて右手で吊革を掴んだ。掴んでいなくても多少の揺れじゃ倒れないくらいの人口密度に、ため息を吐くのはもう何度目だろう。毎日のことでも慣れろと言う方が無理だ。
右隣のおじさんの加齢臭。斜め後ろの人のバッグか何かが当たって痛い。無意識にもう一度ため息を吐いた。

次の駅に滑り込んだ電車は、開いたドアからまた新たに人を詰め込む。この駅で降りる人はほぼいないから、人は増える一方だ。東京の電車は、もう無理でしょ、と思ってもそこから更に無理矢理乗り込んでくるから嫌いだった。

きっつ。さっきの場所からまた押されて吊革にも捕まれない位置。今度は背の高い人たちに囲まれて埋もれてしまった私は息をするのも大変で、どうにか抜け出せないか、体を捩ったときだった。

「大丈夫っすか?」
「へ」
「つかまっていいっすよ」

少し体勢をずらして正面にきた男の子に、声をかけられる。見上げた先にはこれまた高いところに黒髪が揺れる、眠たそうな顔。

「えと」
「ほら、この辺つかまってください」

手を取られて、男の子の反対の腕あたりを掴まされる。わ、思ったよりしっかりしてる。なんて思ってから、今の変態みたい…ていうかこれって犯罪にならない?なんて思考が頭を過った。相手はどう見ても高校生。年下の男の子に、こんな、お触りなんて。

「あの、ごめんなさい」
「いーえ。お姉さんどこで降りんの?」
「え、っと…次の駅」
「あ、じゃあ一緒じゃん」

小さく笑った男の子は、そのまま何も言わず腕を貸してくれて、駅に着くと一緒に引っ張って降ろしてくれた。

「ふぅ…ここまでくりゃ平気っすね」
「う、うん。ありがとう、ほんとに」
「お姉さん埋まってて苦しそうだったんで」
「助かりました…」
「じゃあ、お仕事頑張ってください」
「うん、君も学校頑張ってね」

ひらりと手を振って去っていく知らない男の子。ここで名前を聞いたりとかなんてない。所詮こんなものだ。いつもはこの時点で電車で揉みくちゃにされてボロボロになっているのに、今日は彼が周りから守ってくれたお陰で全然平気だ。ありがとう、とその背中にもう一度お礼を言い、私も職場に歩き出した。

それから半日、私はなんとなく朝の男の子が頭から離れずにいた。名前も知らないし、少しの時間だったからそんなに喋ったわけでもない。でもあのしっかりとした腕や、一瞬見せられたニヤリという笑みはなんとなく頭に焼き付いていて、やっぱりあのまま別れたのにちょっと後悔している。

「いや、でも、高校生はやばいよね…」

考えても、もう会うこともないだろうし。なんて思っていたのに。




「あれっ」
「あ…」

こんな偶然本当にあるのか。帰りの電車に乗り込んで何気なく見た先に、朝の男の子の姿。向こうも私に気がついたみたいで、ゆっくりこちらに歩いてくる。隣にはお友達なのか、金髪の男の子もついてきていた。

「あ、朝はありがとう」
「いーえ。仕事終わりっすか?」
「うん。君は学校終わりにしては随分遅いね?」
「部活やってんすよ」
「へぇ…バスケ部とか?」
「残念、バレー部デス」
「そっちかぁ、背高いもんね」

改めて感じる、彼の背の高さ。見上げるほどの身長は190近くあるのだろうか。隣の子はそんなに大きくないし、彼が特別大きいのかな。なんて運動に疎い私にはよくわからなかった。

「お姉さんはちっちゃいっすね」
「よく言われるけど君に比べたら大体の人ちっちゃいでしょ」
「黒尾」
「え?」
「俺、黒尾っていいます。黒尾鉄朗」
「黒尾…くん?」
「お姉さんは?」
「あ、えと…苗字名前、です…」
「名前さんね」

背の高い男の子改めて黒尾くんがその名前を声にした途端、ぶわわ、と私の中の体温が急上昇した。名前を呼ばれたくらいで、こんな。久しく名前で呼ばれるような関係の異性もいなかったのもあるのか、それともそれをしたのが黒尾くんだったからなのか。

「顔赤いっすね」
「…!と、隣にいた男の子!…帰っちゃったよ」
「え、…うお!まじか」

話題を逸らすことでしか、誤魔化すことができなかった。

「まぁ研磨だから大丈夫だわ」
「研磨?」
「さっきの。幼馴染みなんすよ」
「へぇ」
「それより今は名前さんに興味津々なんですけど」
「え」
「名前さんも俺にもっと興味持ってください」

そう言って朝みたいにニヤリと笑った黒尾くんはきっと確信犯。こう言われて、もう既に私が黒尾くんにドキドキしちゃってることなんてお見通しなくせに。

「…最近の高校生ってこわい」
「褒め言葉と受け取っときます」
「黒尾くんってチャラいってよく言われない?」
「嫌だなぁ、僕真面目で通ってるのに」

それにしては胡散臭い笑顔。それでも私の心臓は未だバクバクと忙しなく鳴っているから、きっとそういうことなんだろう。

「…私を犯罪者にしないでね」



20.01.22.

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