Secret garden(1/5)

ガーベラ、スイトピー、マーガレット、クレマチス、スズラン、アマリリス……。ここは色とりどりの花咲き誇る美しい庭園。その中にそびえ立つ白い建物には鮮やかな金の紋様が刻まれ、太陽の光を浴びて輝いている。
初めてこの光景を見るものはその美しさにしばし目を奪われることだろう。
けれどそれは見かけだけの美しさ。



ざわりと空気が揺らぐ。そよぐ風の匂いが変わった。
明るい庭園に暗闇が立ち込める。
文字通り暗いその闇は物の影などではない。霧のように立ち込める暗いその闇は庭園の片隅で花を摘む少年から漂っていた。
闇が少年の手にする花を包み込んでいく。
じわじわと闇に浸食されていく、花の鮮やかな色彩。
全てを呑み込むかのような真っ黒いその闇は姿に反し、現れたときと同じように一瞬にして消えた――。

「何をしているんだい? 俺も混ぜてくれよい」
幼い声が響いた。
響いたその声にしゃがみ込んだ体がビクリと動いた。
その手から摘み取ったばかりの花々が零れ落ちる。
声を掛けられた人物、花咲く庭園に一人座り込んだ少年は相手の方へ向き直り、その顔をじっくりと眺めた。
輝くブロンド。ふっくらとした頬には赤みが差し、明るい微笑を浮かべるその瞳は深く、それでいて透き通るような青色をしていた。見るからに健康そうな少年だった。
「どこ行くんだよい!」
 声を掛けてきた少年、マルコを無視してその少年は立ち上がった。
その様子を見て慌ててマルコも呼び止める。
「いきなり声掛けたからびっくりしたのかい? ああ、俺はマルコって言うんだよい。ここには迷い込んで入ってしまって……。あ、でも怪しいものじゃないよい! この島にはオヤジたちと一緒に物資の補給に来ているんだよい。なぁ、よかったら仲良くしてくれよい」
そう言って握手を求め、頬と同じくふっくらとした小さな手を少年の前に差し伸べる。
けれど少年はそれを受け取らなかった。
それどころか返事も返さず、視線すら合わせず、その場を立ち去って行ってしまった。
後に残ったのはマルコ一人。
無視された事実に驚きと寂しさを感じながらも残されたマルコはその背を目で追い、その姿が白い建物の中へと消えてしまうのを見た。
名残惜しげに少年の消えた建物を見つめ、その瞳が今度は先ほどまで少年のいた場所を見る。
そしてその瞬間、青い瞳は目を見張った。
先ほどまで摘んでいただろう花々がそこには置き去りにされていた。色とりどりの花が散る地面。それはすでに萎れかけていた。
摘み取られていなければ他の花たちのように今も綺麗に咲いていただろうに横たわる花々にすでに生気は感じられない。 
けれど見るべきものはその花々ではなく、その少し離れた場所にあるもう一つの花の束だった。いや、花と呼べるものなのかも定かではない。恐らくはかつて花だったものだ。
少年の立ち去った後の地面。そこには原型をほとんど留めることなく、無残にも引き千切られた花弁や葉が無数に散らばっていた。



――ここは中身を取り繕うようにその姿を美しさで覆い隠した白い監獄。

外と同じく白一色に彩られた病室で同じく白い衣装を纏ったサッチは外を眺めた。 
外との関係を繋ぐその窓はそれに反して上から四角い格子が掛けられている。
まるで本物の監獄のようだ。
その事実を嘲笑うかのように、サッチの唇が弧を描いた。
〈聖ヘンルーダ病院〉
これがこの建物を指し示す名前だった。
けれどただの病院ではない。
ここには怪我や一般的な病気で来る者など一人としていない。
ここに来るのは所謂、精神を病んでしまった者ばかりだ。
〈聖ヘンルーダ精神病棟〉、これが正しい名前だろう。
しかしこれとてこの場所を本当に正しく示しているとは言えない。先ほど述べたようにここはただの監獄、一般の者が邪魔だと感じる者を押し込めるためにあるに過ぎないただの箱庭だった。
なぜならここの管理者たちは皆、ここで暮らす者たちを本気で治療しよう、治療出来るなどと思ってはいないからだ。
何かに怯え、発狂を日々繰り返す狂人、幻想に溺れ、自身は神だと名乗る虚言者、うわ言の様に死への願望を紡ぎ、その実死ねない自殺願望者。
ここには様々な問題を抱える患者たちが収容されている。
サッチもその一人だ。
患者以外でここに身を置き、のさばっているのは建物と似た白い生き物である。白いシャツに身を包み、白衣を纏う医者、そして白い看護服に身を包む看護士たちだ。
その者達がサッチらを見る目と言えば完全に異物を見るような目だった。
同じ人としては見ていない。憐みや同情さえも窺えない。
飽くまで感情無く、冷たいその眼差しはサッチの身を閉じ込める白いこの建物と何ら変わりはしなかった。
毎日繰り返される意味のない気休めの『治療』と呼ばれる行為。
ありきたりな毎度決まった質疑応答、血圧測定、採血、何なのかもわからぬ薬品の服用。
訪れる医師も看護婦も決まった会話以外は何も語らない。語る時以外は患者であるサッチの方を見ようともしない。
否、語る時ですらその姿を見ない時もある。
いつの間にかサッチもその者たちのことを人として見ることは無くなった。だが、それは自分を人として自覚していることとは違った。
サッチは自身のことですら人として考えることは無くなっていた。
ここは外界から分離された監獄。
ここは世間から人として認められていない者たちが集う場所、ここは世に必要のない異物の住まう場所である。
外見が美しいのはその事実を覆い隠すため、忌まわしいものの存在を少しでも和らげるためだ。
庭に咲き誇るあの美しい花々も決してここに住まう者たちを癒すものではない。むしろ逆だ。
これらの花々は患者としてここにいる者たちから他者が目を背けるためのもの。彼らの存在を薄れさせるために存在するに過ぎない彩りなのだ。
強い風が吹いた。
格子の掛かる狭い空に庭から散っただろう花弁が見えた。
淡いピンク色をした花弁は意思など持たないはずなのにサッチの目にはまるで外界へと出ることのできない自分を嘲笑っているように見えた。
幼い瞳が揺らいで、無意識にその唇を噛み締める。
サッチだって本当はどこにでもいる普通の少年だったのだ。
そう、数年前までは――。
忌まわしい記憶がその脳内に蘇る。



「――なんだ、これ」
遊びに出かけた帰り、ふらりと立ち寄った森の隅で見つけた不思議な果実。
見慣れない渦の模様を纏った、少し歪なその実にサッチは興味を惹かれた。
おもむろに手を伸ばし、優しくその実を千切って自らの鼻に近づけると、仄かに甘い匂いがした。食欲を擽るその匂いに、夕食前で空いた腹が思わず音を鳴らした。
ゴクリとサッチの喉が鳴る。
――そんなに大きくも無いし、食べてしまってもいいだろう。
食事の前の間食は母親から禁じられていたが香る甘い匂いにサッチは我慢が出来なかった。堪らず齧り付くと、柔らかな果肉と果汁が口の中を満たした。
だがその匂いと感触とは裏腹に、その実は恐ろしく不味かった。サッチの嫌いな食物を全て混ぜ合わせたような、今すぐにでも吐き出したくなるほどの味。
けれど食べ物を粗末にしてはならないと教わっていたサッチは無理矢理にそれを飲み込んだ。
それが過ちの始まりだった。

「――うあ……なんだよ、これ?」
変化はそう立たないうちに訪れた。
体を襲う不思議な感覚。それは目にも見え始めた。
じわじわと黒い何かがサッチの体内から溢れてくる。よく見れば左手はすでに真っ黒に染まっていた。
「ひっ……」
己の体に起こった出来事の不気味さに動揺したサッチは堪らず走り出した。自分の家に向かって――。

通り過ぎる街中ではサッチの黒いその姿を見て人々が目を見張り、気味が悪いとざわめきが起こった。しかしそれにも気づかず、サッチはただひたすらに走り続けた。
家に着けば、家族がいる。
母親が夕食の準備をしながら自分の帰りを待ち、父親も時期に帰ってくる。両親ならば、自分の身に起こったことをなんとかしてくれるかもしれない。
恐怖に駆られながらもサッチは必死になって走った。
逸る気持ちと足と共に闇もまたその面積を広げつつあった。



「母さん!」
家に辿り着くとサッチは勢いよくその扉を開け放ち、視界に捉えた母親の元へと駆け寄った。母親が何事かと振り返る。
「あら、どうしたのサッチ……嫌だ、何それ!」
闇を纏うサッチの姿を見て母親が声を上げる。
ゆらゆらと蠢く黒は見るからに異様だった。
「わからないんだ、変な実を食べたら俺……」
母親の言葉にサッチは闇を纏った手を伸ばし、その体に触れようとした。
「やだ、触らないで!」
パシンと乾いた音が響いた。
「――え……?」
たった今しがた受けた行為に、サッチはしばし呆然と目を彷徨わせた。
母親に叩かれた手が下がることなく、宙に漂う。
「……母さん?」
無機質な声が空を震わせる。
母親に拒絶されたという事実がサッチには理解出来ない。
だが、それも束の間で体をじわじわと包み込む闇のごとく、母親から拒絶されたという事実がサッチの脳と胸に染み渡る。
「どうし……」
「父さんが帰るまであ、あっちの隅に居なさい!」
戸惑うサッチに母親が放った言葉。
震える指が部屋の角を指さした。その目は逸らされているものの、そこに潜む色味は決して愛する息子に注がれる種のものではなかった。
――自分のことを恐れている。助けてはくれない。
サッチの手を振り払い、顔を背ける母親。
おかしくなってしまった自分を彼女は見捨ててしまうのだろうか。そんな思いがサッチの胸をさらに締め付ける。
「きゃああああ!」
つんざく様な悲鳴が空気を裂いた。
恐れおののく彼女の先には自身の息子である、サッチ。
けれどその姿はさらに異形と化していた。
まだサッチの周りを漂うほどだった闇が今はその全身を呑み込もうとしている。翠に輝く瞳だけが黒い闇の中で、鮮明に輝いて見えた。
――嫌だ、誰か助けて。
サッチは闇の中でもがいたが母親はすでに腰を抜かし、さらには外へ出ようと床を這っていた。
闇に取り込まれた体は何も見えず、何も聞こえない。
不安がサッチの心をさらに犯していく。
外では騒ぎを聞きつけ父親が駆け戻ってきていた。這い出てきた妻を見て、驚き、そして息子であるサッチを確認する。
だが、彼もまた同じだった。
姿の変わり果てた息子を見て恐怖し、扉を閉ざした。暗闇に閉ざされる中、辿り着いた扉をサッチが押しても叩いても開けてはくれない。闇に覆われた唇が、閉ざされた家の中で縋る様に叫び声を上げた。
押しても引いても扉は開かない。
家族から受けた決定的な拒絶。
心までも真っ黒に染まったサッチは一人喘ぎ続けた。
自らの呼吸や鼓動までも内から溢れてくる闇に奪われていくような錯覚。仕舞いにはその命さえも――。

そうしてサッチは倒れた。
不思議なことにあれだけ強固に取り巻いていた闇はサッチが意識を失うと同時に跡形もなく消え去った。
そしてそれは外からも見て取れた。
意識を失い倒れた息子を見て、その両親が取った行動。
それこそがサッチがあの忌まわしい場所に囚われている理由である。



――なんてくだらない世界。

自身の境遇を嘲笑するサッチ。
気を失ったサッチを両親はこの病院へと預けた。
いや、預けたと言うのもおこがましいだろう。
正確には押し付けたのだ。
気味の悪いものと化した自分らの息子を――。
意識を失った後、サッチが目を覚ますとそこは船の中だった。それも暗い船底の倉庫。揺れる床板と染みついた潮の香りがそれを示していた。
近寄った扉には鍵がかけられていたがサッチは暴れるようなことはしなかった。
もう頭の中で理解は出来ていた。
自分は両親に拒絶され、見捨てられたのだろうと――。
事実その通りだった。

食物や簡易トイレだけ用意された閉ざされた倉庫で過ごした日々は日数にして約何日だろうか。
暗い部屋の中ではそれすらもわからなかったが一ヶ月以上は経っていたのではないだろうか。
ある日、揺れ続けていた船が止まった。
やっと光を浴びた扉の向こうではこちらの様子を不安げに見つめる瞳が幾ばくか。
仕草のみで出るように促され、逆らうことなく従うと自分を囲うように見るからに強そうな男たちが空間を開けて誘導を掛ける。その腰や手には刀や銃などの明らかに護身用の武器が携われている。
――そんなに自分を恐れているのか。
闇に憑りつかれた後の自身の姿を見て両親が浮かべた表情や態度を思い出し、サッチの胸がちくりと痛む。
それでも導かれるままに歩いた。

充満する花の香り。
しばらく歩いていると風に乗ってなんとも言えぬ香りが漂ってきた。
俯く顔の鼻先をくすぐったその豊満な香りにサッチが顔を上げると、吹き渡る風に花弁を散らしながら咲き誇る庭園が見えた。
息を呑むほど美しい。
そしてその中に佇む白い建物。
金色で刻まれた艶やかな模様は見知らぬ文字のようにも見えたがその意味はサッチにはわからなかった。
だが物の印象は一瞬にして変わる。
押し付けられるように建物の中にいた人物に受け渡されたサッチ。
対峙したその人は全身が真っ白で表情が読めぬ眼鏡をかけていた。ここまでついてきた男たちの影はもう無い。
表情を読むことも出来ない相手が言葉を放った。
 「――ようこそ。今日からここが君の居場所だ」



そう、始めこそ美しいと感じたこの場所こそが両親に見捨てられ、他者からも恐れられることとなったサッチの居場所となった。
だが世間で言われる『居場所』とはほど遠い。
世間で言われる居場所というものはもっと温かいものだ。
自分という存在があるべき場所であり、周りから自分の存在を認めてもらえる空間――。
いや、この言い方ではここもその居場所とやらに当てはまるのだろう。 
仲間とも言える自分と同じく『患者』と称される人々はほとんどがサッチにもわけのわからない人々ばかりだった。
そのような者たちが存在しても許される場所であるこの場所は確かに居場所と呼べるものに違いなかった。
けれど、違う。
言葉に表すのは難しいことだがここがそう呼ぶべき場所ではないということをサッチは感じていた。
あの、自らを初めて迎え入れた医者の声には何の情も感じ取れはしなかった――。

見た目こそ美しい建物の中は恐ろしく殺風景だ。
外を彩る花の欠片も見当たらず、廊下や空きスペースには一切のものが無い。白い壁、白い床、白い天井。それのみだ。
個人の室内ですら物は少ない。
室外と同じように白い間取り。置かれたベッドもクローゼットも真っ白、衣服類も当然全て白だ。
気味の悪いほどの統一色。
まるで汚れたものを白で覆い尽くすかのように。
室内にある僅かな色は医師が用意した本、数冊。
これはいわゆる娯楽品である。
何も無しに部屋の中で過ごすのは退屈過ぎる。だから患者といえども多少の要求は通る。
もちろん断られることも多いが。
外に出たいというのもその一つだ。
ここの者たちは一切外に出るのが許されない。
輝く太陽も、咲き誇る花も、澄んだ空気も、全てが壁と窓に遮られている。届く範囲に見えてもそれらに手を伸ばすことは許されない。
そしてそうして中の者が完全に外と遮断されているその事実が外の者たちにとっての安心の材料だった。
だが、ここで一つ疑問が生じる。
何故、患者があるはずのサッチが外であるはずのあの庭にいたのか――。
それはサッチが賢いからに他ならない。
医師や看護師の前ではサッチはどの患者よりも大人しく、従順であった。
診る側にとっては理想的な患者と言ってもいいだろう。
けれど心の底から従っているわけではない。
ここには様々な患者がいて、その態度も、それに対する医師たちの対応も様々だ。
サッチはその者たちを見て、自分にとって何が都合良いか判断しているに過ぎない。
ここでは医師の言葉に逆らわず、ただひたすらに大人しく、黙って時を過ごす。それがここでの最善だった。
そして理想的な患者ということはその監視が甘くなるということでもある。
普段から暴れ、医師の手を煩わせる者たちはそれだけ周りは注意を払う。より強固な作りの部屋に入れられ、見回られる時間も多くなり、結果自由が減る。
こんな空間で自由と呼べるものがあるのかもわからないが、一人きりになれるという点においては重要だった。
たった一人きりになれる、決まったその時刻――。
サッチは部屋を抜け出して、許されるはずのない外の世界を味わう。
模範的な患者であるサッチのその部屋はその監視が緩いように、その部屋もある程度は立派だ。
中にはトイレやバスルームが付き、格子はあるものの窓の大きさも広い。
これが素行の良くない患者ならばトイレ・バスは外付けで、用時には部屋の外へ出なければならない。時間帯も決められている。そして部屋はほんの小さな窓があるだけのただの真四角の作りのものになる。
だが、そうでないサッチは医師が訪れる夕時、そして朝・昼・晩の食事時以外は基本自由だった。
そして診察の時間と食事の時間は毎日決まっている――。
こんな牢獄のような場所にも時計は存在した。
患者に時間の感覚が無くなっては流石に不便だからだ。ある程度の時間の割り振りと言うものは知っていて貰わなければならない。
サッチは時刻を確認した。
今日の昼食は食材の運搬の遅れだとかで通常よりも遅かったが診察の時間まではまだ十分にある。
それを確認してサッチは素早く動き始めた。

「本当に作りが甘くてよかったぜ」
ゴトリと音がして中に風が吹き込む。
格子が掛けられているはずの窓が空をそのままに映し出していた。
「よいしょっ」
幼いその体がベッドを台にして窓を乗り越える。
慣れた体は器用に草の上に落ちた。
気付いた者は誰もいない。
運の良いことにサッチの部屋は生垣の死角になる部屋だった。
格子はいつしか外に出たいと願ったサッチが月日を掛けて壊した。見つかればさらに狭い空間に閉じ込められることになることはわかっていたがそれでも外に出たいという欲求を止めることは出来なかった。
体に付いた僅かな草を払い、サッチは空を仰いだ。
今日も晴れ晴れとした青空だ。
自然と気持ちは浮き立ち、その足はもはや行き慣れた場所へと向かう。

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