30万打記念企画 | ナノ


「ただいま」

玄関を開けるとちょうど味見をしていたらしいなまえがこっちを見て笑う。タイミングよく炊飯器がご飯を炊き終えた音を告げ、ほんわりと白米のあたたかいかおりがせまいキッチンから香って来た。そのやさしい空間の中から花柄の可愛いエプロンに身を包んだなまえが手を洗って、きちんと拭いた後、ぎゅうっと抱き付いてくる。その様子をただぼうっと見ていたことに気が付き、かばんをおろすことなく受け入れ、同じように抱きしめ返した。

「おかえりなさい」

そのたった一言に身体が震える。うん、と喉に詰まってしまった言葉をおもしろそうに笑われて、恥ずかしいと思う気持ちを誤魔化すように彼女を横抱きでリビングまで運び入れた。急に浮いた身体に小さな悲鳴をあげた彼女は、それでも笑って頬にキスをしてくる。こういう余裕が、少しだけ悔しい。彼女は家で待っている弟のためにも帰って夕飯を作らないといけないから、彼女の学校帰りに会える時間はほんとうに少ない。最近はもっと長く一緒にいられるように塾講師のバイトの時間帯も今までと変えてもらっているのに、それでも足りるはずがない時間を噛みしめるためにきつく抱き締める。けれどキスをしようと顔を近付けると口を両手で塞がれてしまった。

「だめです、ちゃんと手洗いうがいをしてからですよ〜」
「………」

渋々立ち上がって洗面所に向かう。その途中でフライパンの中身を見ると、今日の夕飯はどうやらドライカレーらしく、トマトとスパイスのいい匂い、透明なお皿には涼しげな野菜サラダとさらには冷製スープまで作ってある。あの食材たちがこんなにもおいしそうな料理になるなんてほんとうにすごいといつも感心すると同時に、どうしようもなく胸がいっぱいになって困る。こんな幸せなことがあってもいいのか、吐きだしたため息はどうにも甘ったるく廊下に響いて、キッチンのおいしそうな香りとない交ぜになる。溜まっていた洗濯物が洗濯機の中から姿を消していた。そういえば散らかっていた洗面台もきちんと整頓されている。彼女の言う通りに手洗いうがいをし、ついでに顔も洗った。彼女といる時の自分はいつも締まらない顔をして、現にお預けをくらった今でも頬が情けなくだらしなくゆるんでしまってだめだ。

…だってこんなの、まるで新婚生活だ。

「あのね、利吉さん」
「うん」
「わたし、ここに来るの、今日で最後にしようと思う」
「  え、」

しかしそれは、彼女のいやにあっさりとした一言であっけなくも終わりを告げる。

こんなに綺麗な子が存在するのかと、思った。バイト先にとても綺麗な生徒がいるというのは下世話な同期の話にしょっちゅうあがっていたし、生徒からの噂もあって存在は以前から知っていたけれど、自分のシフトとはかぶっておらず会うことは一度もなかった。噂になるといっても高が知れてるだろとか、みんな大袈裟すぎるだろとか、自分の彼女のほうが可愛いとか、心の底で馬鹿にしていた自分が簡単に崩れ落ちたのはあっという間だった。

「はじめまして」

…そして事もなく捕らわれる。
隣には付き合って1ヵ月も経っていない本当の彼女がいた。目の前には、初めて会っただけの彼女の友人。それなのに、それなのに。脳を強く刺激したはにかんだ笑顔が世界の中心で輝いて、なまえが、なまえだけが、きらきらと輝いて見える。なまえだけを切り取った世界はえらくゆっくりと時間が流れ、他のどんな好きなものでも、その魅力が一気に色褪せていって、世界が、20年とちょっとかけて築いてきた世界が、簡単に彼女だけのものになった。瞳の奥のものに絡め取られるように、足元から、縛られるように、その時点でもう、なまえしか見れなくなった。

「すき、りきちさん」

罪悪感はあった。けれどなまえを前にすると罪悪感なんて一瞬で消え失せてしまって、付き合っている彼女に悪いとか、なにも考えられなくなるのだから元も子もない。もちろん弟にも嫉妬した。弟のことを語るその目はとても優しく穏やかで、そこに自分は絶対に入り込めなくて、自分意外にも世界を持っているのだと、その眼差しを受ける対象が自分意外にもいるのだと思うと苦しくなった。けれどなまえが笑ってくれたらすべてを忘れられたのだ、自分の名前を呼ぶ甘い声、柔らかい手、ゆるやかに弧を描く大きな瞳も、目の前の穏やかななまえは間違いなく自分だけを映してくれたから。

「……なんで、」

本格的に就活が始まる前にもう塾のバイトは辞めようと考えていた。塾の生徒と交際関係にあるだけに留まらず、さらに浮気までしていることも今になってやる瀬なくなってしまったから。自分の手で幸せにしたかった。自分の隣で笑っていてほしかった。バイトも辞めて、本当の彼女とも別れて、なまえと一緒に生きていく。だってそれでもなまえは一緒にいてくれると、嬉しいと笑ってくれると、…あぁ俺は、いつから自惚れていたのだろう。

「利吉さんよりも大切にしなきゃいけない人がいたの」

満足だった、彼女がいれば、彼女だけがいれば、それだけで。たった、それだけで。それなのに、どうして?

「…それは他の男の子?」
「男の子っていうか、うーん、…そうだね、うん、世界で一番大切なおとこのこ」

中身は無邪気な子どもだった。強欲で、自分が欲しいものは必ず手に入れなければ気の済まない、仕方のない大きな子ども。彼女といるとどうしても頬が緩むし、口はいつもぐにゃぐにゃに引き締まらなくって、彼女と彼女の手料理が待っていると思えば面倒な大学の授業もがんばれた。キスをしてと言われたらお偉いさん相手の電話の途中でもしたし、手を繋いだまま片手だけでレポートを打ったし、包み込むように抱き締めたままテレビを見るのも日常だった。そんな強欲な彼女に初めて会ったあの日、自分を欲してもらえたことが嬉しくて嬉しくて、どうしようもなく幸せな毎日をだらしなく過ごす。猫のように気まぐれでだらしないくせ、手際がよく料理も家事も完璧にこなすギャップに夢中だったのだ。

「…じゃあ最後に、君の作った酢豚が食べたいな」

今までみたいに触れられなくていいから、笑い合えなくてもいいから、ただ塾先の教師と生徒として接するから、これからも会えないかとか、自分はここまで往生際が悪かっただろうか。そんな関係ではきっと我慢できないのは、どうあがいても自分の方なのに。けれど彼女にあんな表情をさせる人間に、勝てるわけがないと、分かってしまった。困惑を隠して強がった情けない言葉の後、彼女は綺麗に笑った。

「鯖の塩焼きならいいよ」

気まぐれな彼女のことだ、明日はなにが食べたい?って、シャツにアイロンかけといたからねって、ちゃんと朝ごはん食べなきゃだめだよって、今までみたいに笑ってくれるって、すでに現実逃避を始める頭は虚しい妄想を続ける。けれど食材買いに行こうよと俺の手を引いた彼女はどこか大人っぽい笑顔を浮かべるから、俺ばかりがいつも振り回されて悔しい。自分は彼女と違って立派に大人をしている、だから引き際も、彼女の記憶の中でもかっこよくありたかったのだ。



初めてふたりで手を繋いで買い物に出かけた。なんてこともない会話を続けて、初めてふたりで見る風景に、幸せからかも寂しさからかも分からない涙が出そうになるのをなんとか堪える。だって泣いてしまったらこの笑顔が滲んで見えない。ドライカレーに鯖の塩焼きなんて組み合わせも何もないけれど、それでもやっぱり、好きな人の作った料理は、どうしようもなくおいしかった。またねといつもと同じように部屋を後にした彼女のすべてを俺はいつまでも忘れることはできないのだろう、悲しくて切なくて、けれどとても穏やかな時間だった。そして頑なに手を離そうとしない俺をおもしろそうに笑う綺麗な笑顔をまぶたに焼き付けたまま、ひとりきりのベッドで今日も眠るのだ。

彼女からもらったあの若草色のネクタイだけはずっと大切にもっていよう。


すすきさん/リクエストありがとうございました!

×