30万打記念企画 | ナノ


学園長先生のお使いで金楽寺の和尚さんのところに行った、その帰り道だった。日も暮れて暗くなった山道は通いなれているはずなのに少し怖くって、和尚さんから学園長先生へと預かった贈り物をぎゅっと握り締めて小走りの足を速くした。

「早く帰ろう」

隣を同じ速度で走る左近にそう言って、また、少しだけ速度を速めた。今日は学園を出てからここまで左近の不運も発揮されなくて、強いて言えば学園を出る直前に蛸壷に嵌まったことか行き道で何度か転んだことくらい。でもこんなことはしょっちゅうだから数には数えない。とにかく今日は平和に一日を過ごせている。 …なにか嫌な予感がするけれど、ここまで大それたことは起こらなかったんだ、こんなとこで不運に会って堪るか。何事もなく無事に帰ってやる!

「左近、近道して帰ろう」

早く学園に帰りたかった。先程から胸を掠める嫌な予感がどうしても拭い切れなくて、早く学園に帰りたいという一心から僕が言った提案に、僕と同じことを思っていたのであろう左近も頷いたので、正規の道から逸れた山道に入った。

きっと、それが間違いだった。

けもの道のはずのそこには明らかに人が通ったように草が倒れ土が固まり道が出来ていて、森の中でも更に暗いはずなのに妙に人の気配がした。胸に溜まっていた不安が背筋を冷たくする。けれど足を止めるわけにも行かず、隣の左近が転ばないようにと気をつけながらあたりの気配に目を光らせる。誰かいるかもしれない。でも大丈夫、今走っている僕たちの背中を上から襲って来ないということは相手はきっと忍者ではない。それなら大丈夫。こっちには忍具があるし、左近だっている。もう二年生だ、いくらか術も使える。自信だってある。それでも万が一襲って来られた時のためにちらちらと左近と目配せをする。同時に頷く。意思の疎通も、心配ない。――はず、だったのに。

「この道に入ったのが間違いだったなぁ」

今目の前で僕たちを囲む10人ほどの男たち…おそらく山賊であろう大男たちは僕らに向かいぎらりと光る大刀を真っ直ぐに構えた。下卑た笑みを顔に張り付ける、品も教養もないような汚らしい奴らだった。小道を抜けた開いた場所で疲れた足を止めたのがまずかった。先程から感じていた気配の根源であろう人たちが、気付いて急いで逃げようとした僕らをあっという間に囲い込んでしまったのだ。僕らが学園で扱う刀の二倍はあるんじゃないかと疑う程の大きさとなんとも言えない押し寄せる威圧感に、足が地面に張り付いたように動かない。懐の苦無を取り出そうにも、ぎろりと睨まれて手を動かすことすらままならないし、そもそも苦無ひとつじゃこの大刀に太刀打ちできる気もしなかった。向こうは腐っても大人だ、力で敵う相手でもない。あぁどうしよう、 …怖い、

「さ、三郎次…」

左近と背中合わせになるけれど、左近も僕と同じように恐怖でなにも出来ないのだろう、呼ばれた名前からは困惑の色しか伺えなかった。じわりじわりと山賊たちが近付いて来る。「お前らにはその手に持っている荷物を置いて、それから死んでもらおうじゃねぇの」。頭であろう人相の悪い男がにやりと笑う。ひい、後ろで左近の喉に詰まった声が聞こえた。そいつが刀を振りかざすのがやけにゆっくりと目に焼き付く。もしかしたらこの一撃でもうこの世にはいられなくなるかもしれない、目を開けたら天国かもしれない。いや、天国ならそれでいい。まだ細く意識のあるうちに痛みだけを持って息絶えるまで放置されるかもしれない、今までと同じように生活できなくなるような後遺症が残るかもしれない。…けれど、僕たちは、これでも忍者のたまごなのだ、逃げるような真似はしたくなかった。最早成す術もない僕らはせめてもと急いで苦無を構え、目をぎゅっとつむる。なにか、小さくてもいい、一太刀浴びせることができたら、と。



「っ、なんだお前は!」

いくら経っても刀が振り下ろされる気配がしなくって、でもすぐ間近で聞こえた刀と刀が交わるような音にそうっと目を開いた。ぼやける視界の中に映る、山賊の刀を受ける花浅葱の鮮やかな着物、さらりと揺れる絹みたいな髪の毛、広く頼もしい背中。ほう、と、いつの間にか止めていたらしい息をそっと吐きだせば、あたりのざわついた空気に溶けて消えた。

―――僕は知っている。この人は、この、後ろ姿は。

「 、名字せんぱい…」

恐る恐る声をかけると、山賊から受けていた刀を押し返したその人が僕らのほうを振り返った。

「おぉ。ふたりとも怪我ない?」

名字先輩、名字先輩だ。低くて耳に溶けるような優しい声色が降りかかる。見慣れた、無条件で安心を与えてくれる存在に、意識せずとも涙がこぼれ落ちた。僕はこの人の強さを知っている。僕らの背に合わせて少しだけ屈んだ先輩がそれに気付いてそっと涙を拭ってくれるから、さっきまでの恐怖が安心感とか心強さに変わってどうしようもなくなってふたりして抱き着くと、先輩は拒むことなくそれに応えて抱きしめ返してくれた。ごつごつした手がゆっくりと背中を叩いてくれる。

「ごめ、なさい…! ぼくたちなにも出来なくて…!」
「なんで?戦おうと思ったんだろ、それだけで十分偉いことだ。あとは俺に任せて」

これでも六年生だからな。にやりと得意げに笑い、目の端に溜まっていた涙を拭った後、俺から離れんでねと僕らを庇うようにして先輩は苦無を握った。たった数秒前、こんなちっぽけな苦無じゃ敵わないと思っていたのに、どうしてだろう、先輩が持つととても頼もしい武器に見える。山賊たちは渾身の一撃だったであろう先程の刀を受け止めた先輩の登場に驚き一歩たじろぐように後ずさった。学園ではいつも眠たそうな顔で笑っているのに、今だって山賊相手に睨みつけるその目は気だるげなのに、それでもこの人は強いのだと分かる。負ける気がしない。負かされる未来が見えない。雰囲気だろうか、はっきりと言葉にはできないけれど、その纏う空気は、もう、たまごである生徒が放つそれではない。

綺麗な髪の毛が流れるように揺れて、花浅葱が一瞬だけ視界から消えたのを最後に、後のことはぼんやりとしか覚えていない。一気に迫ってきた山賊たちを先輩がひとりで次々と倒して行く。相手の攻撃を受ける時だけしか苦無は使わずに、殺すのではなく、鳩尾や首の後ろを蹴って気絶させていた。後ろから刀を振りかざした山賊の攻撃をあっさりと躱して(身体のあちこちに目がついてるんじゃないかと思った)、かわりに顎の下を蹴り上げる。尻尾を巻いて逃げ出そうとした数人にも後ろから襲い掛かり、ものの数分で盗賊たちが全員その場に倒れ込んだ。ほんとうにあっという間だった。先輩の戦う姿があまりにも綺麗で、僕らふたりはずうっと、一瞬も見逃さないように、その姿を目に焼き付けた。きっと全員を気絶させるに留めたのは先輩の優しさなのだ。山賊に対してではなく、まだ実践でまともに血を――人を、殺すところを見たことのない僕らに対しての。だから山賊を気絶させるよう一撃で仕留めて、後ろで見てる僕らに下手に動揺を与えないようにしてくれているんだ。

「よし、じゃあ帰ろうか」

すべての山賊が力無く地面に横たわって、ただ蹴られたり殴られただけなのにもう誰も起き上がる気配がしない。森の端の方から聞こえる鳥たちの鳴き声をぼんやりと聞く。着物についた砂埃を簡単に払いのける音が近くで聞こえ、はっと気が付くと先輩が柔らかい笑顔でこちらに近付いて来ていた。今だ恐怖が抜けずに小さく笑っている膝をなんとか奮い立たせ慌てて立ち上がり、お礼を言うため頭を下げるとどういたしましてと頭を撫でられる。いつもなら子ども扱いしないでくださいと払いのけるであろうその手を受け入れたのは、きっと純粋に嬉しかったから。先輩が助けに来てくれたことも、偉いと褒めてくれたことも、こうやって事もなく触れてくれることも。それでもどうしても目を合わせることができず目を逸らしていると、突然視界に入ってきた大きな手。…先輩の。

「…手?」
「手。繋ごう」
「えっ、…な、なんで、ですか」
「え?…安心するから…?」

きょとん。小首を傾げた先輩と数秒間見つめ合う。頭を撫でてもらえたことは嬉しいけれど、手を繋いで帰るとなると話は別である。さすがにそれは恥ずかしさが先行する。繋ぎませんよとそっぽを向くけれど、先輩はなんでと心底理由が分からないとでもいう風にさらに首を傾げる。その表情は学園内でもよく見るぼけっとした顔そのもので、きっとこれがこの人の素なのだと分かってしまうから余計に質が悪い。先輩は紛れもない善意でやってくれているのだし、上級生として下級生は守るべき存在として刷り込まれているからこそ、この人には僕たちの真意なんて生涯かけても伝わらないと思う。つまり僕たちが折れない限り先輩は手を差し出し続けるのだろう。

差しだされた大きな手はあちこち肉刺が潰れていてごつごつと皮膚も固い。やっぱりその手をどうしようかと目を泳がせていると、意を決したように左近が先輩の右手を勢いよく掴んだ。頬も耳も真っ赤になっていて、左近も左近で一生懸命なのだと分かる。すると左近の手を包み込むように握りしめた先輩の唇が緩く弧を描いて、その表情が綺麗だなぁとか、手でっかいなぁとか、そんなことをぼんやりと思っていると、伸びてきた左手に自身の右手を簡単に攫われた。抵抗の言葉を言おうにも想像以上に温かかった手にきゅっと力が入って、その大きな手から伝わる鼓動が、僕をひどく安心させるから、それ以上言葉が出て来るはずもない。 そうだ、この人も、生きてるのだ。

はるか遠くにおとずれた夜明け



生きてる。先輩が、助けに来てくれた。笑ってくれた、褒めてくれた、頭を撫でてくれた、抱きしめてくれた、僕らは、なにも出来なかったのに。その温かさに、さっき止んだはずの涙がまたじんわりと戻ってきてしまって、急いで繋いでいないほうの手、荷物を抱えた手の甲で拭いた。今日の晩御飯はなんかなぁと暢気に笑う先輩に、途中で呟くように告げた「ありがとうございます」は、きっと届いたはずだ。


OLiVAさん/リクエストありがとうございました!

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