30万打記念企画 | ナノ


その日は、生まれて初めてアイラインが一番綺麗に引けた日だった。

たまたま朝少しだけ早く目が覚めて、いつもより優雅に朝食を摂れて、占いも1位で、いくらかゆったりと準備をしても時間に余裕があったから、なんてこともなく、薄くお化粧をして、さらにいつもは整えただけの髪の毛を巻いてみたりした。誰とデートするの?とにやつくママを適当にあしらい、軽い足取りで玄関を出れば朝の綺麗な空気が清々しく出迎えてくれる。イヤホンから流れ込んできたのは最近お気に入りの明るく爽やかな音楽で、それに乗せられるように軽やかな足取りで学校への道についた。

「かとーおはよお」
「おーっす、…お?」

電車を降りた先に見慣れた後ろ姿を見つけた。童顔のくせにやけにがっしりした背筋はゆるく丸まっていて、ぼさぼさ頭が風に吹かれている。今日はきっと朝練がなかったのだろう、おんなじ電車に乗っていたらしいその丸まった背中をぽんと叩くと、片耳のイヤホンをとった加藤が目を丸くした。

「え、名字?」
「うん」
「びびったー、まじ誰か分かんなかったわ」

なんか今日いつもと違うくね、と目をぱちぱちしながら問うてくる加藤にそうだろうそうだろうと誇らしくなる。加藤は脳筋で馬鹿だし鈍感だけど、なにか本能で感じ取る部分があったらしく、少し考えた後に あー髪の毛!と合点がいったように手を叩いた。加藤とはたぶん、男子の中で一番仲がいいと思う。次点で佐武。2年連続でおんなじクラスで、話も合って、笑いの沸点が一緒で、男女でペアをつくってって言われたら真っ先にお互いを指名するような、そんな仲。精神年齢が同じくらいなのかな、それはいやだけどとにかく加藤とは仲がいいのである。だから距離が近いのもしょうがないというかなんというか、お互い本当に頭が空っぽで意識なんてこれっぽっちもしていないということを理解してほしい。名字にもこんな技術あったんだなと髪の毛に手が伸ばされた、その瞬間だった。

「邪魔してごめん、わざとだけど」

いきなりわたしたちの間を誰かが通りすぎて、ふらついた加藤のほうからおわっだなんて声が聞こえた。どうやらぶつかられたらしい。その当たり屋が3歩先でくるりと振り返る。…ずいぶんと虫の居所が悪い笹山だ。なにすんだよ兵ちゃん、なんて加藤が抗議をするから、こんな爽やかな朝から邪悪な空気になるのだけは避けようととりあえずおはようと言うと、鋭く尖った目でわたしまで睨まれてしまった。「早く行かないと遅刻するんだから」。どすどすと歩を進める後ろ姿をふたりでぽかんと見送りながら、少しだけ呆れる。あいさつくらい返してくれてもいいじゃんとか、見事に加藤だけを狙った犯行なんだなとか、この時間だとまだまだ余裕なんだけどなぁ、とか。……。

「笹山ってほんとにわたしのことすきなの?」
「じゃないと俺あんな睨まれねーわ」
「確かに」
「確かにじゃねーよ。早く返事してやってよ。俺と虎若に対するヘイト半端ないんだから」

『そんなこと言われたって』。声にはしなかった感情が顔に出ていたのだろう、加藤が苦く笑う。

「ま、兵ちゃんあんなんだけどさ、悪い奴じゃないってのは俺が保証するよ」

…加藤おまえ、いい奴だな。



「団蔵とかおまえまじで見る目ないから」
「…加藤いい奴だよ」
「あんな脳筋野郎のどこがいいんだよ。脳内ピンク色してるのに」

茜色に染まる放課後の教室で、なぜかわたしは腕組みをした笹山に睨みつけられていた。眉間には相変わらずこれでもかというほど皺が寄っていて、せっかく綺麗な顔をしているのにもったいないなぁとか、皺の痕がとれなくなったらどうするんだろうとかぼんやりと思う。…それにわたし、笹山がなかなかにむっつりなの知ってるよ。足の綺麗な女の子が好きなんでしょ、夢前くんが言ってた、…なんて口が裂けても言えないけれど。

説教を右から左へ受け流しながら加藤への悪口にちょいちょいフォローを入れてみるもすぐさま一蹴されてしまって、ため息を吐きだすともっと文句を言われかねないので頬にため込む。なにその顔ふざけてんのと怒られる。…飲み込むべきだったみたいだ。

「だいたいおまえが嫌がらないから団蔵が調子にのるんじゃん。もっと嫌がれよ」
「なにを嫌がるの?」
「はぁっ!?」
「ちょ、声でかいな!」

笹山は友だちだった。けれど加藤よりも仲がいいかといえばそうじゃない。加藤とは呼吸があうのだけど、笹山は人見知りだからとっつきにくいし口悪いしヒステリーだしなにかあればすぐ三ちゃーんって言うんだもん。まぁでも、趣味らしいカラクリのことを語る目はきらきらしていて、ボキャブラリーが貧困だからすごい以外の感想を言えないけど本当に純粋にすごいと思う。わたしには趣味らしい趣味がないから、ひとつのことにあれだけ夢中になれて、且つちゃんと成果も上げ、そして将来にも繋がっていることを素直に尊敬する。なにを言っているのか根本的なところはひとつも分からないにしろ、カラクリについての話を聞くのは好きだ。あと物理の授業でもたびたびお世話になっている。仲良くなれば懐いてくる猫みたいだって言って、夢前くんからも賛同された。笹山の一番の女友だちがわたしであることには気付いている。笹山のことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。それはもちろん、あくまで友だちとして。

「だからぁ、おまえが簡単に、触らせたりするから!」
「…あぁ、髪に?」
「そうだよ!それ以外にある!?」
「……」
「あいつ単純なんだから勘違いさせるようなことすんなって言ってんの!」

お得意のヒステリーだ。こうなると笹山はなにがなんでも聞く耳を持たないから厄介なんだ。わたしだけならともかく加藤のことも悪く言うもんだから少しだけむかついた。今朝、朝にふさわしく爽やかに笑った加藤は割と笹山のことを思ってあげてるのにとか、付き合って3ヵ月で別れたやつが見る目ないとか言うなとか、云々。だから意地悪してやろうって思って、ぐいっと近付いて、握り拳になっていた左手を一思いに握ってやった。固い拳を指でこじ開ける。手汗がすごい。わたしたちの間の距離が一気になくなり、大きな目がぱちぱちと瞬きをして、さっきまであんなに饒舌だった口は魚みたいにはくはくと息を吐き出すだけ。驚いた笹山が一気に顔を赤くする。でもわたしは平気。だって笹山は友だちだもん。

「加藤のこと悪く言わないで。加藤は大切な友だちなの。なんでそんなこと言うの?」

そしたらいつになく弱々しい声で、言った。

「…だっておまえ、団蔵のこと好きじゃん」

呆れた。拍子抜け。…わたし、加藤のことが好きとか、言ったかなぁ。じゃあ笹山は、わたしは加藤のことが好きで、スキンシップを計ったら単純で脳筋で脳内ピンク色の加藤がわたしのこと簡単に好きになっちゃうからやいやい言ってるの?そして勝手に怒ってるの?…どうしてひとりで被害妄想繰り広げて落ち込んじゃうんだろう。自分に自信があるくせに途端に意気地無しになるのはなんで?身長はひょろひょろと長いくせにそんなに小さく見えるのは、顔を俯かせる癖があるから?…もう、どうして笹山が泣きそうなの。胸が震える。飲み込むこともせず吐きだしたため息で変に吹っ切れたのか、笹山の細くて固い指先がわたしの涙袋をなぞる。こっちが触ったら、すぐに触ってくる。なんだよ、調子にのってるのはどっちだよ。

「アイライン、きれい」
「…今それ言う?」
「でもなんもしてないほうがすき」
「今日はたまたましてきただけだよ」
「知ってる。ずっと見てきたから、知ってる」
「………」
「 すき。だから、団蔵と仲良くしないで」
「………」
「ごめん。名字と、友だち、やめたい」

…あぁもう、降参だ。


大木さん、リクエストありがとうございました!
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