短め | ナノ


1.なんてことはない日の出

 「あ、きよ。おつかれ〜。ばいばーい」

 部活終わり、むわりと汗臭い体育館から抜け出すと、ちょうど今から帰宅するらしいそいつがタイミングよく体育館前を通った。帰宅部のくせに帰るの遅くね。送ってやろうかと思ったが一緒に帰るらしい隣にいた奴がふいに視線を寄越してきた。サッカー部の佐藤だ。なんで一緒に帰ってんだよとは思ったがふたりが以前同じ委員会に所属してからというものなにかと仲がいいらしいことは聞いていた。しかし、たとえ男に下心があろうとも、女には絶対ないからどうでもいい。あのあほ面はなにも考えていない時のそれだった。佐藤とは知り合いでもなければ面識もない。ので睨むような視線も気づかぬふりをしてなんてこともなく挨拶を返した。「おー。またな」。楽し気な笑い声が遠くなっていく。「…え、宮地さん、きよって呼ばれてんですかっ」。高尾は部活後だってのにうるさい。「宮地さんあの先輩と仲いいんですか?」「ふつう」「あれ彼氏ですか?」「ちげーよ」。ですかですかですか。高尾がうるさい。あいつが帰っていったほうをじいっと見つめながら、あの先輩可愛いなって思ってたんですよなんてしみじみ言う。まだしごかれ足りないのかテンションが上がっているのか部室に向かう俺にウザ絡みをしてくる。大坪も木村もなにも言わず呆れた笑いをこぼすのみである。「なまえは年下に興味ねーぞ」「名前呼び…!?」。どこに興奮する要素があるのか名前まで可愛いと騒ぎ出し、終いにはあいつを紹介しろだのなんだの言いだして、さすがに鬱陶しいので途中からは無視を決め込んだ。「もー!きよさんってば!」「てめーが呼ぶなきしょくわりー」「ひでぇ!」。可愛い後輩の頼みでしょって、どこが可愛いんだよ轢くぞ。


2.ふたりのこと

 「きよ」

 いつも通りの声色で呼ばれた名前に振り返る。俺のことを名前で呼ぶ人間はこの学校にひとりしかいない。けれど振り向いた先、同じ目線の位置には声の主が見えなくて、首を傾げると「おいこら」と背中をか弱い衝撃が襲った。「なんだいたのか」「いたわ」。いつも通りのやりとり。下を向けば眉間に皺を寄せたそいつが紙パック片手に睨んでいた。最近いよいよ身長が190を超えた俺と女子の平均身長しかないそいつの身長差は睨みひとつじゃ到底補いきれるものじゃない。つまり怖くない。今日も小生意気なつむじがはっきりと見えて、優越感。「きよさ、わたしが机に置いてたチョコ勝手に食べたでしょ」「食べた。さんきゅー」「どろぼー」。5限が始まる10分前。部室に忘れ物をとりに行った帰り、教室までの廊下をのんびりと歩く。どうしても俺の方が歩幅がでかいから、小せぇ歩幅に合わせてゆっくり歩いてやる。俺のやさしさ。「てゆかさっき自販機であっなまえさんだ!って言われたんだけど。バスケ部の緑の子と一緒にいた。誰?」「あー、高尾だろ。でこ出てるやつ。俺がこないだしゃべったんだよ、なまえのこと」「え、なんで」「俺らが名前呼びしてんの不思議がってたから。まぁあいつそういう奴だし気にすんな」「ふーん。可愛い後輩だね〜」「いや可愛くはねーだろ」。のんびり、ゆっくり。身にもならないような中身のない話をだらだらと。そして職員室の前を通り過ぎようとしたところでタイミング悪く担任に捕まった。「おー宮地、いいところに」。呼ばれた名にふたり同時に振り向く。その様がおもしろかったのか、担任が笑う。その爽やかな笑顔のままテキストを教室に運んどいてと頼んできた。「がんばれ宮地」。ふざけんなおめーも宮地だろが。


3.いつくしみの美学

 中学2年生のこと。中学に入学して初めてのクラス替え。同じクラスに、俺とは別に、もうひとり宮地がいた。それがなまえだった。出席番号順で席が前後になり、同じ名字だったこともありクラスメイトからも担任からもよくセットとして扱われた。散々双子?だとかいとこ?だとか飽きるほど聞かれたが、残念ながらいくら遡っても赤の他人である。話しかけられたら話すし、近くにいたら話しかけてみる。お互いまぁまぁ頭がよくて、理系科目では勝てたけれど、文系科目では敵わなかった。分からないところを教え合ったりして、単に気が合うこともあって仲が良かった。なんのくじ運か席替えでは隣になることが多かった。「宮地」と呼ばれ同時に振り返る。そんなことも日常茶飯事で、だからか、よく付き合ってるだ夫婦だなんだとからかわれた。こそこそ言われることも、堂々と言われることもあった。中学2年生なんてそんなもんだ。下手に自立心と大人の真似事をしたがる中学生なんて小学生よりも子どもで厄介なのである。(今なら分かる。中心になって冷やかしていたあいつはほかでもないなまえに相手にしてほしかったのだと。どうにかしてなまえの眼中に入りたかったのだと。あほらしい。でも中学2年生なんてそんなもんだ。)最初は大声で否定していたけれど、ただの世間話をするにつけてもいちいち冷やかされたら堪ったもんじゃない。だからこっちだって意地になった。なまえはあんなからかい程度で気まずくなって話せなくなるのが純粋に惜しい相手であったし、あんなからかい程度に屈したくはなかったから。だからこそ必死になって否定するのはそれこそ奴らの思うつぼだと思い、ハイハイと適当に流すことを覚えた。けれどそんな態度が癇に障ったらしく、相手にされていないとそのちっぽけな自尊心に傷をつけてしまい、からかいがますますヒートアップした。そんな時だった。「小学生かよ」。ぼそり、呟かれた声は、けれど広い教室中にもちゃんと響いた。その声の主が誰かだなんて、考えるまでもない。隣を盗み見る。いつもみたいな天真爛漫な表情の一切を削ぎ落としたなまえが、えらく無感動な顔をして立っていた。


4.つまるところきみの一部

 同じように秀徳に進んでから、文理や進路の関係で高校2、3年生で再び同じクラスになった。ひとつのクラスに、ふたりの宮地。あの一件以来なまえは名前で、俺は宮地と名字で呼ばれるようになった。男女も先輩後輩も関係なくなまえはなまえと呼ばれ、あいつは完全に“宮地”ではなく“なまえ”になった。別に男子は宮地さんて呼べばよくねとは思うが、そう思う理由がこのうえなく私情なので言葉にはできないまま現在に至る。当事者の俺たちはというと当然宮地が宮地を呼ぶというのは変だからとお互いに下の名前で呼んでいる。なまえ、と、きよ。俺を下の名前で呼ぶのは家族以外になまえだけ。きよ、という響きは嫌いじゃない。なまえが下の名前で呼ぶ男も、俺だけ。「そういえば和成くんがさぁ」「…誰」「え、和成くん。バスケ部の。高尾和成くん」「……」。…下の名前で呼ぶ男は、俺だけ。だったはずなのに。「…高尾が?」「や、ライン教えてくださいって。その時スマホ持ってなかったから、きよに聞いていーよ、って言ったの。だから後で教えてあげてね」「………」。……意味分からん、こいつらのコミュ力どうなってんだよ。てゆかいつの間に仲良くなってんだよ、そんで仲良くなんの早すぎじゃね。高尾も紹介してくださいって言ったわりに(紹介する気は微塵もなかったが)自分からぐいぐいいってんじゃねーか。ふざけてんのか今日の部活まじで覚えとけよ轢くぞあいつほんとクソが。「和成くんのおでこ可愛いよね」。楽しそうに笑っている。 あぁくそ、むかつく。高尾もむかつくけどこいつが一番むかつく。べつに高尾を名前で呼ぶ必要はねーだろ。高尾と仲良くなる必要もねー。でこも可愛くねぇよ。あほ。


5.しあわせで小腹は満たせない

 「もしおまえと結婚するとしてさぁ」

 「うん」「プロポーズする時、『宮地になってください』とは言えねーんだよな」「『わたしも生まれつき宮地です…』」「雰囲気ぶち壊しだろ」。前の席のなまえが後ろを向き、共にチョコのお菓子を頬張りながら次の授業までだらだら過ごす。宮地ズは根っからのくそ真面目だと定評がある。数学の教科書とノートを開きつつ、ここ分からんよなとか言い合う、こういう何気ない時間が割と好きで、この時間を大切にしたいと思うから予習復習にも熱心に取り組めるってもんだ。しかし今日、そんな幸せの時間をぶち壊す鬱陶しい存在が現れた。サッカー部の佐藤だ。「なまえさ、こないだ言ってたやつどうなった?」「あー、やっぱりちょっと難しいかも」「そっか。…じゃ、今度は絶対な」「ん、ごめんね」。なまえがひらひらと手を振った。残念そうに片眉を下げた佐藤がくるりと踵を返す際俺を一瞥してきたのが分かったけれど、特に目を合わせることもなく、なまえの見やすく色分けされたノートを捲りつつチョコを一つ口に入れた。「なんの話してたっけ」「…結婚の話」。同じようになまえがチョコを食べる。別に、なんの話かとかはどうでもいい。気にならない。興味もない。…と言えば嘘になるが、なまえが断ったらしいので俺がとやかく言う必要はない。佐藤の声が形作るなまえの名前には寒気しかしないけれど、あいつが言う“今度”もきっとなまえは断るだろうことが声色で分かったから。よきに計らえ。「でもわたし、宮地以外の名字になるとか考えらんない。佐藤なまえとか似合わなくない?」「なんで佐藤」「たまたま佐藤くん来たから」。チョコを食べる。ちょっときよ、食べすぎ。そう言ってチョコに伸ばしていた手首が掴まれる。俺の手首さえもしっかり掴めないくらい小さい手。ちゃっかり自分で一口食べた後、チョコはかばんの中に仕舞われてしまった。「愛着あるし結婚してもずっと宮地のままがいいなぁ」「……あっそ」「なんだよその反応〜」。今の時代婿養子も珍しくないもんね。って、ちげーだろ、俺と結婚する以上のことがあるわけねーだろ。あほめ。

「あとわたし、プロポーズならベタに『一生幸せにします』って言ってほしい」

タイミングよくチャイムが鳴った。のそのそと入ってきた教師がのそのそと教壇に立つ。「…覚えとけばな」「んふふ、忘れないでよ」。なまえは上機嫌に笑って前を向いた。…なにが結婚だ、なにがプロポーズだ、そもそも俺たちは付き合ってもないというのに。それなのに、心臓が上擦ってしまって仕方ない。嫌に回転の速い頭は先ほどの言葉をいい方向にと解釈していく。にやける口許や赤く染まっているであろう頬や耳を両手だけじゃ隠せる気もしなくて机に突っ伏せば、綺麗なドレスで着飾ったなまえが幸せそうに笑う情景が鮮明に浮かび上がって来て内心で叫び声を上げた。くそ、やべぇ、危ない、いつからこんな妄想野郎になってしまったんだ。なまえはほんとうに無責任なやつだ。こうなったらどうしてでも俺と結婚してもらわなければならない。とりあえずは期待させるようなことばかりを無責任に口にする無責任ななまえに、俺がどれだけ本気だとか、俺が妬くようなことを言っているとどうなるのかとかを分からせる必要がある。あぁそうだ、佐藤の存在もどうにかしなければ。ちらりと顔を上げる。なにも考えていないなまえは教師のくだらない笑い話に肩を震わせている。体育のあとだからと言って適当に結い上げられた髪の毛。そこから晒される白いうなじに、たまに無性に噛み付いてやりたくなるのだ。

0829 いつくしみの美学

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