短め | ナノ


確かに落ち度はわたしにあったのかもしれない。完全に油断していたの、だって人影なんて見当たらなかったし、あの湖の畔なら安全だって、少しくらいなら大丈夫だろうって、お母様がそうおっしゃったから!冷たい湖水につけていた足だけじゃなく、頭も背中も全身が冷や汗でどんどん冷たくなっていく。目の前の人は大きな瞳をさらに大きく見開いて、わたしの大切な大切なそれと手首を握りしめたまま一言も発さない。「か、返してくださいぃ…」「………」「あの、それ、大切なものなんです!」「………」「わたしのだから、その…お願いします…」ぴくりとも動かない。瞬きもしない。…もしかして言葉が通じないのかもしれない。その力強い目に顔をまじまじと見られて恥ずかしい、なんて、今はそんなことを言っている場合ではないのである。だってそれはわたしの命よりも大切なものなのだ、言葉が通じないのなら力尽くで奪い返すほかない。その人が固まったまま動かない隙を見計らい、掴まれていないほうの手を伸ばした、…のに。「きゃあ!」「…おまえ、天女か?」「え!?…な、あ、ち、違います!天女なんて、そんな!違います!」「嘘をつくな。だって私ちゃんと見てたぞ、おまえ、空から降りて来ただろう」「みてた!?」「あぁ、この目でな」ななな、なんということでしょう!ばれてる!わたしが天界の者だって、ばれてる!すっかり人気がないのをいいことにまわりにあまり目を配っていなかった、たったそれだけのことでこんなことになるなんて!人間には気をつけなさいって、あれだけお母様が口を酸っぱくして言っていたのに!ひとりで大丈夫だからとお付きの者を置いてきたことが運の尽きだったのかもしれない。どうしよう、泣きそうです。「名前はなんというんだ?」「! お、教えません!」「なんで?」「人間には教えてはならないとお母様に言われました!」「ほら、やっぱり天女じゃないか」「なぁっ、ち、違います、にんげんです!わたしもっ!」「ほう」わたしはどうしても彼の手に強く握られたそれ、羽衣を、絶対に取り返さなければ天界に帰れないのです。見上げるくらいに高い背丈、頑丈な身体、なによりわたしを離さない強い力。有無を言わさないような威圧感に怯んでしまうけれど、羽衣を取りかえすことさえできればこちらのものだからと手を伸ばす、と、彼の手が上に上がる。追いかけるように手を上げると更に彼が手を上げる。…届かない。羽衣が上へ上へ遠のいて太陽の光にきらきら透ける。あぁもう、これじゃあ埒が明かない!「名前を教えねばこの羽衣は返さないぞ」「えっ」「大切なものなんだろう?」「なまえです!なまえと申します」「…なまえか、いい名だ」「教えました!羽衣、返してください!」彼の目がぎらりと光った。「返すわけがないだろう」「えっ?」「教えたら返すとは言ってないからな」「……ひ、ひどい!卑怯ですよ!」どうしよう、どうしよう、どうしよう!実力行使をしようにもわたしの貧弱な力では敵いっこないのは目に見えているし、だからといって説得を試みて話が通じるような相手とも思えない。絶望。絶望だ。一度この湖から離れて彼と距離を取った方がいいだろうか。そして彼が油断した隙を狙って取り返す、…だめだ、失敗するのが目に見えている。それならばあの羽衣はもう諦めて、帰りが遅いのを心配した迎えを待つのが賢明だろうか。…やだ、あの人怖いから、今すぐにでも帰りたい。いつになるかも分からない迎えなんて待ってられない。どうしよう!

「お、お願いします!なんでもしますからぁ!」

再び彼の目がぎらりと光った。

「なんでも?」
「なんでも!」
「…そうか、ならばなまえ、私と結婚しよう」
「え?」


かれは、いま、なんて?いつの間にか腰にまわっていたがっしりとした腕に抱き寄せられる。顔が近い。意外と整った顔をされてる。太陽のにおいがする。そんなことが頭を埋め尽くしてしまい急に恥ずかしくなって俯くと、彼は覗き込むようにしてまた顔を近付けてくる。言葉の意味を咀嚼しようにも突然のことすぎて出来の悪い頭はどうにも回転してくれない。結婚、って言った?結婚って、…結婚って。どうしてそうなるのって、どんな展開なのって、そもそもあなたのお名前さえ知らないのにって、言いたいことも聞きたいこともたくさんあるのに、射抜くように真っ直ぐな視線が今はそんなことはどうでもいいと言っているようで、言葉は音になってくれない。あぁどうしよう、だって今この人が求めているのは、肯定の言葉だけなんだもの。「嫌か?」「  い、いえ、えっと…」「なら決まりだな。結婚しよう、なまえ」

どうしよう、どうしてだか、拒めない。

「は、はい…」

か細い返事に嬉しそうに破顔させた彼がわたしをぎゅうっと抱きしめる。ばか、わたしのばか。どうして頷いてしまうの、ばか、ばか!でもでもだって、純粋なくらい綺麗な瞳が悪い人のものだとは思えなくて、つい、この人なら大丈夫って、つい。結婚、けっこん。わたしはこの人と結婚するの?結婚するということは、つまり、この人と一生を過ごしていくということ。炊事も洗濯もなにもできないと言うと私の帰る家にいてくれるだけで十分だと返ってくる。その言葉が妙に嬉しくてなにも言えないでいるわたしの頭を彼の大きな手のひらが優しく撫でた。結婚といっても実感はないけれど、頷いてしまった今も不思議と後悔はないから、まるで太陽のように眩しくにかっと笑った顔も輝いて見えて不安もない。わたしは、彼と、結婚する。少しだけ楽しみだと思えているわたしは単純なんだろうか。 …でもなにか、大事なことを忘れているような、…

「よし!ならばこの羽衣は必要ないな!私が代わりに預かっておこう!」

あ、羽衣!


0226 ぼくのかわいいきみのこと / 企画Ash.様に提出


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