短め | ナノ

どのくらいの距離を歩いただろうか、町が近くなったあたりで伝七が歩を緩めた。同時に掴まれたままだった手首も離されて、解放感と一緒にわずかに寂しいなんて気持ちが顔をのぞかせる。昔ははぐれないようにといつも手を繋いでいたものだなぁと感傷に浸ると、一歩前を歩く周りの男の子からしたら小柄な、しかし記憶の中の奴よりもずっと大きな背中が愛しくも懐かしくも悲しくも感じて、きゅう、と胸が詰まる思いでいっぱいになった。あの場所で伝七はなにを学んできたのだろう、誰と笑い合ったのだろう、どんな風に過ごしてきたのだろう。昔の伝七のことしか知らないわたしは、いつも隣にいたにもかかわらず、伝七を語るうえで圧倒的に情報不足だった。昔は泣き虫だったくせにとひとり張り合ってみるけれど、きっとわたしの何倍も濃い生活を送って来たのであろう五年という歳月に自分は少しも関与出来ていないと気付くと、自身にも責任はあるというのにそれが今更ながらに寂しくなる。今の彼は、わたしの知り得ないことだらけで構成されている。

「………」
「………」
「 あっ、で、伝七!返信は!?わたしに預けてくれればわたしが届けるから、伝七がわざわざ家まで帰らなくても、」
「文の返信を書くより僕が直接帰ったほうが早いだろ。…ていうかなんでなまえが届けに来たんだよ。こういうのは馬借に頼むもんじゃないのか」
「近くの馬借、最近信用出来ないっておばさんが…」
「近くの…、じゃあちょっと遠くても団蔵のとこにでも頼めばいいのに」
「だ、だんぞう?」
「…別に。こっちの話」
「………」

冷たい風がふたりの間を通り過ぎる。伝七の口から出てきた知らない人の名前にどうしようもなく遣る瀬無くなった。まるで昔と今は違うのだと、昔の、わたしが知っている伝七と今の伝七が別人なのだ、そう、肯定されたようで。知らない虫を見たとか、朝顔の花が咲いていたとか、可愛い動物がいたとか、そんなくだらないことでさえもふたりで共有してきたというのに、ずっと同じ景色を見てきたというのに、たったひとりの名前すらわたしは知らないのだ。あの学園にはいったとしても、休暇中に伝七と話していたら、今まで通り伝七と接していたら、それが交友関係にある人物だと理解し納得出来たのだろうか。きっと、沈黙がこんなにも気まずくならなかったかもしれない。この五年間こんなこと一度だって思わず強気でいたのに、いざこうして伝七に会うと思っていたよりも広く深くなっていた溝が悲しくて堪らない。久しぶり、元気だった?、背が伸びたね、…そうだ、わたしたちはまだ、ありふれた言葉さえ交わせていないじゃないか。いつの間にか止まっていたわたしに気付いた伝七が怒った顔で振り向いた。

「―――伝七、怒ってる?」
「…当たり前。なんで届けに来たのがなまえなんだよ」
「そ、れは!わたしが、頼まれたからで…」

空気が重い、頭が回らない。わたしは伝七の言葉にうまく返答出来ているだろうか。鋭い瞳で睨みつけられる、言われなくても分かる、伝七は怒っている。応接室で待っていなかったから?土産物として文と一緒に渡した饅頭が気に入らなかったから?群青の人たちと話していたから?彼らはわたしが幼馴染みであると分かったようだ、わたしなんかが幼馴染みだとばれて恥ずかしかったから?…考えれば考えるほどすべてのことに原因があるように思えてきて、やはりわたしが来るべきではなかったと、おばさんのお願いをなんとしてでも断るべきだったと今更ながらに後悔する。なにが原因だろうとその根本は必ずわたしなのだ、途端に申しわけなさと不甲斐なさで胸が締め付けられる。

「来たら来たで絡まれてるし」
「絡まれてないよ、話してただけだもの」
「それを絡まれてるって言うんだろ。しかもい組のみんなならまだしもよりによっては組の奴らに!」

ぷつん。

なにかが切れる音がした。ふと、わたしの中の大人になりきれていないわたしが顔を出す。そして囁くのだ、『また、見下されてるよ』。頭に血が上るような感覚。…わたしだって来たくてわざわざこんなところまで来たわけじゃないのだ。こんな言い方はあまりよくないけれど、労力をかけて文を届けてやったというのに、どうしてこんなに責められないといけないのだろう。どうしてわたしが一方的に文句を言われないといけないのだろう。……いいや、言いたいことがあっても我慢をしなくては。もう大人になったのだ、子どもではないのだから理性的に話し合わなくては。ここで言い返したらあの時の二の舞になる、するとまた伝七との間に距離が出来てしまう。そうしたらきっと、それはもう二度と埋まることのない溝になる。彼は知らない人になってしまった、ならば他人と話していると思えばいい。他人だと、思えば 。

「おい、聞いてるのか!?」

伝七がわたしの左手を握る。わたしと向かい合って話す時、奴が無意識に必ずやってのける行動だった。――その瞬間、堪え切れなくなった両目から涙があふれ出してきて、驚いた表情で慌て始める伝七の霞む姿を捉えながらも、やっぱり涙は止まってくれなかった。思い出すのは日が暮れるまで無邪気に遊び呆けた子ども時代のことばかりで、懐かしさがじんわりと心を侵していく。喉はあつくて涙は止まらない、ついでに鼻もつんとする。そういえば今日初めてちゃんと向き合ったな、なんて様々な感情でぐちゃぐちゃに乱れている頭の片隅でぼんやり思う。あぁなんだ、釣り目がちな大きな目も、赤っぽい髪の毛も、慌てた時の表情さえも、なにも変わっていないじゃないか。涙でうまく補正されているだけだろうか、一時の気の迷いと似たようなものだろうか。いいや、この手のぬくもりは、忘れるはずがない、わたしの大切な幼馴染みである伝七のものだ。わたしが知っているあの頃のままの伝七だ。なにも変わっていない、それが嬉しいと思うのに、わたしばかり翻弄されているようで悔しかったのだ、もうなかばやけくそになってわたしは叫んだ。

「 っ、悪かったわね、わたしなんかが幼馴染みで!これでも伝七が恥かかないように身なり整えてきたのに!伝七のために愛想だってがんばったのに!元の素材の悪さはもうどうにもならないの、ほっといてよぉ!!」
「〜〜っ!だから!そういうことを考えなしで言うな!!」

ぐああああ!頭を抱えて一気に顔を赤くするその様子に、わたしの涙が驚きで簡単にぴたりと止まった。自身の左手で口元を隠しながらじゃりじゃりと足場を気にするように踏みしめている。だから、おまえはっ、…昔からそうやっていつもいつも…! うまく聞き取れない言葉をごにょごにょ言いよどみながら伝七は俯く。そういえば今日はまだ目があっていないと気付き頭ひとつ分も上にある彼を見上げると、どうやら宛てもなく彷徨わせていたらしい両目と目が合い、大きな瞳にわたしの可愛気の欠片もない泣き顔が映された。喉に声が張り付いてしまったかのように、口からは あ、だとか う、だなんて意味をなさない言葉だけが漏れる。…伝七にうまく声がかけられないのは、髪の毛に負けないくらい顔を赤く染め口を噛みしめ薄っすらと瞳に涙の膜を張る、この顔の赤さが怒りからくるものではないと分かってしまったからだ。頬を火照らせて照れている。握られた左手がこまかく震えている、汗ばんでいく。それが伝染したようにわたしの両頬も更に熱を孕み始めて、こんな道のど真ん中で若い男女が一体なにをしているんだと羞恥心ともこっぱずかしさとも言えるむず痒い気持ちがあたりを支配した。

「  、ただでさえ可愛いのに五年ぶりに会ってさらに可愛くしてきて、それが僕のためとか…。そんなこと言われる僕の気持ちもちょっとは考えろよ!」

―――後から聞いた話、あの五年間、伝七はわたしを避けていたとはいっても、それはちゃんとした意味のあるものだったようだ。お互い顔を真っ赤にしながら途切れ途切れになってしまう言葉の切れ端たちを繋ぎ合わせると、つまり、わたしに会うとどうしても気持ちが抑えられなくなり、学業にも支障を来たしてしまう恐れがあったから、だとか。そして学園を訪れた時に怒っていたのは道すがらひとりで来るなんて危ないという純粋な心配と、わたしがあの群青の人たちに惚れてしまうかもしれないという不安があったから。なにそれ、どういう意味?どうしてわたしに会ったら支障を来たすの?気持ちが抑えられなくなるってどういうこと?惚れてしまったらって?その言葉の裏には、どんな気持ちが隠されてるの?頭が沸騰してしまうくらいにぐつぐつして、隣を歩くのさえ恥ずかしくなって、結局わたしは伝七の一歩後ろを歩いて帰った。目の前を歩く伝七の耳の赤さは、ついには村まで消えることはなかった。ついでに言うなら喧嘩別れになったことについては頭からすっかり消え去っているらしく、そんなことあったか?なんて首を傾げる始末。本当にすっぱり忘れ去っている無垢な目で言われ、どうしてわたしはこんなやつのことについてずうっと悩み続けていたのだろうと悔しさでもうなにも言えなかった。

いつまで子どもでいるつもりだ!

やけに長く長く感じた村までの道のりを終え、とりあえずふたりで黒門家へ挨拶に向かった。するとそこにはなぜかわたしの両親を含む四人がのんびりとお茶をすすりながら、わたしを送り出した時と同じ笑顔でおかえりなさいと言う。なんだか嫌な予感が胸のあたりを掠めて、ぎこちなくなったであろう笑顔を返せば両親たちは満足気に表情を緩め、お腹がすいたでしょうとみんなで囲炉裏を囲い少し早目の夕食となった。…その文の内容が伝七との縁談についてであったなんて露知らずだったわたしは、そこでようやく両親たちのいやににやついていた笑顔の理由を知ることになる。確かにわたしは、返信ではなく、返事をもらって来いと、言われた、気がする。

「〜〜〜うそでしょ…」

いやなわけじゃない、面識もないような人の元に嫁ぐ気はさらさらなかったからむしろ喜ばしいことだ。いつかは結婚しなければと思っていた、でもそんな明確な想像は出来ていなかったし、なによりその相手が伝七だなんて。伝七に断られたらどうしようと不安になりながら隣に座る伝七を見れば。「…し、あわせに、する、から」。やっぱり顔を真っ赤にしながら、けれどそんなこと言ってくれる伝七を見て、本当になにも変わっていないなぁ、とはいえ大人になったんだなぁと、わたしの頬も同じように染まっていくのだ。

0309 思わぬとこから春がきた!


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