短め | ナノ


今となっては昔のことだけど、仁王のことがどうしようもなく好きな時期があった。中学2年生、初めて同じになったクラスで、銀髪と口元のほくろと独特なしゃべり方への衝撃と共にわたしは仁王に初恋を捧げた。それからはもうアピールの大渋滞、毎日がどきどきの連続だった。とにかくがんばって話しかけ、頭の上から足の先まで気を配り、常に笑顔で表情豊かに、暇さえあれば自分磨きを繰り返し、少しでも仁王の視界に入るように、少しでも仁王に可愛いと思ってもらえるように、それはもう必死だった。わたしはきっと(この短い人生の中で)あの時が一番女の子だったんじゃないかと思う。自分で言うのもあれだけれど、わたしは人より容姿がいいので、露骨なアピールもわたしなら仕方がないと他の女の子たちは諦めているようだった。

持ち前のコミュ力で距離を縮めて、仁王の部活がオフの日はふたりでどこかへ遊びに行ったりして、仁王自身もずいぶん思わせ振りな言動を寄越すもんだから当時のわたしはとても舞い上がっていた。それはそれは夢中だった、仁王以外の男の子が視界に入らないくらいには。

夏も中盤に差し掛かったころ地元で開催される大きめの夏祭りに誘えば、最初は部活の奴等と一緒に回るからと断られたが、当日になるとわたしのためにわざわざその輪を抜けてまで会いに来てくれた。わずかな期待を残し暑い中着てきた浴衣、お姉ちゃんにがんばってもらった髪形、鼻緒の痛みを隠した下駄、薄く施してみた初めてのお化粧。それらを似合ってると褒めてくれた仁王の笑みがあまりにも優しくて。嬉しくて嬉しくて、激しく高鳴る心臓のまにまになにも考えず、本当に衝動的に仁王の肉刺だらけの左手を握り思わず告白し、

「気持ちは嬉しんじゃけど、名字とはこれからも友だちとして付き合うていきたい」

わたしはフラれた。

当時中学2年生、夜空に花火が煌めく夏、わたしの華々しい初恋恋愛劇は4ヶ月という短さで幕を閉じた。周りの音が一瞬にして消える中、仁王の背後で咲き誇る花火のなんと綺麗なことか。握りしめた先、やけに汗ばんだ仁王の手のあたたかさだけは3年経った今でも忘れることが出来ない。あの時 名字ならいけるって!と無駄に励ましてきた丸井をどついてやりたい。告白したことに後悔はないけれど、丸井、あいつだけは許さない。

…けれど、精市と付き合い始めた今となっちゃ、どうして仁王がわたしをフったのかがよく分かる。一時期あんなにも膨れ上がっていたそれはもう恋愛感情というには相応しくないくらいにしぼんでしまって、ずいぶんと前に憧れに名前を変えてしまったけれど、それでも、今も仁王を特別視してしまうのは許してほしい。

「あ、おはよ仁王、朝練おつかれさま。飴いる?」
「おはよーさん。ええん?貰おーかのぅ」
「名字てめ、なんで俺には挨拶しねーんだよぃ!俺を労え!そんで糖分寄越せ!」
「ぎゃ!その手を離せ丸いブタ!」
「丸井ブン太だっつの!」

廊下の窓から一生懸命に手を伸ばし飴の袋を奪わんとする丸井との攻防戦に、クラスのみんなは見飽きたとでも言わんばかりの視線を寄越してくる。わたしだってやりたくてやってるわけじゃないんだよ、だからそんな白々しい視線は止めてほしい。仁王は仁王で眠たそうにあくびをかみ殺すだけで丸井を止めようとすらしない。結局、わあわあと散々喚き散らした丸井はわたしの飴を全部掻っ攫って、仁王と共に嵐のように去って行った。残った汗臭さと制汗剤と丸井のお菓子の甘いにおいが混じった独特の空気だけが奴らふたりがさっきまでここにいたことを物語っている。…丸井の奴、朝練の後だっていうのに元気すぎやしないか。あぁもう、せっかく仁王と話せるいい機会だったっていうのに、肝心の仁王とはまるで話せていないじゃないか。丸井の馬鹿。わたしの飴をパクったこと精市にチクってやる。後で悔い悔やめばいい。……それにしても。

「ああぁ、仁王、仁王、…仁王と話したかった…」
「なぁになまえ、仁王くん病再発?」
「そんなんじゃないけど〜、…」
「あの時のなまえはほんとすごかったよね、生活の中心が仁王!みたいなね」
「もう、昔のこと掘り返さないでったら」

当時を思い出してただ純粋におかしそうに笑う中学からの友人は、本人に悪気が一切ないのだから余計に厄介だ。別段あの時のことを黒歴史とするわけではないのだけれど(そもそもわたしが仁王を好きだったのなんて学年全員の周知だっただろうし)、今になってもその話題を好ましくないとする人物がわたしの一番近くにいるのだから、もう少しばかり用心してくれてもいいんじゃないかと思うのだ。この友人に実害が及ばないからとはいっても、ちょっとくらいわたしのために思慮深くなってほしい。笑い話なだけまだマシなのだけど。

「おはようなまえ、なんの話?」
「おはよう精市、はやく精市に会いたいな〜って惚気てたの。今日もかっこいい、大好き」
「ふふ、なまえも可愛い、世界で一番、誰よりも可愛い。俺も大好きだよ」

なんとなく時間だなと少しだけ身構えていれば、案の定わたしを後ろから包み込むように抱きしめてくるあたたかさに相変わらずくっつくのが好きだなぁとそれに同調するように胸があたたかくなる。振り向きながらもうお決まりにもなっている常套句にありったけの愛情を込めて笑顔と一緒にぬくもりの元――精市に送ってやると、精市はほんの少し頬を赤らめて口元を緩めた。まだ秋とは言え朝は寒いのだろう、指先まで冷え切っている大きな手はわたしの髪の毛やらほっぺたやらを好き勝手に触ってくる。精市の気が済むまで為されるがままに身を委ねていると、ふと、指先とは全然違う温度を持つ精市の瞳が次第に熱っぽさを孕み始めたのが分かった。自分の欲に変に忠実な部分を持つ彼はそれが例え公衆の面前でも自分の欲を優先する節がある。本当にそれだけは勘弁してほしいので素直にもうおしまいだよと精市の手を止めると、やはり良からぬことを考えていたのだろう不服そうな顔を露わにしながらも意外とすんなりその動きを止めてくれた。

「仁王に名字さんはもったいないよ」
「…うん、わたしもそう思う」
「じゃあ、俺のことを好きになればいい」


精市がわたしの生活の大部分を占めるようになってもう2年が経とうとしている少しだけ肌寒さを感じる秋のこと。紅葉はもう咲いている時期だろうか、時間があれば精市と紅葉狩りに行ってみたい。

朝礼開始5分前を知らせる予鈴が教室に鳴り響いた。途端に不満げな顔になる精市にお昼を久々に一緒に食べないかと誘ってみれば、一面に広がっていた不満はどこへやら、一気に顔を華やがせ、絶対に約束だと念を押してくる。見間違いでなければ花と蝶々が辺りを舞っているような気さえする。いつも昼食をともにしている目の前の友人はわたしの提案に文句を言いたげな視線を飛ばしてきたが、今日だけはスルーさせてもらおう。最後にお揃いでつけているブレスレットを一撫でして、本当に蕩けてしまいそうな笑顔で今日も一日がんばろうねと精市は上機嫌で自分の教室に戻って行った。友人はまるで現実逃避をするかのようにスマホを操作し、きっと廊下で一部始終を見ていたのであろう柳は申し訳なさそうに目尻を下げた。

「…相変わらずっていうかさ、ほんっと、重いよねー…」
「もう慣れたからそんなに思わないよ」

お昼、一緒に食べれなくてごめんねと言えば幸村くんなら仕方ないと返してくれるあたり、わたしはどうやらずいぶん理解のある友人を持ったらしい。さっきまで忙しなく指を動かしていたスマホを放り投げ、うんざりと机につっぷしてみせる彼女のほうがよっぽど精市の愛の重さに参っているようで、その度にわたしはずいぶんとその愛に慣らされたものだと自分で自分に感心したりする。当事者よりも傍観者のほうが気が滅入ってしまうだなんてなんだとてもおかしな話である。仁王の話をするとどこからともなく高確率で精市が現れるのだけど、そのことに未だ気付いていない友人は、嬉々として仁王との話題を振って来るくせ、その後の精神的リスクを自ら作り出していることを分かっていないのだ。哀れだと言えばいいのか、こうも墓穴を掘り続ける友人に同情するよりも先に相手が精市だから仕方がないと思うわたしも神経が図太くなったものだなぁ。

「自分の体裁整えるための建前だけで付き合うような生半可な気持ちだと思われたら困るよ」

いつだったか、見たこともないくらいに狂気的な感情を瞳に宿した精市に言われた言葉が頭の中で木霊する。まだ華の高校生ながらに他の人よりも濃度の高い人生を歩んで来ている精市は、良くも悪くもわたしに依存してしまっているのだ。それが良いことなのか悪いことなのかわたしには到底判断が出来ないけれど、精市をひとりにしてしまっては、精市から離れてはだめだと脳がうるさく繰り返すから、わたしは今日も精市と一番近い距離に手を繋いで立っている。そう、仁王とわたしの儚い恋心は犠牲となったのだ。わたしだって精市が好きだ。好きでもない人からの愛に応える器用さと忍耐力は持っていないし、そんな暇があるならわたしはわたしの恋愛を叶えたいと思う。ちゃっかり精市に囲われてしまった今となっちゃ、わたしがいないとなにも出来ない精市をひどく愛おしくも思っているのだから始末が悪い。その与えられる愛が異常なのは分かってる。まだ自分の状況を客観視出来ているから、引き戻れないこともない。けれどわたしがそれをしないのは、……溢れんばかりに降り注がれる無償の愛にわたしはすっかり飽和状態なのだから、すべてがすべて、精市のせいにするわけじゃあないけれど。

「俺がいないと生きてけないって、言ってよ」

だからそんなに不安にならないで、ね、精市。



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