短め | ナノ
 

一目惚れだった。

「あの、すみません。これ、監督さんに渡しておいてくれませんか?」

何枚か書類のようなものが入った透明なクリアファイルを差し出して、彼女は少しだけ不安げに俺を見た。びびっと身体中に電撃が走るとはまさにこのことだと、一生のうちに何度味わえるかも分からない貴重な経験を俺はこの時に体験した。小首をかしげるだなんてあざとい攻撃に(けれど彼女は決して狙ってやっているわけではない)これほどまで心臓を鷲掴みにされたことなんて今まであっただろうか。一瞬にして周囲に花が咲き、春のように心がぽかぽかと暖かくなっていくのを感じた。どくんどくんと勢いを増して活動を活発化していく心臓と目の前の彼女に釘付けになっていたせいで一瞬反応が遅れた俺を訝しむこともせず、彼女はありがとうございますとふわっと笑った。その瞬間、またもや痛いほどの電撃が身体を貫いて、アッ、イエイエ!と上ずった声と高速で両手を振って顔を赤くする俺に対し 今日はよろしくお願いします、お互い頑張りましょうね、とはにかみぺこりと一礼して彼女は自分のチームの方へと戻って行った。

綺麗な黒髪を大きめの白いシュシュでポニーテールにして、彼女は、ベンチの端っこのほうに座っていた。全国覇者の名をほしいままにしている超強豪校を前に、緊張と不安と期待と野郎共の熱気と、それらに勝るほどの興奮が一緒くたになったあのなんとも言えない雰囲気の中、ふんわりと笑う彼女は、あの体育館の中では異質の存在で、けれどその笑顔は確かに俺の心を軽くした。頭の色から主張の激しい個性的な奴らに混じって唯一のその艶やかな黒髪が、隣の桃色にも負けないくらいにとても印象的だったのを覚えている。穏やかな彼女の周りにいる選手たちもみな一様にリラックスした表情を浮かべ、あぁこんなところも王者と謳われる所以なんだなぁなんて妙に納得した。試合前独特の恐怖を笑顔ひとつで変えてしまった彼女の笑顔は、あの日以来、たとえ目をつぶっていても消えてくれることはなかった。

・ ・ ・

あの女の子は帰り際、たまたま近くを通り過ぎた俺たちの学校の部員にもぺこりと丁寧に頭を下げてくれた。揺れるポニーテールにはなぜか白いシュシュがついていなくて、でもポニーテールだけでもやっぱり可愛い。一瞬だけ目が合ったような気がしたけれど、慌てて逸らしたから真偽は分からない。試合の後、会場の空気に酔ってしまい、なんとか頭を冷やそうと外の水飲み場まで向かった、そこで見つけたぽつんと置き去りにされていたそれは、地面に落ちていたにも関わらず目立った汚れもなく真っ白な色を保っていた。

「これって、」

今、自分の手のひらの上にある白色のシュシュが、たったさっきすれ違ったあの子のものだと気付いたのは、落ちていたそれを拾ってすぐのことだった。どうしてこんなところに落ちているのかは分からないけれど、きっとマネージャー業で水道を使った時、ここで髪の毛を結び直したりしたんだと思う。これは一体、どうするべきなのだろう。大会委員会に落とし物として届けたほうがいいのだろうか、それとも、持ち主は分かっているのだし直接渡したほうがいいのか?…俺なんかが? 「お互い頑張りましょうね」 悶々と押し問答にも似た葛藤を繰り返していると、ふと、そう言って笑ってくれたあの子の笑顔が頭の中を過った。足は、脳の判断を待たずに会場へと走り出していた。

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いつか、いつの日か、再会できた時には必ず渡そう、そう誓いを立て、間に合わなかった彼女の学校のバスを見送ったあの日からずいぶんと時間が経った。大きな大会でも小さな大会でも、あの子の学校が出場するならば会場中を必死になって探したけれど、あのカラフルな髪の毛の連中は嫌でも目立つくせ、その中にあの綺麗な黒髪を見付けることは結局叶わなかった。その度に感じる果てしない罪悪感とやるせなさが俺の中を支配していくけれど、心に焼き付いてしまった彼女の笑顔だけは決して色褪せることはなかった。大会委員会にも届け出ずいつ何時に再会してもすぐに渡せるようかばんの中に大事に保管されている白色のシュシュを見る度、もはや使命感にも似たなにかが、絶対に彼女を探し出さなくてはと強く思わせるのだ。彼女に会いたい。落とし物を届けてあげたい。会いたい。ただ、それだけだった。

季節はあっという間に廻っていく。俺たちの夏が終わって秋が来て、冬を越えて春が来る。桜が舞う入学式にはならなかったが、青く広がる空に春のうららかな陽気が重なって気分はとてもよかった。期待に目を輝かせる人とこれからのことを思い不安に駆られる人、自分はどちらかと言えば前者の人種だけれど、昨夜興奮で寝られず治まっていなかった睡魔と式典中に闘っていたため、ちゃんと目が輝いていたかは定かではない。出席番号的に一番前に座っていたもんだから、入学早々先生たちに目をつけられたくさい。やべ。

入学式を無事に終え、自分が配属された教室までの道のりをぼんやりと歩く。俺の隣を多くの生徒が流れるように歩いては通り過ぎて行く。不安気にひとりで教室へ向かう者もいれば、中学からの付き合いか入学式で仲良くなったのか早速仲良さ気に話している者もいる。その誰もがまだ到底着こなせる気配もない真新しいブレザーに身を包んでいて、自分もそのうちのひとりなのだと考えるとなんだか左胸の奥がくすぐったい。なかなかに年季のはいった校舎は外から見ても中から見てもやっぱりぼろくそで、歴史を重んじるなんて言葉では少し擁護出来そうにもないなと思ったりした。まぁ三年間もの時間をこの校舎で過ごすのだから、卒業する時には嫌でも愛着がわいているのだろうけれど。途中で同じ中学だった奴と遭遇して、たかだか1ヶ月ぶりの再会を大げさに喜んでみたりもした。残念なことに同じクラスではなかったが、見知った奴がひとりいるだけでこんなにも心強いとは。

「あ、そういえば。俺、入学式でめっちゃ可愛い子見っけたんだよね!」
「へぇ」

俺の生半可な返事にそいつは目を大きく見開いてみせた。その反応は思いもよらなかったとでも言いたげだ。だいたい昔の一目惚れを今の今までずうっと引きずっているこの俺があの子以外の女の子に興味を抱く可能性は微塵もないわけであって、中学の卒業式の告白ラッシュにだってまるでときめかなかったわけで、つまり誰が可愛いとかそういうことを報告されても困るってもんであって。卒業式の後、妹ちゃんに 選り好み出来る立場?なんて呆れられたのはまだ記憶に新しい。俺が思った以上につれない返事をしたためだろう、そいつはもっとちゃんと反応しろよな!と肩をばんばん叩いてくる。その行動と言動がどこかいつかの妹ちゃんと重なったが、身内贔屓なんてなしに妹ちゃんのほうが可愛い。断然可愛い。…あぁそう言えばあの時はシンデレラがどうとかいう話をしたんだったか。

「 、あ、高尾、あの子!」

……そういえば、俺が持っているあの子のシュシュがガラスの靴だとしたら、もしかして俺って王子様だったりしちゃう感じじゃないか、うん、あの子はシンデレラみたい可愛かったわけだし。これ、設定的にはぴったりなんじゃないかと思う。シンデレラは舞踏会で最後の最後に落とし物をしてしまって、王子様は追いかけたけれどそれを届けられなくて、王子様はシンデレラを忘れられなくて、再会を願うから王子様はシンデレラを必死こいて探して。俺が一方的に彼女のことを知っていて勝手に片思いしているだけっていう点は置いといてさ。じゃあ俺も最終的にはあの子と再会出来て、あわよくば付き合ったりも出来ちゃうかも?なんてね。ていうか俺もそろそろ報われてもいいんじゃね、そろそろ幸せになってもいいんじゃね。…まぁそんなことをぐちぐち考えていても意味はないので、とりあえず奴の投げかけに反応してやろうと思う。そう思って、奴が指差した女の子を見れば  。

「   …嘘だろ、」

窓の外から降り注ぐ春の暖かな陽ざしを受け、きらきらと眩しく笑うその女の子に、確かに見覚えがあった。この距離でわずかに聞こえてくる声が頭の中でリフレインする。聞き覚えがある、忘れるはずがない。たった一瞬で体を貫いたあの衝撃を、忘れるはずがないんだ。あの黒くて艶やかな黒髪を、見間違えるなんてあり得ない。彼女が醸し出す穏やかな空気を、仲良さ気に女子と話すあの笑顔を、見誤るわけが 。心臓がうるさく活動を始める。どくんどくん、心臓の動きに忠実に、顔に熱が集中していく。触らなくても分かる、俺は今、耳まで真っ赤だろう。嘘だろう、本当に?頭で考えていたことが、こうも簡単に現実になってしまうなんて。……これは幻覚に違いない、あまりにも報われなさすぎる俺が作り出してしまった妄想に違いない。俺はまだ寝ぼけているのか?夢の中にいるのか?…いいや、これが夢であるはずがない、夢にまで見たあの子だけれど、そうだ、だって俺が、間違えるなんて。まだ馴染まない固い制服に身を包んだあの子は、確かに。

「 あの時の、シンデレラだ」

メルヘンなものは嫌いじゃない。けれど大して好きだというわけでもない。だいたい今日から高校生になる男が、メルヘンがどうのこうのと考えていたら実際引くじゃないか。 あぁでも、今だけは、ありふれた童話の魔法を、信じてしまってもいいかもしれない、なんて  。足はすでにあの子に向かって走り出していた。後ろで俺の名前を呼ぶ声が耳に届くわけもなく。そしていつかの、妹ちゃんの言葉が頭を過る。

どうしてシンデレラのガラスの靴だけ消えなかったんだと思う?

「それはね、」

ガラスの靴だけ元に戻らない、というのが最大の魔法だったから、 なんだよ


一夜物語を信じなかった王子


企画:愛人様に提出



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