「……理事長、」
「どうしました?」
笑ったように思えたのは本当に一瞬だ。まるでそれが待ち遠しかったように、そんな風に笑った気がした。
でもそんなはずは無い。理事長は燐と雪男の後見人だと聞いている。なら彼は、双子を守る立場にあるはずだ。「何か」がないようにしているはずだ。
私をストッパーと言って燐のそばに置いておくくらいである。問題を起こすとは考え難い。
少なくとも、今まではそう思っていた。
「桐野さん?」
「……あの、えっと、」
何かが詰まったみたいに、言うことが思いつかない。
きっと怖いのだ。頼れるはずの人が、もしかしたら別の立ち位置にいるかもしれないということが。
私は何も言うことができなくなって、とっさに電源ボタンを押してしまった。一応初めに報告するべきことは言ったのだ。これで問題はない。ないはず、である。



忠告



いつの間にか止まっていた歩みにはっとする。まだ雪男が応戦しているのだ。銃声は先ほどの音ほどではないが、確かに聞こえている。よく耳を澄ませば、それは上の方から聞こえてくるようだった。
「……屋上?」
祓魔師の戦い方を詳しく知っているわけではないが、攻撃するにも応戦するにも広い方がいい。なら屋上というのはきっと当たっている。携帯電話をポケットへとしまって再び走り出す。
しかしさっきの理事長のあの反応。一体何なのだろう。出来るならこれが、私の思い違いならいい。
「階段……」
ようやく現れた屋上への階段に、私は気合を入れなおさなければならなかった。
背中に痛みはほとんどないが、結構走ったりしているから疲れた。しかも良く考えれば、(燐曰く)自分は丸一日寝込んでいたはずだ。きついに決まっている。
だが少し前に大きな、重い音が響いてから静かになってしまった。雪男がやられているなんて想像も付かないが、早めに行った方が……。
そこまで考えて、私の足は止まった。上から人の降りてくる音がしたからだ。こつんこつんと硬質な、……ブーツだろうか。
「ゆ、雪男?」
恐る恐るまだ見えぬ上の人に問いかけると、一瞬音が止まる。けれどすぐに再び歩き出した。
これは雪男ではない。でも、私に悪意があるようにも思えない。もし悪意があったとすれば、この人はこちらに位置を悟られないためにも歩く音を消すはずだ。こちらも変わらず階段を上がる。どちらにせよ、屋上は確認しておきたい。
そして現れたのは、祓魔師のコートを着た、血だらけで眼帯をした男だった。
「え、ちょ、血!」
その両腕には丸い不気味な模様もあったが、正直そちらを見ている余裕はなかった。だって片腕が血だらけだ。これは重症の域に入るのではないだろうか。
あわあわしながら近づくと、その男は眼を細めた。まるで、観察でもするかのように。
「……お前が、桐野か」
「!?」
名字を呼ばれる。そしてその言い方は、私の家のことも知っているようなものだった。近づこうとした足を止めて、その男を凝視する。
今の言葉の中に、侮蔑や畏怖の感情は込められていないと思う。でも桐野を知っているとなったら、近づくのを拒否される可能性もある。
「なにか、桐野に用、ですか」
「随分と……いや、これはそのうち分かるだろう」
男は血だらけにも関わらず、私へ向かってきた。こちらは思わず後ずさりかけるが、そこはぐっと我慢する。まさに来るなら来い状態。
けれど男は、私の横を通り過ぎようとするだけらしい。途中から視線が外れた。そして視線を外したまま、男は小さい声で囁いていく。
「桐野葵。お前は、悪魔の犬にはなるな」
それは恐らく、何かへの忠告だったと思う。そう気が付いて振り向いても、男は既に離れてしまっていた。
一瞬追いかけるべきかと迷うが、やはり先に屋上は確かめておきたい。それに、あの男が今の言葉の理由を詳しく教えてくれるとは限らなかった。
「……何アレ」
急いで階段を駆け上がる。さっきよりも心臓がどきどきしていた。悪魔の犬とは一体何なのだろう。
身近な悪魔といえば燐と、そう、理事長しか思いつかない。先ほどの理事長の様子が思い出される。あの、笑ったであろう雰囲気。
「……何だって、の!」
階段を登りきった私は、思い切り扉を開け放つ。
「つ、ついた……」
「葵先輩、遅いです」
ようやく辿り着いた私を一番最初に迎えたのは、雪男の辛辣な言葉だった。
「兄さんを見てて欲しかったのに、どうして目を離したりするんです?」
「う、」
容赦なく言葉が私を貫いていく。事実なだけに、結構痛い。
「一体何のためにあの部屋から出たっていうんですか」
「や、だって、雪男も心配だったし、燐も寝てたから……」
一応言い訳はしてみる。
「だってあんな音させるんだもん。心配するのは当たり前っていうかなんていうか」
言いながら雪男の顔色を見る。すると弟くんは驚いているようだった。ほんの少し目を見開いて、私を見ていた。
「心配って、」
「し、心配するのは当たり前でしょ!一応、ほら、自分の後輩!」
そう、当たり前だ。燐の弟で、私の後輩。しかも彼は呪を知った上で、側にいる人間だ。珍しくて貴重で、きっと私が大切にしなければならない人のひとり。
「あ、ありがとうございます」
「こ、こっちも燐から……」
目を離したことを謝ろうとした瞬間、視界に入ったのは寝転んだ燐だった。言葉が出なくなる。側にはしえみちゃんが座っていて、何か治療を施しているようにも見える。
私を黙らせたのは、燐の腹部を染める血。
「り――」
「大丈夫です」
悲鳴を上げるところだった。寸でのところで止めたのは雪男で、彼は私に静かにするよう首を振った。随分と落ち着いているところからして、そう重傷ではないのだろう。だが口元も血で汚れている。あの量は口内を切っただけではないはずだ。
「大丈夫。既に閉じかけています」
「……なんで、こんな」
これは、私が燐を見ていなかったから起きたことなのだろうか。狙われているのは理解していたはずなのに、こんなひどいことになるなんて思いもしなかった。
「腕に怪我をした祓魔師には会いました?」
「え、う、うん。階段途中で会ったよ。眼帯してる男の人でしょ」
「はい。……恨みがあったみたいで、その、今回こんなことに」
燐に恨み。でも燐は恨まれるような人ではない。高校以前は結構喧嘩はやっていたようだが、それでもあんな大人の男に恨まれるようなことはやっていないだろう。
「なんで、」
「兄さんには、どうしようもないことです。でもああいう人はきっと、他にも出てくるかもしれない」
ぽつりとこぼされた言葉は随分と理不尽なものだ。望んでそうなったわけではない。でも、周りの人間はそう見てはくれない。拳に力が入る。
「……ひどい」
もし普通に触れることが出来たら、私はすぐさま燐に駆け寄って慰めたかもしれない。嫌がろうが何しようが抱き締めて、大丈夫だよって言ってあげたかった。
でも私は、燐に触ることは出来ない。その恨まれる原因が悪魔の血に寄るものだとすれば、私の存在はそれを再確認させるだけだ。
「葵先輩、」
「……なに?」
「先輩は、兄さんの側にいるだけで、それだけで救いになってます」
燐から視線を雪男へ移す。弟くんの表情は真剣だった。慰めとか、そういうことで言っていないのは分かる。
「あなたが兄さんを大切にしているように、兄さんもあなたを大切にしたいと思ってる」
雪男は少しだけ目を閉じて逡巡した。けれどもすぐに口を開く。
「だから変に戸惑わないでください。触れなくたって、出来ることはあるでしょう」
「……大丈夫?」
どうしてだか私には、雪男が平静ではない気がした。見た目には取り乱してはいないがどこか違和感がある。そしてそれには雪男自身も気がついていないようだった。
「?僕は何も……」
「一人で抱え込むなって言ったでしょ。後で良いから聞かせなさい」
頭をがっと両手で掴んで軽く引き寄せる。眼鏡がずれたようだが、落ちなければ問題ない。
「雪男の言うとおり、私だって燐を守りたいんだから」
弟くんが少し、淋しそうに笑った。



fin...


雪男のターン。
20110710
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