後ろから、黒いヒトが追いかけてくる。距離をとっても振り払っても、決して私を逃がしてはくれない。
左腕を覆うほどに成長した痣が、まるでその黒いものに引っ張られるみたいに疼いていく。
怖い。怖い。怖い。
その言葉だけがぐるぐる頭を回って、ただひたすらに足を動かす。余計なことを考えたら、動けなくなりそうだ。
「神社っ」
このヒトは良くないものなのだ。いわゆる「神様の領域」までは入ってくることはできないだろう。だからこそ私は、目的地を目指す。この先に確か、そこそこ大きな神社があったはずだ。管理だってされていたはず。だめだったときのことは考えない。そうでもしないと挫けてしまう。
大丈夫。そこまでいけば私の勝ち。大丈夫、あと少し――、

「つか まえ  た」

人の声ではない音が、私の耳に入ってきた。




私のこの「見える」体質は物心ついたときからだったと思う。
絶えず視界に入り続けていたそれは、成長するに従って「見えてはならない」ものだということを知った。そして生きている人の大半は、見えていないということを。
それでも視界に入ってしまうのは仕方のないことで、けれどいつしか見えないように振舞うことも出来るようになっていく。あまり話し過ぎると奇異の目を向けられる上に、両親もいい顔をしない。当然だ。だって彼らには見えていないのだから。
ただそれも、高校二年の初めまで。
あるときふと、自分の腕に痣が浮いているのに気がついた。押しても特に痛みはなくて、あれ、いつぶつけたのかな、なんて考える。その時点では目立つものではなかったし、部活や体育をやっていれば少なからずぶつけるものだからと納得するくらいだったのだ。
けれど時がたつにつれて、その痣は消えることなく、むしろ大きくなっていくばかりだった。ふと病気か何かかと不安になって母に見てもらえば、返ってきた言葉は頭の芯を冷やさせた。
「どこかにぶつけたの?でもまだ痣にはなってないわよ」
大丈夫、痛くなかった?と聞いてくる母に、自分はよく動揺を隠し切ったと思う。
この痣は見えていなかった。普通の人たちには。それは即ち、この原因が「見えてはならないもの」からのものだということだ。
初めてだった。今まで見えることはあっても、決して関わることなんてなかった。人間は本来「生きている」というだけで、そういうものを寄せ付けない力がある。だからこそ私は今まで「見えないふり」を実行することが出来ていたのだ。
――なのに、これはなんだ。少しずつ広がっていく痣。それはだんだん手形をかたどって、私に思い知らせているかのようだった。
捕まえているよ、と。
それを理解したときの恐怖は、私をただ呆然とさせる。誰にも相談できない。助けを求めることも出来ない。一縷の望みを抱いて会いに行ったお寺の住職さんも、見えてはいないようだった。
手形がはっきりし始めた頃から、今度は夢を見るようになった。全身が真っ黒で染められたヒトから逃げる夢。夢のはずなのに、そのヒトの色も臭いも、恐らく何をまとっているかも分かってしまった。そのヒトは、腐った肉の塊だった。腐って黒ずんで、どろどろになっているのにヒトの形を保っているもの。
私はもちろん悲鳴を上げて逃げるのに、夢の最後には左腕を掴まれて言われる。
「つか まえ  た」
人の声とは思えないような、そんな音で。

それが現実でも出てきたのは、つい最近の話だ。学校の廊下にぽつんと佇んでいたときは、心臓が止まるかと思った。
学校をサボったことなんてほとんどないのに、今の私はこの恐ろしいものから逃げることだけを考えるしかなくて。アレにつかまったら終わりだというのは、誰かに教えてもらわずとも理解できる。ここ二日くらいは家にもろくに帰れなくて、これじゃあまるで不良少女だ、なんて自分で冗談を言っても、あのヒトは消えない。それどころか大きくなって、移動するスピードも上がっているのだから本当に笑えなかった。
「怖い」
制服のスカートが翻る。走るのに、逃げられる気がしない。
「たすけて」
怖い。どうしてこんなことになっているのか分からない。
ふと、この近くにそこそこ大きな神社があることを思い出す。
「……神社、」
どうして思いつかなかったのだろう。あれは良くないものだ。ならばきっと「神様の領域」には入れない。



後ろから、黒いヒトが追いかけてくる。距離をとっても振り払っても、決して私を逃がしてはくれない。
左腕を覆うほどに成長した痣が、まるでその黒いものに引っ張られるみたいに疼いていく。
怖い。怖い。怖い。
その言葉だけがぐるぐる頭を回って、ただひたすらに足を動かす。余計なことを考えたら、動けなくなりそうだ。
「神社っ」
このヒトは良くないものなのだ。いわゆる「神様の領域」までは入ってくることはできないだろう。だからこそ私は、目的地を目指す。この先に確か、そこそこ大きな神社があったはずだ。管理だってされていたはず。だめだったときのことは考えない。そうでもしないと挫けてしまう。
大丈夫。そこまでいけば私の勝ち。大丈夫、あと少し――、

「つか まえ  た」

人の声ではない音が、私の耳に入ってきた。
すとんと理解できたのは、もうおわりだということだけだった。




「悪いけど、ここでそんなんできると思うなよ」




そんな声が上から降ってきたかと思うと、右腕を引っ張り上げられた。その瞬間波が引くように左腕の圧迫感がなくなっていく。
驚いて顔を上げてみれば、そこには学ランを着た男の子が立っていた。色素が薄い髪に、優しそうに微笑む口元。左目の泣き黒子が、ずいぶん大人っぽい雰囲気を醸し出している。
そんな男の子は私を左手で引き上げた後、まだいるであろうあの黒いヒトに右腕を伸ばした。その手は鉄砲を打つかのような形をとっている。
その所作自体に意味はないはずなのに、目が離せない。黒いヒトも動きを止めている。
「バンッ」
冗談のような光景だった。ただ腕を伸ばして、遊ぶみたいに銃を撃つまねをして。ただそれだけのはずなのに、黒いものが消し飛んでいく。
「っ、」
悲鳴じみた絶叫が聞こえた気がして思わず身を縮ませた。縋るみたいに目の前の制服を掴めば、視線がこちらへ降りてくる。
「大丈夫だから。もうちょっと待って」
普通に笑ってもらえて、じわりと涙が浮かぶ。この人にはあれが見えている。そうしてそれを、除けることが出来るのだ。
ほっとすると足から力が抜ける。まだアレはいるはずなのに、地面へへたり込みそうだ。
「そ  お  はじ に   たん 」
「――悪いけど、順番なんて関係ないよ」
会話なんて成立するのだろうか。この黒いヒトは言葉を持っているようだったけれど、私にははっきり聞こえない。
「それに少なくとも、お前のじゃない」
手の形が伸ばされる。彼はそれを思い切り上げて、振り下ろした。まるで、なにかを斬り捨てるみたいに。
「よし、これで多分大丈夫。ずいぶん変なのに目ぇ付けられてたけど、平気?」
優しげに微笑んだ顔が突然覗き込んできて、思わず仰け反った。良く考えたら私、この人と初対面である。状況が状況ではあったが、良く知らない人にしがみ付かれているというのはそんなに良いものではないはずだ。
「あ、え、ご、ごめんなさ、うっ」
とっさに離れようとするが、自分ひとりではまともに立てそうにない。すぐに目の前の相手に支えてもらうことになってしまった。
「そんな急に動いたら危ないだろー、ほら、肩貸すからちょっと歩ける?」
「は、い」
泣き出しそうだったけれど、今、一体何が起こったのかを知るまでは意地でも立っていなくてはと思う。ただ一人では歩けそうになかったため、肩は貸してもらうことにはなったが。
歩き出せば膝がふにゃふにゃしてしている。それでも一歩踏み出せば、胸に広がるのは安堵とは程遠いものだ。助かったのに、怖い。
もしつかまっていたら。助けてもらえていなかったら。現に左腕は掴まれていたのだ。引かれて、つかまえた、と。
「……、」
気がつけば、両目から涙が溢れ出していた。止めようと思ってもどうにもならない。肩を貸してくれている男の子はちらりとこちらを見て、何も言わずに視線をそらしてくれる。
「ここは菅原神社っていってさ。結構昔からあるとこで、一応今では兼業ではあるけど神主もいる」
私の返事は期待していないのだろう。そして多分、気を使ってもらっている。
「だからこの中には変なものは入ってこられないし、万が一進入されても俺のほうが強い」
「……強い?」
「そ、強い。あ、そこ座って良いよ」
境内にある大きめの石のひとつに座るよう勧められた。促されたままに座り込むと、男の子からは見下ろされる形になる。
「俺は菅原孝支。きみは?」
「わ、たしは、高野カナ」
男の子改め菅原さんは、私の名前を聞くと何度か繰り返す。そうしてこちらに手を伸ばすと、額に指が触れる。普通だったら避けてもよさそうなものなのに、避けようとは思わなかった。額に触れた指が離れて今度は左腕へ。眉間にしわが出来た気がするのだけれど、一瞬だったから見間違いかもしれない。
「あ、」
左腕の袖を捲くられれば、そこにあるのは黒い手形だ。
「ひどいなあ」
菅原さんはそれだけ言うと、その黒い手形をゆっくり撫でた。じわりと熱が伝わって、信じられないようなことが起こっているのが私にも分かった。
「え、」
「よし」
たった一撫でだ。それだけで私を苦しめていた痣がきれいに消えてしまっていた。
「えっ!!!」
「あ、泣き止んだ?」
驚いて涙が引っ込んだ。だってそうなるのも仕方がないと思う。誰にも言えなくて、何しても消えなかった痣が、こんなにも簡単に消えてしまった。
「ほんと、間に合って良かった」
肌の色に戻った腕を菅原さんの手が撫でていく。
「言ったべ。俺のが強いって」
最初は大人っぽいと思ったのに、今は悪戯でも成功した子どもみたいな笑い方。それにようやく、逃げ切ったんだという実感が沸いてきて大泣きしてしまった。


...end

神さまもどき×霊感少女
20141116
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