木と草の間からこちらを見ているのは、確かに次屋三之助だった。きょとんとしているところをみると、どうやらまた迷ったらしい。竹谷八左ヱ門と伊賀崎孫兵は顔を見合わせる。なんというタイミングで迷子になって、ついでにどうしてこんな場面に遭遇するのだろう。次屋が無自覚方向音痴だと知らないあやめは置いてきぼりである。
だが状況の把握に置いていかれているのは次屋も同じだった。体育委員会の活動(ここでは山登りをさす)をしていたら(次屋曰く)他のメンバーが迷子になり、一人でうろうろしていたら突然現れた気配。そちらを目指せば居たのは同級生と先輩と、何か大きな白い生き物。
「え、孫兵、なんだそれ」
尋ねるのは当然だろう。しかも同級生である伊賀崎は、それを安心させるように抱きついている。
次屋の視線が虎へ移り、爪を見て身体を眺め、そこでそれが鋭い爪を持つ大きな獣ということに気がついたようだった。
「!?」
「あ、待て、叫ぶんじゃないぞ次屋」
竹谷は口を開けた次屋に先手を打ち、さっと手を上げて動きと声を止めさせる。変に叫ばれて人が集まるのは避けておきたい。驚くのも叫ぶのも、仕方がないことではあるかもしれないが。
「この虎は大丈夫だ。大丈夫だから、あんまり驚かせないでくれ」
口をそっと閉じることになった次屋は、竹谷のその言葉と伊賀崎が抱きついたまま微動だにしないことで、叫ぶ必要がないと判断したらしい。小さくこくりと頷いた。
それに竹谷はほっと息を吐いて、相変わらず固まったままのあやめを振り返る。人に、しかも忍術学園の関係者に見つかったことに衝撃を受けているらしい。今度は尻尾だけではなく、耳もぺたりと伏せていた。
「……可愛いです」
竹谷があえて言わなかったことを、伊賀崎があっさりと口にする。それどころじゃないだろうと、虎のままのあやめは恨めしそうに伊賀崎を見た。
「それ、何ていうんですか?」
その様子を見ていた次屋は動かずにじっとしている虎に興味を持って、恐る恐る近づいてくる。伊賀崎が首周りにしがみ付いているのなら危険がないのかもしれないと考えたのだ。
やはりこうなるかと竹谷は心の中で思う。
見慣れない生き物を見たら、誰だってそれが何か知りたくなるのだ。しかもそれが人に害をなさないと知ればなおさら。
「虎だよ。きれいでしょう」
「うん。触っても平気なのか?」
「平気」
伊賀崎は半分開き直っていた。知られてしまったのなら、隠しても意味がない。ならいっそ盛大に、あやめの素晴らしさを知ってもらうのもありなのではないかと。これはあやめが魔法使いという不思議な力を持つ人間だと知らないからこそ出来た選択でもあるだろう。
次屋はほんの少し迷って、それから耳の後ろの辺りを撫でてみた。思ったよりも毛並みは柔らかい。
「うわ、ふわふわしてる」
耳の辺りを優しく掴んでも嫌がらない獣に楽しくなったのか、次屋は伊賀崎と同じようにあやめの身体に抱きついた。
「おお、」
焦ったのは抱きつかれた本人と竹谷である。竹谷は彼女が人間であることを知っているわけだから、正直この状況は微妙なものとしか見えないのだ。妙齢の女性に抱きついている男の子二人。微妙だ。
「次屋はなれろ、何やって――」
「な、なんですかそれは!!!」
「ひゃー」
「ぎゃー!」
竹谷の咎める声に続いて、複数の叫び声が裏山に響く。迷子になった次屋を探しに来た、体育委員の(七松小平太を除く)メンバーだった。
その人数に驚いたあやめは思わず腰を起こしかけるが、身体に伊賀崎と次屋をくっ付けているせいで微動だにすることが出来ない。だがそれで良かったのだろう。俊敏に動いていたら、戦輪を持った平滝夜叉丸が攻撃をしていたかもしれないのだから。
いち早く臨戦態勢に入った平に、竹谷は大きく肩を落とした。もうこれは、誤魔化すなんて選択肢がなくなってしまったということである。
「あー平、説明するからその戦輪は下ろしておいてくれ。俺は、こいつを傷つけさせたくないんだ」
二人をくっ付けたまま動けないあやめの頭を撫でてやれば、彼女は安心したように目を細めて受け入れる。
だがそんな様子を見ても、平は簡単には戦輪を下ろさない。忍として、今ここに居る下級生の先輩としては当然の行動だ。体育委員長の七松が不在の今、彼が後輩たちを守るしかないのだから。
だがそれを目の当たりにしているあやめ本人と伊賀崎はたまったものではなかった。あやめは怪我をするのはごめんだし、伊賀崎は大事な白い虎に傷をつけようとするなんて信じられないと憤っている。それを見て、ペット>人間が本当だったんだなとあやめが感じたのは仕方のないことだろう。
「……平、」
「しかし竹谷先輩、その、それは虎でしょう。人を襲うこともあるのでは」
平の言うことは尤もだ。そしてやはり博識である。その知識ゆえ、警戒は解かれることはなかった。
しかしあやめは元々人間である。書物の常識を当てはめるには少々現実的ではない。竹谷は平を説得することにした。
「こいつは人を襲わない。人の言葉を理解して、今は伊賀崎に好きにさせてる。変に驚かせたり傷つけたりしなければ、爪も牙も、絶対に届かない」
平の視線が、彼を睨む伊賀崎へ向けられる。その腕は虎の首にしっかり回されて、それを嫌がる様子もない。ついでに次屋も白い毛に埋もれたままだ。
「……その虎は、生物委員会で飼っておられるのですか」
渋々ではあるが、平が戦輪を下ろした瞬間だった。一年は組らしく好奇心旺盛な皆本金吾が、キラキラしながら竹谷に問いかける。
「あの、竹谷先輩、噛まないんですか?触っても大丈夫なんですか?」
次屋と伊賀崎が好きなようにしても動じる様子のない初めて目にする虎に、金吾はじっと視線を注ぐ。触って大丈夫なら触ってみたい。そんな思いが駄々漏れである。
「生物委員会では飼っていない。というか、予算の関係で飼えるはずもないしな」
あやめが口を開けて大きく欠伸をした。その際にやはり鋭い牙が見えて、平と金吾と時友四郎兵衛が少し後ずさる。
それに竹谷は少し笑って、あやめの顎の辺りを触った。きょとんとした彼女の眼が細くなって、ぐるぐる喉が鳴る。猫のようにはいかないが、これで人に慣れているというのは証明できるだろう。
「金吾、触ってみるか?」
一番興味がありそうな金吾に竹谷が声を掛けると、白い毛皮に伏せていた次屋が顔を上げた。そうして体育委員の(七松小平太を除いた)メンバーを眺めてひとこと。
「怖いんですか?」
これは恐らく、主に平に向けて放たれた言葉だろう。その証拠に、少し及び腰になっていた彼は突然何か(恐らくプライド)を持ち直した。
無駄に胸を張りさらさらストレートヘアをなびかせ、先ほどの警戒は何だったのだろうと思うほどに堂々と虎へ近づいていく。次屋の言葉が相当悔しかったのかもしれない。
「こ、この平滝夜叉丸に掛かれば、どんな獣であろうと手なづける自身があります!!」
それを聞いて、呆れたように竹谷は言う。
「……平、この虎は頭がいいからお前の言ってることを理解してるぞ」
え、と身体を固まらせた平に、あやめの背中で次屋が笑ったのは気のせいではないだろう。
...end
滝夜叉丸は虎を知っているからこそ、その怖さも理解している。次屋はその辺り詳しくないので、伊賀崎が平気って言うなら平気なんだろうなという考え
20120818