「え、帰っちゃうんですか?」
そう言ったのは医務室に来てくれていたきり丸くんである。彼は腕に私に貸していた本と、これから貸す予定だった本を抱えていた。おそらく暇にならないように途切れずに持ってきてくれていたんだと思う。本当に気が利いて優しい子だ。
「うん。まだ包帯は巻いてるけど、ほとんど問題ないから大丈夫でしょうって先生が」
「でも完治ではないっすよね」
私の肩を見るきり丸くんの視線も口調も、少し固い。
「まあね、でも完治って言ったらいつまで掛かるか分からないでしょう。それにそろそろ、ここにいるのもまずいかなって」
多分私が他の学年に絡まれたのは、きり丸くんも知っているだろう。あれ以来ぱったりなくなったということは、立花くんたちが満遍なく忠告してくれたのだろうから。
「だからもう本は大丈夫。私でも読めるものを選んでくれて、本当にありがとう」
きり丸くんの頭を撫でてやる。嫌がられるかと思ったけれど、そうでもなかった。視線は逸らされてしまったが、ほんの少し耳が赤いのと、緩んだ口元を見れば分かる。
でも本当に感謝しているのだ。きり丸くんが私に渡してくれたものは、おおよそがそう難しくない草書体のものばかりだった。漢字だって読めないほど難しいものもなくて、話の内容も物語とか、そういうもの。先輩と一緒に選んでみたんですと差し出すきり丸くんは、大変天使でした。写真で永久保存しておくべきだったと思う。いや待て、魔法界の写真なら半分動画形式と表現しても過言ではないから、そっちの方がいいかな。
「持ち出し可能な書物は返却期限を守れば問題ないでしょうから、借りていってくださいよ」
ぐいっと本を押し付けてくるきり丸くんは、どこか浮かない顔をしている。少しでも寂しいのだと感じてくれているなら、私はそれで十分だ。
「返せるか自信がない。それに、これは学校の書物でしょう?部外者が持ち出すのはやっぱり不味いと思うの」
ぽんときり丸くんの頭に手を乗せて、言い聞かせるように話してやる。
「きり丸くんは、アルバイトであの町に来るでしょう。その時に会えるから」
当分はあの町を拠点とすることになっている。性急な移動は余計に怪しまれると竹谷くんに忠告されたのだ。
小物を作りつつ帰る方法も探し、身の回りに気をつけつつ動物もどきの研究もする。正直なところ帰る方法なんてものは見当も付かないが、その辺りは竹谷くんも何かしら協力すると言ってくれた。魔法の力が働いたのか、それとも別の、人間には理解できない何かがあったのか。
「それに君にはまだ御礼もしてないからね!」
人攫いと遭遇した際に落とした杖の場所の案内。これは忘れるわけにはいかない。こればかりは即効で用意してあげよう。
「それ、なんすけど」
きり丸くんが少し、視線を下げた。何かを我慢するように眉間にしわを寄せて、ぎゅっと眼を閉じる。
「ん?」
「お礼は、いらなくは、ないですけど!今は受けとりません!!」
きり丸くんが言い終えた瞬間に、医務室の端の方で何かが落ちる音がした。そちらを見れば、乱太郎くんがこの世の終わりみたいな顔をしてこちらを凝視している。おい少年、足元に籠と薬草が散らばっていますけど。
その反応はやはり先ほどのきり丸くんの言葉のものだろう。私も今の発言はちょっとおかしいと思う。きり丸くんとはそんなに長い時間過ごしたわけではないが、彼が如何に銭に執着しているかは知っているつもりだ。
家族を亡くしていることは乱太郎くんたちから聞いた。この学校には自分でアルバイトをしたお金で通っていることは、本人に聞いていた。結構ヘビーな話をきり丸くんはさらりと言ってみせるから、こちらが反応に困ってしまったほど。
だからこそ、おかしい。小銭の一枚でも惜しいはずなのに、一体何がどうしたというのだろう。
「きり丸く」
「きりちゃん!自分が一体何を言ってるか分かってるの!?」
私が言いたかったことを、私たちの間に乱入してきた乱太郎くんが全て代弁してくれました。
「分かってるよ。だから、今は!いらないって、言ったんだ」
所々途切れる話し方を聞く限り、きり丸くんは相当無理をしていらないと言っているのではないだろうか。
「これから先受け取らないってわけじゃないから、でも、今はいらない」
その言葉に、私と乱太郎くんが顔を見合わせる。
「何でそんな……きり丸はあやめさんに貸しでも作っておきたいの?」
「……別にそういうわけじゃなくって、何て言ったらいいかは分からないけど……でもこの約束がある限りは、あやめさんはあの町から出て行ったりしないですよね」
というか、当分は出て行ったりしない。それにどうしてきり丸くんはそんなことを言い出したのだろう。大切なお金を後回しにする理由が分からなかった。
「まあ、そういう約束がなくてもあの町から離れるのは相当後になると思うけど」
「そうなんですか?」
私の答えに妙にほっとしたような声だ。きり丸くんは訝しげに様子を伺う私と乱太郎くんに気が付いたらしく、慌てて言い繕った。
「や、ほら!おれはあやめさんによくバイト手伝ってもらってるから、その、」
「あやめさんは大事な人手なの?」
乱太郎くんは半眼になってきり丸くんを見ている。私も思わず似たような視線を向けてしまった。
しかしそれにしても、きり丸くんの様子は少し変だ。それは乱太郎くんも感じたらしく、二人で目配せしてみる。まあ、隠したいことがあるなら追求はしない方がいいだろう。そう結論を出して、この話題は過ぎたことにする。
「でも包帯変えたり、薬だってまだ必要じゃないですか?」
そう尋ねるのは保険委員の乱太郎くんだ。
「怪我の方はここまで治れば町でも問題ないでしょうって言ってたから、ここで治療することになるのは今日で最後」
私はそれに、新野先生に言われたとおりに答えてやる。
「必要な薬は竹谷くんが届けてくれるって」
実は薬の件は一度断ったのだが、先生曰く、怪我の薬なら町よりもこの学校の方が(要約してしまうと)進んでいるらしい。話していることは半分以上理解できなかったが、竹谷くんの怪我が半端ない早さで治ってしまったことを考えれば納得がいく。
この学校に通う限り、怪我とはいつも隣り合わせなのかもしれない。しかも私が考えているよりずっとひどいものを。
きっとこの目の前の小さな子たちも、そのうちそんな世界に足を踏み入れるのかと思うと少し複雑だ。でもここでは、この時代ではそれが普通なのだろう。私の世界の、時代の尺度で判断するべきではない。けれど、
「心配くらいはしてもいいよね」
手の届く範囲なら、私はまた彼らを助けることのなるだろう。例え信用されなくとも。疑われていようとも。
「あやめさん?」
「?」
つぶやいた私を不思議そうに見る二人を撫でつけた。
...end
きり丸は誰かの「これであの女が町から逃げたら、確実に間者だろう」みたいな会話を聞いて、居ても立ってもいられなくなった感じ
20120804