田島悠一郎と私は本当に小さい頃から兄弟のように育った。
家同士が仲が良くて、何より悠一郎が私に懐いていた。
私もそうやって彼を甘やかすのが好きで、暇さえあればっ構っていた覚えがある。
けれど、いつからだろうか。
悠一郎が私から離れていったのは。
野球に全関心を向け始めたのは。
そして離れていった悠一郎を見て嫌というほど感じたのだ。
彼が私に懐いていたのではなく、私が彼を傍から離れたくなかったのだということを。
関心の矛先
目の前の光景に頭を抱える以外のことが出来るだろうか。
私は軽く眩暈すら起こした気がして、思わずしゃがみ込んだ。
するとその眩暈の原因は、まるで太陽のような笑顔を翳らせて、神妙な表情で尋ねてくる。
「桜、大丈夫かー?」
返事をしないと永久に聞き続けてくるので、大丈夫だと手を振ってやる。
だが、これだけで満足するやつではないことを、すっかり忘れていた。
ずかずかと七組まで入ってくるではないか。
「ちょっと、何、」
「つーか、桜、もっと早く教えてくれりゃ良かったのに!」
そもそも、いつ、どうやって、田島に同じ学校に通っていることがばれたのだろう。
勿論ずっと隠し通せるなどとは思っていなかったが、脳内が天然素材オンリーで構成されている彼にならば、もう少し誤魔化せると踏んでいたのだ。
クラスの何人かは田島の存在に気がつき遠くから見守ってくれている。
「というか、何で私がここにいるって知ってるの?!」
「お前のおばさんに電話で聞いたー。んで、クラスは水谷から!」
思わず水谷を睨んでしまった。
何て余計なことをしてくれるんだ。
するとその鋭い視線が背中に突き刺さったのが分かったのか、水谷は勢いよくこちらを向く。
そしてうろたえた。
確かに、ほとんど話したことの無いクラスメイトに睨まれてはうろたえるしかないだろう。
だが彼は七組に入り込んだ田島に気がついたようだ。
何度か私と田島を見比べて、ぽんと手を打つ。
「そうだ、聞きたいことがあったんだ。田中さん、田島と知り合い?」
「いやいや、聞くの明らかに遅いからね」
水谷は面白そうに私の方へと近づいてくる。
とりあえず、殴りたくなった。
「で、どうなの?」
こっそり拳を握ったことなど水谷は知るよしもなく、尚も質問を投げかける。
教室内にいるクラスメイトは興味深々だ。
聞いていないふりをしているものもいるが、明らかにこちらを気にしている。
田島はそれにあっさり答えた。
「オレと桜は幼馴染だけど」
「一緒だったのは小学校までだけどね」
補足は忘れてはならない。
田島に任せておくと、勝手に暴走を始めるのだ。恐ろしい。
「よく勉強とか教えてくれたもんなー。教え方、すっげーうまいんだぜ」
「田島が馬鹿で私が普通だったからそう感じただけでしょ。そもそもあんたは野球にしか興味なかったから仕方ないけど」
ゆっくり立ち上がると、田島は相変わらず眩しいくらいの笑顔だった。
本当に変わらない。
「桜は野球好きじゃなかったもんな!」
「あのね、田島の野球馬鹿と比べたら、そう見えるって言ってるでしょ、野球馬鹿」
そこまで会話を進めると、それを聞いていた水谷が噴出した。
「ははっ、お前らほんと息合ってんのなー」
田島の天然具合にこんな的確なツッコミなかなか出来ねーよ、と水谷は続け、七組の野球部員へ同意を求めた。
すると花井やあの阿部までもが、うんうんと頷いている。
「だろー、オレがボケで桜がツッコミ役」
田島は自慢するところではないのに胸を張っている。
そこで阿部がふと、言い放つ。
「そういや、どうして田島が名前呼びなのに、田中は苗字?」
私の周りの空気が凍った。
なんと答えるかなど、用意していない。
私は小学校を卒業すると共に、田島と呼ぶようにした。
彼はその時既に野球へどっぷり浸かっていたし、私も私で気がつき、危惧したのだ。
これ以上、私自身が田島に執着していてはならないと。
……きっと、泣くのは私だと思ったのである。
田島は自分の好きなように生きる人だ。
自由に走って、私では追いかけられないところまで行ってしまう。
ならば初めから、彼の側にいなければ良いと考えた。
そうすれば、いつ置いて行かれてしまうのかという恐怖心はなくなるのだから。
「そうなんだよなー。……なあ桜、やっぱオレ、悠一郎って名前で呼ばれた方が楽だ」
答えることが出来なかった私に、滞った空気を読みきれなかった田島が言い放つ。
「い、今更……」
「何だよー、小学校の時は普通に名前で呼んでくれてただろ!苗字呼び、初めはすげーショックだったんだぜ」
段々雲行きが怪しくなってきた。
とっさに同じクラスの友人たちに視線で助けを求めるも、限りなくスルーされる。
それはないだろう。
じりじりと、まるで小さい頃やっていた鬼ごっこでもやるように、田島は私との距離を詰めてきている。
逃げるべきだと、脳が身体に命令を下した。
視線を教室の前の方のドアに向け足に力を入れる。
田島はそれに気が付いたようで、その方向へ身体を向けた。
けれどそんな馬鹿正直にそちらへ向かったりはしない。
これでも長い付き合いなのだ。
逃げる術も、分かっている。
「っ!」
「すげえ、抜けた!」
水谷が場違いな、しかし感心したような声を上げた。
後ろで田島の声がしたが、私は一目散に走り出す。
「……逃げた」
「あーあー、桜って結構プレッシャー弱いからなー」
誰かがぽつりとつぶやいて、追いかけ損ねた田島も仕方なさげに言った。
水谷は何か自分が地雷か何かを踏んでしまったのかと恐る恐る田島を見ている。
しかし見られている本人は特に気にしていないようで、楽しくてしようが無いとばかりに口元が弧を描いた。
「んん、さて、やるか!」
「た、田島……?」
その表情に不安を煽られたのか、花井が彼の名前を呼ぶ。
田島は屈伸なんかして、今から桜を追う気満々である。
「へへっ、じいちゃんのこともあるけど、決め手はやっぱ桜がいたからさ」
今まで決心つかなくて探せなかったけど、と田島は続けた。
教室には、その突然の話題の変換についていけなかった者が大半だったようだ。
だが野球部の何人かは理解できて。
「オレはずーっと桜を追いかけてきたんだ。ようやくまた一緒になったのに、離れたままなんて嫌だもんね」
「知ってたんだ」
花井は先ほどの田島と桜の会話を覚えていたらしい。
確かにあれはまるで、彼女がいることをついさっき知ったような口ぶりだった。
水谷に聞いたのは事実のようだが、同じ学校に入るのは受ける前から分かっていたに違いない。
「おう、だってあいつ、オレが知ってて入ったって分かったら、泣きそうだもん」
田島はひょいひょいと机を避けて、桜が出て行ったドアへ手を掛ける。
休み時間の終わるチャイムが近づいていたが、彼には関係ない。
田島にとっては、桜とのことの方が重大事項だ。
そう、何も桜だけが、執着していたわけではないのだ。
彼もまた、桜を手放すことが出来なくなっていたのである。
fin...
桜が再び悠一郎と呼ぶ日も近い。
20070921