あの声を、視線を向けられたときのどきどきは、一体何なのだろう。
恋とは少し違うような気がする。
席替えで関わるようになったクラスメイトの三橋廉。
ふわふわした、気の弱そうな、うちの学校の野球部の、唯一のピッチャー。
取り付けられた約束
「いくらなんでも、これはないと思うの」
思わず、といった風に頭に手をやると、三橋はびくりと肩を震わせた。
同じ状態のはずの田島はどこ吹く風である。
だが私は、三橋を怖がらせたいわけじゃない。
ただちょっと、これはどうなのかと思っただけだ。
この机の、凄まじい溢れんばかりの教科書の量に。
「だってさ、持って帰んのめんどくせーじゃん」
確かにその意見には同意せざるを得ない。
重いし何より、家に持って帰っても、その教科の勉強をやるとは限らないのだ。
けれどこの言葉を、田島が言っているとなれば別である。
「田島の家って、ここからどれくらい近かったかなー?」
確か相当近いと言っていたのは覚えている。
そんな奴に持って帰るのが面倒とか言わせたくはない。
ならもっと遠くでもって帰っている人間はどうなる。
あれか、超面倒とかそれくらいになるのか。
「ま、面倒なのは分からなくもないけどさ」
「納得すんのかよ」
いつの間にか会話に参加していた泉にそう突っ込まれる。
いつの間に、という視線を投げかけるが、それに対しては特に反応は頂けなかった。
私はすぐに三橋と田島の方へ向き直り、言う。
「でももう少しくらい、机の中整理しときなって。それ、ある程度時間経つと悲惨なことになるよ?」
「ひ、さん?」
三橋が不思議そうに首を傾げる。
泉は経験者は語る、などと失礼なことをつぶやいた。
「そうそう、悲惨なこと。例えば試験前に先生が、いついつのプリントから問題出すぞーとか言ったり。で、直前で思い出してそのプリントを探そうってことになっても、腐海の中からは出てこないっていうね……」
あーそれ分かる、と田島が続ける。
「そーいうのって、試験終わってから出てくんだよなぁ。しかもその、探したはずの腐海の中から」
どうやらそれは三橋も経験があるらしく、いつの間にかうんうんと頷いていた。
聞いていた泉は呆れているようだ。
微妙な表情をしている。
「だから、教科書を机に突っ込むという行動はやめよう!せめて、見た目を美しく!」
「おぉ!」
「お、おー!」
「それ、根本的なとこは何にも解決してないんじゃね?」
私の意気込みに田島は勢い良く、三橋は戸惑いながら返事をくれた。
泉の突っ込みは何時ものことである。
「そういや、田中も結構机に教科書残ってるよな」
田島が突然、私の机を覗き込むような仕草をしながらそう言った。
さすがにそれには慌てて、両腕で中が見えないようガードする。
「見るな馬鹿!それに私は、あんた達のように全部放置しているわけじゃありません」
「ふーん」
「最低限のものはできる限り持ち帰ってるよ、一応」
「ま、整理ってのは同感だなー」
非常に気になる言い方だが、田島は私の言い分に納得したらしく、自分の席に戻っていく。
多分これから机の中をひっくり返すのだろう。
周りも巻き込んだ整理整頓の始まりである。
席の近い友人たちに心の中で合掌しながら、三橋はどうしただろうと視線を向けた。
するとそこには、固まったままの彼。
その手には少しくしゃりと拉げたプリント。
泉が不思議そうにそれを覗き込む。
そして声を上げた。
「あ、これ、」
「て、提出、日って」
三橋の声に私も泉に倣って覗き込み、そして一瞬固まる。
泉も、私もすっかり頭の中から抜けていたものがそこにはあった。
数学の宿題である。
「ギリギリ。確か明日だ」
「わー、すっかり頭から抜けてたよ。ナイスタイミングだね、三橋」
「え、オ、オレ?」
その場にいた、プリントの存在をすっかり忘れていた二人から助かったと言われた三橋。
不思議そうに私を見る。
「そうだよ、三橋が思い出させてくれたんじゃん」
「で、でも」
「あー、これいつやるか……」
何か言いたげだった三橋は、泉の言葉に動きを止めた。
どうやら同じことを考えていたらしい。
だが私は、何故彼らがそんなことを悩むのかが分からない。
「帰ってからは?今日何か用事でもあるの?」
素直に思った疑問を口にすると、泉からは文句有り気な鋭い視線が飛んできた。
「オレらは、部活があるんだよ」
「あ、そっか。野球部、そんなに大変?」
大変とは聞いたが、宿題をやる時間もないほどなのだろうか。
すると泉は結構大変だと頷く。
三橋も隣りで首を縦に振っていた。
「ふーん、そういや三橋って投手だったよね」
野球がほとんど分からなくても、投手や捕手くらいは知っている。
あとは一塁とかホームとか、基本的なこと。
けれどプリントを持った三橋はその私の言葉にびくりと肩を震わせて、それからオドオドと泉を見た。
何だか不安げだ。
その表情に聞いたこちらも何だか不安になって、泉に助けを求めた。
「……投手は三橋だよ」
あーもうこいつは!とでも言いたそうな口調である。
三橋はその泉の言葉に安心したようで、机の中の整理を再開した。
「ね、ね、投げるのってどんな感じ?」
「な、投げ、るの?」
「そ、投げるの」
くしゃりとなったプリントを伸ばして揃え始めた三橋に私はそう尋ねる。
やったことがないことは、経験者に尋ねるのが一番いいと思うのだ。
「え、えっと、き、気持ちが、いい、よ!」
「楽しいの?」
「う、うん、楽しい」
すると三橋はそれはそれはとても楽しそうに答えてくれた。
その瞬間でも思い出しているのか、その顔には可愛い笑みが浮かんでいる。
心臓がどきんとなった。
「そ、そっかー、楽しいかー!可愛いぞコノヤロー」
どきどきする心臓を誤魔化そうとするが、どうにもなかなか収まってはくれない。
するとそれをじっと見ていた泉が、ポツリとつぶやいた。
「お前、どさくさに紛れて何言ってんだよ。ってか、気になるんだったら練習試合でも見にくれば?百聞は一見に如かずって言うだろ」
「えぇぇ!?や、邪魔にしかならないと思うし、」
突然何てことを言い出すんだ、こいつは。
私が慌てて断ろうと手を振ると、泉はこれ以上ないほどの(私にとっては)嫌な笑みを見せた。
背筋に嫌な汗が流れる。
秘密が知られてしまった気分なのは何故だろう。
「三橋だってそう思うよなぁ」
泉は知った上で三橋に聞いている。
あの人の顔色を無意識に見てしまうような彼が、首を横に振るはずがないのである。
そして私が、そんな三橋を前にして宣言せざるを得なかった見に行くという言葉を、無かったことに出来ないことも。
fin...
泉はニヤニヤしたままである。
20080329