「はぁ、はぁ・・っ!」

 最悪な一日だ。朝はお天気お姉さんにやる気を削がれるは夕食を食いっぱぐれるは終いにはその空腹を満たす事も出来ず子供達を世話した疲れを引き連れながら格闘をしている。他でも無いこの施設にいる「先生」からの密告に依って、目の前の男と。

「頑固な奴」
「・・母譲りなのよ」

 目の前の男は私の言葉にさも興味無さそうに「そうかよ」とだけ呟いた。・・何でこんな事に。あーもう、本当最悪!



episode 2...Reality that want to cry




 緊迫、劣勢。そんな言葉が今の私にはお似合いだ。身体はボロボロ、体力はもう微々たるモノしか残っていない。だが目の前の男は未だ平然としている。最初に彼に感じた只者ではない雰囲気は最悪な事に間違っていなかった様だ。

「ったく、俺だってさっさと帰りたいんだが」
「帰りなさいよ。お帰りは彼方ですよ」

 そう云って院の門に向かって手の平を差し出した。頼むから帰ってくれ。そう言葉を付け加えたくなった。

「俺は仕事はキチンとする質なんだよ」

 知るか!心で叫ぶ。こんな所で律儀に真面目なんですアピールをされても迷惑極まりないだけだ。案の定心の叫びとは裏腹に帰る気配の無い其奴にため息を吐く。もう腕を上げているのですら辛い。

「異能力ならさっき見たでしょ」
「未だ判断し兼ねるな」
「何だよ、ポンコツじゃんか」
「あァ!?」

 やれやれと両手をその腰に当てる。そんな私に彼は「手前・・!」と右手の拳を震わせた。

「・・ったく、手加減してやったってのに」

 男はそう云って右手の力を抜いた。左手で帽子を抑える。最初に私に向かって駆けて来た時と同じだった。そんな彼の様子に「こりゃやばいな」と思わず引き攣った笑みが漏れた。

「もういい、取り敢えず死ね。首領には適当に報告する」

 そう云って男が右手を掲げて跳躍する。それに私は舌打ちを漏らす。流石にはいそうですか、と死ぬ訳にはいかない。私には異能力者だと知りつつも此処まで育ててくれた母も私を慕ってくれる子供達もいる。

「・・・」

 自分でも驚く程落ち着いていた。スッと肩の力を抜いて集中した。彼の本気は如何程か知らない。自分の力も何処までのモノかも知らない。だけど先程彼を跳ね飛ばした時にある程度"戦闘の為の力の使い方"、その感覚を私は掴んでいた。

 彼奴は私に触れられない。何故なら彼が既に私に触れていたからだ。

「!?」

 彼の拳の落下地点、そこに両手を翳した。目の前の男が目を見開く。私達は先程と同じ様に手の間に何か壁があるかの如く接触寸前でその動きを止めていた。

「・・っ!」

 二人を中心に爆発的な風が生まれた。それは庭の砂を舞い上がらせ院の窓硝子をガタガタと揺らす。転がっていたサッカーボールは瞬間的に何処かへ飛ばされてしまった。

 彼の拳は当たっていないにも関わらずその衝撃が腕を伝って全身に駆け巡る。ピリピリと痛みが走り骨が軋んだ。これじゃ身体が持たない。そう目をギュッと閉じた、その時だった。

「なっ・・!」
「つっ・・!」

 キーンと甲高い音が脳に直接響き渡った。余りの音に何事かと薄目を開ければ目の前の男も顔を歪めていた。

「なん、だよっ・・!」

 男にも音の正体は判らない様だった。私は声を発する事も侭ならず、唯耐えるしか出来なかった。

「「 !? 」」

 だが突然にして二人を中心に巻き起こっていた風が弾ける様にピタリと止んだ。私の意思と反して異能が解けたのだ。同時に耳障り以外の何物でも無かった音も止んだ。宙に浮いたままの目を見開いた男と目が合った。突然目の前の障壁を失くした男が私に降り注ぐ。

「「 !! 」」

 唇に、何かが当たった。同等な柔らかさを持った何か。それが何かを理解するのに時間が掛かった。それは相手も同じだった様だ。

「・・っぎゃあああああ!」

 私は糸を切った様に思わず叫んだ。悲鳴だ。私は腹の底から、否、地獄の底からそう叫んでいた。

「何してくれてんのよ!莫迦!変態!セクハラ!!」
「なっ!?俺だって態とじゃ・・!」
「もー!やだー!お母さーん!!」
「ちょ、落ち着け・・ぶっ!」

 私は一心不乱に叫びながら尚も間近にある男の顔を手で突き放した。

「こんなチビと、わ、私の・・ファーストキスがああああ!」
「っ手前!俺はチビじゃねぇ!大体俺だってなぁ!」
「いやあああああ!」
「って訊けよ!!」

 自分の顔面を襲っていた私の腕を掴みながらそう云う男を無視でパニックに陥った。ああ、さっき異能なんて遣わずに死んでおけばよかった!そんな後悔さえも頭に過ぎった。

「ってかさっさと離れなさいよ!変態チビ野郎!」
「煩え!手前の異能だろうが!」
「はぁ!?あんたの異能でしょ!?」

 私達は身体をピッタリと密着させたままそう罵り合った。背丈が変わらない故に避けぞっていないと先程と同じ事になる。想像してゾッとした。腕をこれでもかと云うくらい突っ撥ねるも二人の間に隙間が出来る事はない。

「「・・・」」

 散々騒いで沈黙が二人を襲った。相手が嘘を云っている様には思えなかった。勿論私も嘘など微塵もついていないのは云うまでもない。

「・・早く解きなさいよ」
「・・手前が解けって云ってんだろ」

 再びの沈黙が訪れる。それは私に取っても目の前の男に取っても訃報に近い悲報だ。嘘、真逆、否、待てよ。お互い考えている事は同じ様だった。百面相の末に二人の顔からサーっと血の気が引いた。

「嘘でしょ」
「・・此方の台詞だ」

 目を瞬かせる私と頭を抱える目の前の男。ピッタリとくっ付いて離れない身体に目の前が暗くなった。

「取り敢えず行くぞ」
「行くって何処によ」
「決まってんだろ、本部に戻る」

 男の言葉に目を見開く。彼の云う本部と云う事は、と頭に最初の彼との会話が浮かんだ。

「ポートマフィア!?」
「当たり前だろ、っつか煩え」
「無理無理無理無理!!」
「ぶっ!手前っ!!」

 再び彼の顔を押し退ける私に其奴は私の腕を掴んで青筋を立てた。

「離してよ!行かないったら!!」
「ンな事云ったって仕方ねぇだろ!」
「ぎゃあああ!お巡りさーん!誘拐ですー!」
「・・本気で煩え」

 仕方なく男はため息を吐きながら落ちていた帽子を器用に足に引っ掛けてその手に取る。パタパタと音を立てて叩いてそれを頭に乗せた。そしてキョロキョロと辺りを見渡す。外套は先程の爆風に依って何処かへ飛んで行ってしまった様だった。

 それに小さく一つ舌打ちを漏らして後ろ向きに歩き出す。抵抗虚しくズルズルと引き摺られる私は正に滑稽だ。否、側から見たらそれは私と密着した彼も変わらないだろう。

「だー!暴れんな!歩き辛え!」
「歩かなきゃいーでしょ!」
「ンな訳いくか!」

 矢っ張り最悪の一日だ。そう思わずには居られなかった。ガクッと項垂れた私の来た道には綺麗に二本の線が出来ていた。

「少しは手前で歩け!」
「無理、疲れた、お腹減った、眠い」
「コノヤロウ・・!」

 お母さん御免なさい。矢っ張り云い付けを守るべきでした。こんな娘で御免なさい。

 私は泣きたくて仕方なかった。