差し込んだ光はやたらと暖かく感じた。季節の所為だろうか。こんなに穏やかに朝を迎えたのは生まれて初めての様な気がした。

俺が僅かに身体を動かせばナマエがゆっくりと目を覚ます。そして俺と目が合って照れた様に「おはよう」と笑った。そんな何時もなら起きたくないと云わんばかりの彼女に「珍しいな」なんて悪態を付けばナマエもまた「そうかも」と笑った。

そんな彼女の頬に触れて口付けをする。それが俺達の一日の始まりで、そして新たな幕開けの始まりでもあった。



episode 21..Almost like a tragedy



「首領が?」

昼食を取ってる最中俺の携帯が鳴った。電話の相手は首領だった。内容は告げられた時間迄に最上階の執務室へと来て欲しいとの事だ。

それを告げてナマエの横顔をちらりと盗み見た。なんせこいつは異常なまでに首領を毛嫌いしている。又あのあからさまな顰めっ面を浮かべているのかと思ったからだ。

「ふーん、なら早目に食べないとね」

だがナマエは俺の心配を余所に表情一つ変えずに食事を口に運ぶ。それに俺は驚いて、思わずナマエとは対照的に手が止まった。

「食べないの?」
「...否、食べる」

首を傾げて問い掛けるナマエに俺はそう云って箸を手に取る。だが胸にモヤモヤとした違和感が居座って気持ちが悪い。何故あんなにも名前を出しただけで嫌がっていた奴がこうも突然普通になったのか。

彼女の首領への対応を間近で見ていただけに、その話しはし辛いのが正直な処だ。だが俺は意を決して料理へと向けた視線をナマエに戻した。それに気付いたナマエもスプーンを咥えながら俺をキョトンとした目で見詰める。

「首領の事はもう良いのか」
「そんな事か」

俺の決死の質問にナマエは余り興味無さそうにそう呟いて食事を再開させる。だが俺はまだ応えを訊いていない為にそのままナマエが食事を口に運ぶ動作を黙って見詰めていた。

そんな俺の質問を始めは流そうとしたナマエだが、俺が視線を戻さない事に痺れを切らし一つ息をこぼして口を開いた。

「あの人の瞳が嫌い」

ナマエはそう云って少し俯いた表情を歪ませる。だが直ぐに「だけど」と云って顔を上げた。その表情に歪みは無く、代わりに少し照れ臭いとでも云わんばかりのぎこちない笑みを浮かべた。

「それだけでその人の凡てを否定するのは良くないよね」
「...ああ、そうだな」

俺は一瞬目を見開いて、そしてフッと笑った素直に。いい変化だと思った。だがこの時の俺はすっかりと忘れて居たんだ。恐らくナマエもだろう。

いつの日か彼女が俺へと突き刺したあの言葉。何故ナマエがあれ程までに首領を警戒し、忌み嫌っていたのかを。だが其れはこの後厭でも思い出す事になる事を、俺達はまだ気付かずに笑っていた。

「ほらよ」

俺は自分の料理を一口ナマエへと差し出す。するとナマエは「何にも云って無いけど」と俺と料理を交互に見る。

「食べさせて欲しいんじゃなかったのかよ」

口角を上げてそう云えばナマエは頬を染めながら俺を睨み付けた。

「...本当、厭な奴」
「そりゃどーも」

そう云ってナマエの口に料理を運んだ。昨日までの日々と変わらない。だけど小さな心境の変化一つで口角が上がってしまうのを、俺は隠しもせずに食事をようやく再開させた。






「任務でしょうか」

その後俺達は最上階にある首領の執務室へと足を運んだ。それにエリス嬢が床でお絵描きをしているのを見守っていた首領が立ち上がって「やぁ」と俺達に向かって笑みを向けた。

「今日は任務ではないよ」

ちょっと話しをしようと思ってね、と云う首領の言葉に俺とナマエは顔を見合わせる。お互い首領と雑談するような心当たりは無いのを無言で確認して首領へと視線を戻した。

「もうそろそろ香織君から連絡がある頃だから」

自身の腕時計を見てそう云う首領が口にした名前に俺は違和感を覚えた。だがその違和感が何なのかを模索する時間は繋がれた手にナマエが痛い程の力を込めた事に依って与えられはしなかった。

何事かと俺がナマエの表情を窺う前にナマエは首領へと向かって歩き出す。その勢いは俺の身体が思わず引き摺られてしまう程で、更には疑いようのない明らかな殺気を壊れた蛇口のように溢れさせている。何一つ理解出来ていない俺はこの状況を飲み込む事なんて出来るはずもない。

「おい、ナマエ!」

慌ててそう声を上げてもナマエは止まりもしなければ振り向きもしない。あっと云う間に首領へと手の届く距離まで来たナマエは首領を半ば睨む様に見詰めていた。

「母に何を云うお心積りですか」

ナマエの言葉にハッとする。先程の違和感、それは何処かで聞いた事があるがそれが何処なのか判らなかったが故の違和感だった。

首領は呟いた人物、ミョウジ 香織−−ナマエと通信保管室にて調べた人物であり異能特務科のエージェント、そして酒場で会ったナマエの母親だ。

刃先のようなナマエの眼光。その矛先は云うまでもなく俺達の目の前にいる首領その人で、俺が首領をチラリと見れば怪しくその口元に弧を描いていた。

「私を出しに使っても何も得られませんよ」

ナマエの言葉に目を見開いた。そう云う事か、と幾つも俺の頭上に宙ぶらりんになっていた点と点が今一直線に繋がった。何故ナマエがあれ程首領を嫌っていたのか、彼女はその理由を「真意が見えるから」と云っていた。

これがその真理だとしたら、ナマエは首領が自分の母親が異能特務科である事を認知しているのを知っていたと云う事になる。そして政府と何かあれば自分が駒となり餌となる事も。そして早くもその時が来たと云う事だ。

一瞬ナマエが俺に目配せをした。あの時の瞳だ。ナマエが首領に嘘を付き家に帰るまで一言も喋らなかったあの日。自宅の廊下で「その時は自分を殺せ」と云ったあの身勝手な瞳。

どくん、と心臓が厭な音を立てた。何かを云わなければと思うのに声も出せず足も動かず思考さえも止まった。唯手に汗握る状況に震えた。俺が、ナマエを殺す。その最悪な瞬間が今目の前に迫っているのだ。

時間にしたら数秒。だが俺に取っては永遠にも近い沈黙だ。何で、如何してこうなる。昨日俺達は新たな一歩を踏み出したばかりだ。幸せな朝だったはずだ。なのに、如何して。

「!」

繋がれた手に力が込められた。だが先程の痛みを感じるモノじゃない。優しい温もりだった。それはまるでどうする事も出来ず俯いた俺に「大丈夫だ」と云っている様にさえ感じた。

心で舌打ちをする。何が「大丈夫」なのか、俺には判らなかったからだ。組織を取るか愛する者の願いを取るのか。最悪の選択が今俺の目の前に吊り下げられている。...本当に、最悪だ。

「お、来たみたいだね」

そんな時首領の手の中の携帯電話が音を立てた。まるで終焉の始まりの様に聞こえたその音に俺は思わず勢いよく顔を上げた。

「...どうしたんだい、ナマエ君」
「ナマエ!」

鳴り響く携帯電話の釦を押そうとする首領の腕をナマエが掴んだ。それを鋭い瞳で見下ろす首領に俺は咄嗟にナマエの名を呼んで肩に触れた。

頼むから異能だけは使うな、と心で叫んだ。そんな事をすれば取り返しはつかない上に俺も動かざる得ない。それだけは避けたいと悲鳴に近い願いを心で叫んでいるその間も、音は煩い程に俺達の間を駆け巡っていた。

「!」

その時ナマエが腕を離さない事に痺れを切らした首領が反対の手をナマエへと翳した。俺達はどちらかとも無くその握る手に力が入る。

「待って下さい!首、領...」

振り絞る様に声を上げた俺は目の前の光景に驚愕した。それはナマエもだろう。何せ死に近い痛みが降り注ぐと思っていたからだ。

だが実際は首領のその手はナマエの頭に置かれ小さく左右に振られている。その動きに合わせて目を瞬かせたナマエの頭が揺れた。

「やぁ香織君、御機嫌如何かな」

それに依って首領の腕を掴むナマエの手が緩んだ事に首領は携帯電話の釦を押し、そのままそう声を発した。

『出るのが遅いんだよ藪医者』

電話に出る際にスピーカーにしたのだろう。電話の相手の声が俺達にもハッキリと聞こえた。その声は間違いなくあの酒場で聞いた声で、だがあの時より大分不機嫌そうな声に首領は苦笑いを零して「すまないね」と返す。

『ナマエはちゃんと生きてるだろうね』
「勿論、優秀な上司が片時も離れずにいるから安心して欲しい」
『...中原君か』

ナマエの母親の言葉に首領は僅かに驚いていた。それはそうだ。俺達が面識がある事を首領は知らない。況してや異能特務科であるナマエの母親に名乗ったなんてとてもじゃないが云えるはずもない。

「ああそうだよ、彼は優秀だ。年齢で云えばあの時の君の様だよ」

首領は驚いた事など微塵も感じさせずにそう言葉を繋げる。自分の事を目の前で話されるのは何とも居心地の良いものではない。

「それにしても君が此処に居たのは、そう...もう二十年近く前の事になるのだね」

首領の言葉に気まずさを隠せない俺と呆然としていたナマエの目が首領の懐かしむ様な声に見開かれた。ナマエの母親が此処に居た?俄には信じられない言葉が飛び出し俺達は揃って首領を見詰めていた。

『...だから何だって云うの』
「忘れてしまったのかい?私達は、」
『リンタロウ、』

首領の言葉をナマエの母親が有無を云わせない口調で遮る。それに首領は口角を上げた。

『何が云いたいの』
「否なに、唯ね」

そう云って首領はナマエを見詰めた。その手の人差し指が口元に当てられ、差し詰め静かにしていてと云っている様だった。

「瞳が、私にそっくりだと思ってね」

驚いていたナマエの目が更に見開かれる。それに首領はフッと一つ笑みを零した。何も聞こえない携帯電話に首領はそのまま言葉を続けた。

「君と、私の子だろう?」

ナマエは瞬間的に空いている手で自分の口元を覆った。声にならない悲鳴の様な音が僅かに俺の耳を掠める。俺は、と云えば理解が追い付いて居なかった。淡々と繰り広げられる会話に着いていけない。

『ナマエの父親は死んだ。あの子にもそう云って育てて来た』
「知っているよ」

報告書で読んだからね、と首領は返って来る言葉が判っていた様だ。

『...はぁ、あんたの事だ。もう調べてるんだろ』

やがて間を空けてそんなため息が聞こえて来た。

「まぁ事が事だからね。既に裏は取らせて貰っているよ」
『何時から気付いてた』
「っ本当なのお母さん!!」
『...ナマエ、其処に居たのね』

肯定された首領の衝撃的な言葉にナマエが我慢の限界を迎え思わず声を上げた。それにナマエの母親が一つ間を置いてそう言葉を発した。

『ああ、残念な事にあんたの父親は其処に居る森鴎外だよ』
「う、そ...」

驚愕の事実にナマエは放心状態でその場に力無く座り込んだ。俺はそんなナマエの名を一つ呼び、並んでしゃがみ込んで首領を見上げた。ナマエの敵意を持つ相手を見詰める瞳、その底冷えする様な眼光に見覚えがあった。如何して気付かなかったんだ。その相手はこんなにも近くに居たのに。

「先程の質問だがね、ナマエ君が居た孤児院からの垂れ込みを見て直ぐに君の子だと判った」

若い時の君そっくりだったからね、と首領は笑う。そしてナマエの瞳を直接見て年齢的にももしやと思った。調べるのは造作もない。毛髪一つでDNA鑑定何てものは直ぐに出来る。

そしてナマエの母親は二十年以上前に潜入捜査官として此処、ポートマフィアに居た事を首領は告げた。まだ首領が医師で先代がポートマフィアを束ねていた時代だ。その時二人はそう云う仲になり身篭ったナマエの母親は首領に何も告げずにマフィアを出た。

数年前別の捜査官が潜入していたのは知っていた。其奴は宛らナマエの母親の後釜だったと云う事実にも俺は驚きっぱなしだった。だが妙に納得もしていた。謂わばナマエは血統書付きの異能力者。内務省の異能特務科エージェント、そして非合法組織ポートマフィアの首領の子。それだけでも震え上がる位の威力がある。

観察力、順応性、度胸、敵に対する冷徹さ、そして異能。一般人として育ったにしては非凡過ぎる其れ等すら有無を云わずとして納得してしまった。

『私も思い知らされたよ、ポートマフィアに入ったと訊いた時はね』
「実に最適解だろう」

流石私の子だ、と二人は俺達の存在を忘れたかの様に話しに花を咲かせている。まぁ愉しそうなのは首領だけだが。

『何が最適解だ。ここまで誰が育てたと思ってるの』
「それは君の独断行動故の結果だ。その点に於いては私には如何しようも出来なかった」

首領の言葉に携帯電話の向こうから舌打ちが聞こえた。

「だが君がそうした理由も判っている。マフィアの人間との子だなんて受け入れられる訳が無い」

ナマエの母親は政府の人間だ。当時には途轍もない葛藤と苦難があった事だろう。だが良く一人で産み育てたなと思う。オマケに子供は異能力者。気の休まる時なんて無かったのかも知れない。

「だがだからこそ君に感謝をしているよ、ありがとう」
『...勘違いするな、あんたの為じゃない』
「そうだろう、だけれどね」

首領はそう云ってしゃがみ込んだナマエへと視線を合わせて微笑んだ。

「これからは少し位父親らしい事をさせて欲しい」

その瞳は見た事がない程優しく色付いていた。慈悲む様な、将又過去のナマエの母親の影をナマエを通して見ている様な、そんな瞳だった。

「お願い出来るかな」
『...勝手にしな』

少し間を置いて聞こえた言葉に首領は「ありがとう」と返し別れの挨拶をして電話を切った。

「驚かせてしまったね」

俺達を見てそう云う首領に俺は一言も話さないナマエを見る。まだ整理は付いていない上に突然現れた父親と云う存在に戸惑っている様に見えた。

当然だ。自分に向けられた悪だと思っていた瞳が偏に父親としてのモノだったと知ったのだから。

「...その、すいません」

やっと出て来た言葉はやたらと他人行儀な言葉だった。そしてその謝罪は凡てを引っ括めてのモノだと理解する。だがそんなしゃがみ込んだままのナマエに首領は手を差し出した。ナマエがその手を辿って首領を見ればその口元は笑っている。それは宛ら「気にするな」とでも云っている様だった。

それにナマエは照れ臭そうに視線を逸らしながらもその手を取った。そして引き上げられる様に立ち上がり俺も続く様に立ち上がった。

「謝る必要は無いよ。寧ろ君が私を疑えば疑う程私達の子だと実感して嬉しくて仕方なかったんだ」

人の遺伝と云うのは実に興味深いね、と云う首領にナマエは「そうですかね」とボソッ言葉を返した。

「そうだ!試しに呼んで欲しいな、パパって」
「ぱ!?」

首領の言葉にナマエは仰け反って声を上げた。そんなナマエに首領はニコニコとしながら「さぁ」と促す。

「徐々に受け入れてくれればいい。だけど一回!一回だけ呼んで!」

お願いー!と懇願する首領にナマエは引いている。それは何時もエリス嬢を追い回す首領の顔その物で、まぁ致し方がないと思う。

「...お、父さん」

首領の要望とは違うが、照れながら云ったナマエの言葉はそれなりの威力があった様で、首領は固まってしまった。

「首領?」

顔を手で覆った首領をナマエが首を傾げて呼べば首領はゆっくりと顔を上げた。

「うん、良いものだね」

そう云って笑った。

「良し、お父さんが好きな物を買って上げるよ!」
「え!?お父さん大好き!」
「本当!?うんうん!じゃあ今から行こう!直ぐに行こう!」

本当、ナマエの順応性には脱帽する。先程まで戸惑って居た彼女は何処へ。目を輝かせるナマエとそれに浮かれる首領に俺はこっそりため息を吐いた。

「待って、じゃあエリス嬢は私の妹!?」
「ナマエがお姉ちゃん?」

ナマエの言葉に部屋で自由奔放に遊んでいたエリス嬢が駆け寄って来た。

「私可愛い妹が欲しかったの!」
「仕方ないから妹になってあげる」

ふふ、と笑うエリス嬢にナマエの表情は見る見る内に明るくなっていく。

「ああ、何て素晴らしい光景だろうね中也君」
「...そうですね」

ナマエとエリス嬢の戯れに首領が俺へと声を掛けた。俺は人類最強、又はカオスとも云える家族構成にどうした物かと思う。

と云うかちょっと待て。俺はナマエと恋仲だ。つまり俺達が仮に結婚すればこの隣に居る人物が義父になる。俺からしたらナマエと首領が血縁関係だった事並の衝撃的な事実に眩暈さえした。そんな俺の肩にポンッと首領の手の平が乗り、俺は嫌な予感を拭えないまま首領を見上げた。

「...娘を宜しく頼むよ」

だが掛かられた言葉はそれと正反対のモノで、俺は僅かにホッする。それと同時に途轍もないプレッシャーを与えられた気分だった。

「承知しました」
「厭だな中也くん、いずれ家族になるだろうに」
「なっ、...否、そうですね」

首領にはお見通しなんだ。俺達の心の変化までもが。本当に此処の親子は恐ろしい。俺は新たな不安を抱えざる得なかった。

「さぁ!皆で街に繰り出そーう!」
「買い物ー!」
「ナマエ!私とも手を繋いで!」

愉しそうな三人に思わずため息が出た。それは詰まり俺も強制参加な訳で、改めてある意味大変な事になったと思わずには居られない。だが、

「中也、行こう!」

ナマエが心底嬉しそうに笑うから、それでもいいかと思ってしまうあたり重症だ。

矢張り今日は俺達に取って新たな一歩、否、二歩も三歩も前へと踏み出した日になったのだった。