こんな風に此処から月を眺めたのは何度目だろうか。僅かに開いたカーテンの隙間から見えた月はあの時と同じモノの筈なのに、其れはまるで私を嘲笑うかの様に見えて、心境一つでこんなにも別のモノに成ってしまうものかと思う。

 俯けば自分の髪が流れて視界には隣で眠る彼の顔が映る。私の手を握った掌に胸がギュッと締め付けられて、私はその痛みに耐える様に目を伏せた。



episode 20...Moon smile



 あの後報告を終えあれだけ「今日は肉だ」と豪語していた彼が連れて行ってくれたのは横浜でも有名な和食料理店だった。

 旅館宛らの個室に通され「特別だからな」何て云って私からしたら見ているだけでお腹いっぱいになってしまいそうな値段の書かれたメニューを中也は私の頭へ乗せた。

 そんな中也に出来るだけ明るく振舞ってこれ見よがしに食べたいモノを片っ端から頼んで食べた。残念ながら「美味しい」と云って食べた料理の味は思い出せない。

 出来る事なら昨日の私に食べさせて上げたかった。そうすればその高級感に舌鼓を打てただろうに。そんな事を考えて再び月を見上げた。

 思い出すのは私に口付けをした中也の元相棒だと云う太宰治と云う人物。何故彼があんな事をしたのか冷静になった今でも判らない。

 否、した理由は判ってる。私が泣きそうだったから。だが私が問いたいのは其処ではない。何故私の涙を態々初対面の彼がはぐらかそうとしたのかが疑問だ。

 屹度あの瞳には私の中也への気持ちが手に取る様に判ったのだろう。でもだから何だ。彼には関係の無い事だ。仮にあの場で私が泣き出して中也が慌て様とも、それに私は「離れたくない」何て言葉を紡げずに泣き続けようとも。

 思わず眉間に皺が寄る。私の嫌いな瞳を持つ嫌いな男。だがそんな自分の先入観に疑問を持ち始めていた。何も太宰と云う男だけが原因では無い。

 そう、その瞳を持つ私の嫌いな男二人目、首領だ。同じく掴み所の無いその人物に対しても私は考えを改めなければ成らないのではと思い始めていた。

 其れは先日首領に呼ばれて最上階の首領の部屋へと云った時にされた話しがある。

「無法地帯と化した孤児院をリストアップして置いたよ」

 首領はそう云って私に一つの資料を手渡した。其処には表向きは政府の養護施設だが矢張りポートマフィアと繋がりのある幾つかの施設名が書かれていた。

 其れを持つ手に思わず力の入った私に「気が向いたら行くといい」と首領は優しいとも取れる笑顔で笑った。

 それに驚いたのは云うまでも無くて、でも素直にその笑みを受け取る事の出来ない上に再びあんな事が起きたらと思うと直ぐに行くなんて事は云えずに私は礼だけを云って頭を下げそんな感情を誤魔化した。

 判らない。二人を信用しても良いものか。まだ応えは出ない。−−それに、そう思って身体を中也へと傾けた。

『ようやく離れられる』

 私の中の問題はそれだけでは無い。そう平然と云った彼のこの唇が少し恨めしい。

「離れたら、さ」

 彼の横顔に掛かった癖のある髪を耳に掛けて私は小さく口を開いた。

「家、探さなきゃ。屹度任務も一緒には行けなくなっちゃうし」

 この数カ月、片時も離れなかった中也が一瞬にして離れて行く。それを貴方は判ってるいるのだろうか。

「ご飯を一瞬に食べるのも、偶にあんたが食べさせてくれる事も無くなる」

 それだけじゃ無い。くだらない話しをしながら入るお風呂も、仕事帰りに貴方の肩で眠る事も、そして二人の朝の珈琲の時間も無くなる。元の生活、と云う訳では無いが私達は本来あるべき姿に戻る。

 そう思えばグッと目頭が熱くなった。戻るだけだ。あの子達の様に失う訳では無い。そんな事は判っている。だけど思わず握った手に力が入った。例え貴方がどんなに私と離れたがろうとも、私は

「私は、中也と離れたくないよ...っ」

 一粒の涙が彼の頬に堕ちて留まった。判ってる。そんな事我が儘なんだって事も、離れた方が良いに決まってる事も。だけど云わずには居られなかった。

 あの時泣いた理由を云いたく無いのに貴方に知っていて欲しいなんて莫迦げてる。

 なのに涙が出るのは屹度、恋という名の病の所為だ。私はそんな言葉に溺れる厨二病患者の様に脳内で責任転嫁を行った。

「...莫迦だな、手前は」

 ギュッと目を閉じた私の耳に聞こえた呆れた様な声にハッと目を開く。すると其処には頭を掻きながらゆっくりと起き上がる中也が居た。

「っ何時から起きて、」
「最初から」

 中也のそんな言葉に驚いて、凡て聞かれてしまっていた事に俯いた。「性格悪っ」そう云って布団をギュッと握り締めた。

 そんな私に中也は溜め息を吐く。頭上に落ちて来たそれに胸がチクリと痛んだ。矢っ張りこんな想いは彼にとっては迷惑でしか無かった、そう思った。

「本当、莫迦だ」
「っ、何回も云わなくたって判ってるわよ...!」

 同じ言葉を繰り返す中也に思わず声を上げた。そんな事自分が一番判ってる。でも如何しようも無い。そんな自分が厭で嫌いだ。異能を持って生まれた事ですらそんな風に思った事なんて無かったのに。

「離れてやるわよ、あんたが望む通り」

 言葉にしたらまた涙が出た。ムカつく。何でこんなに苦しいのか、何でこんなに哀しいのか、それが自分だけの感情な事が死にたくなる程痛くて仕方無い。でもそれは偏に私が中也を

「バカヤロウ」

 三度目の悪態を呟いて中也は私をその腕へと引き寄せた。私は驚いて目を瞬かせる。其処から零れる寸前だった涙が一粒落ちた。

「必要ねぇんだよ」

 何時も思うが彼には言葉が足りない。そんな言葉を云われたら勘違いしてしまう。その優しい声に期待してしまう。でも屹度彼のその言葉の本質は違うのだろう、なんて思ってまた胸が痛んだ。

「云われなくたって判ってるわよ...っ」

 語尾の震えた私に中也は私の肩を掴んで距離を取り私の顔を見た。私もそんな中也を控えめ目に見つめる。睨み付ける様に見ていたからかその表情には僅かに驚きが滲んでいた。

「あんたにとって私が必要ない事くらい知ってるわよ、莫迦」

 自分で云って哀しくなった。こんなに共にしたって、否、共にしたからこそ彼に私の存在価値なんてないのかも知れない。

 そんな私に中也は盛大な溜め息を吐く。くそう、本当にムカつく奴。今すぐにでも彼の望み通り離れてやりたい。虚像の強がりを心で呟いて視線を逸らした。

「ナマエ、」

 彼が私の名前を呼ぶ。だけど私は眉間に皺を寄せて何を見るでも無く部屋の隅を睨み付けていた。それに中也がもう一度私の名を呼ぶ。私は中也を見ないし返事もしない。

 "気の強い女"例え泣いてしまったとしてもそんな私が中也を見るなと云う。だって彼を見詰めたら屹度、また涙が出てしまうから。

「いい度胸じゃねぇか」
「っい、たたた!」

 痺れを切らした中也が顳かみに青筋を立てて私の頬を抓り自分へと向かせた。余りの強引さに私は思わず伸びた頬の代弁を高速で行う。

「何すんのよ!」
「良いか、一度しか云わねぇからな」

 痛みの原因が心か頬か判らないが、その所為で涙目になった瞳を中也にぶつければやたら真剣な眼差しが私を捉えて思わず口を噤んだ。

「例え手が離れたって此処に居りゃいい。否、居てくれ」

 最後の言葉はまるで縋る様な、祈る様な言葉だった。それに私は思わず目を見開く。

「仕事は、正直どうなるか判らねぇ。だが手前を傍に置ける様に首領に掛け合う」

 唯の構成員をどうにか出来る位の権限はある筈だ、と中也は云う。私はそれを唯呆然と訊いていた。中也の口から発せられた言葉を訊く事は出来ても理解迄は出来なかったからだ。

「俺だって、今更手前と離れるなんざ御免だ」

 今度は中也が視線を逸らした。彼の頬が暗がりでも判る程赤く色付いている。だがその理由を私はまだ知らない。

 そこまで云って中也がチラリと私を見る。だが其処には屹度唯ポカンと豆鉄砲でも喰らった鳩の様な表情の私が居るだけだろう。案の定中也が僅かに顔を歪めた。

「訊いてんのかよ」
「え、ああ...うん」

 急に問われてもそんな曖昧な言葉を返す事しか出来なかった。それに中也は何度目か判らない盛大に溜め息を吐いて項垂れた。私はその理由さえ判らずに露になった彼の後頭部を見つめた。

「俺が離れたい理由はな、」

 そう呟く様に云って中也は顔を上げた。その瞳にどくん、と胸が一つなった。何かを渇望している様な鋭い光を秘めた瞳だったからだ。

「手前を抱きたいからだよ」

 先程まで云われていた言葉の理解も追い付いていないのに、彼は構わず言葉を続けた。だがその完結的且つ直球過ぎる言葉に私の思考は急激に動き出し、理解をし、そして瞬間的に顔に熱が宿った。

「き、」
「き?」

 思わず手で顔を覆って顔を背けた。

「きゃあああああああ!!」
「な!?」

 私は叫んだ。訳が判らなくて判らない侭に叫んで自分でも何故叫んだかなんて判らなくて、そんな戸惑いや混乱が私を埋め尽くした。

「!?」

 恥ずかしさの余り中也から逃げようとベットを降りて立ち上がった。だが繋がれた手を突然引かれて私は呆気なくベットへ、然も中也の腕の中へと落ちて行った。

「...っ」

 中也が私の後頭部に手を回し肩に顔を埋める。私は距離の失くなった事に焦ったのは一瞬で、抱き締められた事に依って彼の体温に包まれ彼の匂いが鼻を掠めた。

 そして何時もより少し速く力強い鼓動が聞えて来て、それ等に冷静さを取り戻した私は目を細めてギュッと中也の服を握り締めた。

「...厭なのかよ」

 抱き締められた腕に力が込められたと思ったら聞こえて来たのはやたら真剣な声だった。そして少し、震えている。私は数秒前の自分の対応に激しく後悔した。こんな弱い彼の声は、出会ってから初めてだった。

「厭じゃ、ないよ」

 そう云うのがやっとだった。だけど私のその言葉に中也の肩の力が僅かに抜けた気がした。だけれど私の心臓は煩いまま、どうにも静まりそうにない。

「ずっと、我慢してんだよ」
「...初耳」

 呟いた私の言葉に中也はフッと笑って「だろうな」と返す。

「云わなくても伝わってるだろうなんて、傲慢だったな」

 後頭部に当てられていた手がゆっくりと降りてその手は代わりに私の頬を撫でた。それに私は顔を上げて中也を見詰めた。恥ずかしさが消えた訳じゃない。だけど今は、彼を見つめていたい気分だった。


「好きだ」


 彼は優しく微笑んでそう云った。

「例え手が離れたって、手前を離す気はねぇよ」

 私は空いてる腕で自分の顔を覆った。又涙が零れて来てしまったから。声を殺して止まれと何度も唱えた。何で泣くんだ。こんなに、嬉しいのに。

「それ、やめろよ」

 必死になってる私の腕を中也は優しく退けた。それに依ってゆっくりと目を開いた私の視界に入った中也は笑っていた。

「俺が居るだろ」

 一瞬迷った。何で、如何して、弱い自分なんて誰も知らない。でも此れが私だ。厭でも思い知った。こんな自分は誰も認めてくれない。望んでもいない。そう思っていた。だから子供達を失った夜、彼が「俺を頼れ」と云われた時だって戸惑った。だけど彼は、そんな私を受け入れてくれた。彼だけは知ってる。知っていて尚、私に手を差し伸べてくれてる。

 私は中也の背中に手を回す様にその胸に飛び込んだ。そうすれば中也は私の首に手を回し肩をギュッと抱いてくれた。

「好き...っ」
「ああ、俺もだ」

 そう云い合って私は泣きながら笑った。中也が私の髪に、額に口付けをして照れ臭くて「くすぐったい」なんて言葉を漏らす。

「行こう、太宰さんの処へ」
「ナマエ」

 顔を上げて云った私の言葉に中也は少し驚いて顔を顰めてから僅かに視線を逸らす。だが直ぐに私へとその真っ直ぐで優しく、力強い瞳が向けられた。

「今度はちゃんと護るから」

 そう云って私の頬を撫でる中也に少し罪悪感が沸いた。だけれどその先の言葉は矢張り彼の唇に依って言葉になる事はなかった。