正直に云おう。私は今とてつもなく忙しい。両手両脚凡てが自分の思い通りにはいかない始末だ。猫の手も借りたいとはこの事だな、とこうなる度に思う。

 ニュース番組にて、お天気お姉さん、と云っても私と幾許も変わらない様な齢のその人が「今日から全国的に梅雨入りでーす」なんて間の抜けた声で云うものだから、朝にやる気と云う文字はない私は更に音もなく肩を落としため息を吐いたのが今朝の話しだ。ふと辛うじて動く首を動かして晴天の空を見上げた。梅雨は何処だろう、と。



episode 1...He is like a quiet storm



「お姉ちゃん!次は俺!」
「私も私も!」

 ふと自分の下から声がして首をそちらに向けた。私の腰よりも低い身長の男の子と女の子だ。男の子はそう云って地団駄を踏み、女の子は両手を目一杯広げている。

「はいはい、じゃあ交代ね」

 そう云って両腕に釣り下がった男の子二人と肩車をしていた女の子をそっと降ろせば、三人からは不満の声が上がった。

「うわ!また怪力女と遊んでる!」
「ありえねー!」

 少し離れた処から小学校中学年程の男の子二人が此方を指さして莫迦にした様にそう声を上げた。私に群がって遊ぶ園児位の年齢の子達と私に対する悪態だ。

「カイトもケントもお姉ちゃんと遊びたいだけなんだよ」

 新たに私の肩へと跨った四歳のユズノはそう云って私の頭をギュッと抱き締めた。それは正に見せ付けるかの様で、表情は見えずとも小悪魔の様な笑みを浮かべている彼女が目に浮かんだ。それにカイトとケントはぐっと押し黙る。自分の倍ほどの男の子達の本心を抉る何とも末恐ろしい四歳児に苦笑いを溢さずには居られなかった。

 此処は横浜の端にある小さな孤児院。院の庭に遊具は無く、年季の入った旧式のサッカーボールがぽつんと転がっている。横を見れば院の本体があり、設立同時は真っ白であったであろうそれは黄ばみ一部は蔓が建物にへばり付き当時の面影なく古びてしまっている。

 私が此処へ来たのはかれこれ三年程前の話しだ。私は此処で「お姉ちゃん」と呼ばれ日々を過ごしている。

「皆、おやすみなさい」

 日も落ち一日が終わる頃、大広間に綺麗に並べられた布団に入った子供達にそう声を掛ける。一応それぞれ寝床は決まっているがそれも今だけだ。少しすれば寝相の悪い者は布団をはみ出し、寝付きの悪い者は年上の子の布団に潜り込む。宛ら大家族の様だ。

 私は年齢的にも母親では無く彼等の齢の離れた姉の様で在りたいと思っていた。親を失くした彼等の、拠り所で在りたいと。

 そんな彼等の眠そうな「おやすみ」を聞き終えて部屋を後にする。どうか夜泣きする子がいません様に、と願いながら。

「はぁー疲れたー」

 院の一番端に位置する自室へと戻った。古い建物とは云え私達の居住区は数年前に増設されたとあって綺麗だ。部屋にはキッチンもあれば風呂もトイレもある。宛らワンルームのアパートの様だ。初めて見た時は子供達の居住区との差に思わず引いたものである。

 疲れを背負ったままベットへと雪崩れ込んだ。先日洗濯したばかりのシーツからお気に入りの柔軟剤の匂いと肌に触れたサラッとした布団は癒しと眠気を私に与えた。このまま寝むってしまいたいと思わずにはいられなかった。

 体力には自信がある。だが子供達の底なしのそれには到底敵う気がしない。正直毎日くたくただ。オマケに安月給と来たから困りモノである。だがこんな事を云うのは少しこそばゆいけれど、其れよりも彼等の笑顔に触れていられる事が何より嬉しかった。何とかはプライスレスとはよく云ったものだ。

 途端、思い出したかの様に自分の腹が鳴った。そう云えばバタバタして自分の夕食をとる時間は無かったな、なんて他人事の様に思って重い上半身を上げた。

「私のご飯、ある訳ないよねー」

 その言葉には自嘲が含まれていた。私は此処の所謂「先生」達から厄介者扱いされていた。子供に甘いだとか体罰は必要だとか小言を云われる事は毎日の様にある。まぁそれに云い返してしまうから悪いのだろうけれど。

「・・買い物行くか」

 私の腹がもう一度鳴いた。随分とお怒りの様なので仕方なくその重い腰を上げる。財布をポケットにしまって鍵を片手に部屋を後にした。

 時刻は夜の九時過ぎ。当然ながら真っ暗で静かな外に少しホッとする。一つ息を吸えば普段とは少し違った空気に「雨が降るのかな」なんて脳が呟いた。早目に帰って来なきゃ、と急かす様に足を前に踏み出そうとして私は気付いた。

 目の前に誰かいる。その影は真っ直ぐこの院の入り口を目指していた。私は咄嗟に右足を下げ身体を横向きにする。私の戦闘態勢だ。警戒して暗がりから現れる其奴を唯ジッと見詰めていた。月が分厚い雲に隠れて性別の判断すら出来ない。

「こんな時間に外出か?」

 私まであと二、三米と云った処で其奴は足を止めた。その声からして男だった。少し小柄なその男は黒い帽子に黒い外套を纏っている。道理で遠目からでは性別すら判断出来ない訳だ。そしてその男の言葉は真にそれを聞きたくて問い掛けた訳でないのは判った。要は唯の挨拶だ。

「こんな時間に来訪か?」

 私は相手の口調を態と真似る様にしてそう云った。だが私は挨拶ではない。真に問い掛けたのだ。私は冷や汗をかいていた。変質者や愉快犯等だったならば撃退は容易だ。男であろうとそれ位の武芸は身に付けてある。

 だが目の前の男はその何方でも無い。身なり、雰囲気、口調。そしてこんな時間の来訪。焦りか恐怖か、私は今までに感じた事のないモノをその男に感じていた。

「ミョウジナマエと云う奴が此処に居るな」

 月明かりが男を照らした。思っていた依りも若い人相と服装とは逆の明るい髪色。そしてその瞳は真っ直ぐに私を見詰めていた。

「其奴に何の用」

 私は目線を逸らさずそう云った。私が警戒しているのを察してか男はそれ以上近付いては来ない。

「勧誘だ」
「勧誘?」
「其奴をうちの組織に引き抜きたい」
「孤児院のボランティアみたいな奴を引き抜くだなんてどんな組織よ」

 ハッと思わずを笑ってそう云った。だが男は表情を変える事はない。強い奴ほど冷静−−それは武芸を嗜む中で学んだモノの一つだった。

「ポートマフィアだ」

 男の言葉に目を見開いた。横浜の裏組織を牛耳る非合法組織ポートマフィア。そこと繋がっている孤児院は少なくないと聞く。何故かなんて簡単だ。異能力者、そう呼ばれる者の多くは親に捨てられ孤児院へと流れ着く。その話しを聞いた時は嫌悪感しか生まれなかった。奴らは孤児院を異能力者発掘場だとでも思っているのか、と。

「手前がミョウジナマエだな」
「なんでそう思う」
「報告書に気の強い女と書かれてたからな」

 "報告書"その言葉に私は一つ舌打ちをした。鋭い視線を背後の孤児院へと向ける。要はこの施設の誰かが私を売り飛ばしたのだ。厄介者の私に出て行って欲しいが為に。

「手前は異能力者だな」

 そう、私は異能力者だ。其れに気付いたのは昼間私の肩に乗っていた小悪魔の様なユズノと同じ四つの時。幸い私は異能力が知られても母に捨てられる事は無かった。「人前で使ってはいけない」母の口癖だった。

 幼かった私はその真意が判らないまま母の言葉に従った。だが物心付いた時に思った。そうして母は私を守ってくれていたのだと。そんな私は異能力について調べた。そこで知った。親に捨てられ孤児院へと流れ着く子供達、そしてその余りにも劣悪な待遇を。

 だから私は孤児院で働く事を決めた。そうするべきだと何故か使命めいたモノを感じた。手の届く僅かな人数だけかも知れない。それでもそんな境遇の子供達がいると知ってしまった以上、見て見ぬ振りは出来なかった。

 此処の人達に私の異能力がバレたのは今から半年程前の事だった。悪さをした子供を執拗に鞭で叩く一人の先生がいた。幾ら口で云っても止める気配は無かった。子供が痛みに気を失い掛けた時、もう我慢出来なかった。腕を掴んだ、それだけでその先生は壁へと叩きつけられ気を失った。母の前以外で異能を使ったのは、これが初めてだった。

 それからは執拗に子供に手を挙げる者は居なくなった。私が本格的に厄介者扱いされ始めたのもその頃からだ。だがそれで良かった。子供は笑顔が増え、私によく懐いてくれた。子供達からは昼間の様に怪力女だと思われている様だが違う。子供五人抱えて平然と立っていられる程の力は流石に無い。あれも異能力をこっそり使っていたのだ。

「・・そうだけど、断ると云ったら?」

 そう問い掛けた後に少しの静寂が二人の間に流れた。風が吹いて私の髪を舞い上がらせる。握った拳にはじっとりと汗が滲んでいた。

「異能力次第では殺せと命じられてる」
「殺さなきゃなんない程のモノをじゃないわよ」
「それは手前が決める事じゃねぇ」

 男がその口角を上げ、目が一瞬にしてギラついた。まるで獲物を狙う獣だ。前屈みになった男に私は咄嗟に横へと駆け出した。背後は直ぐ院の入り口がある。物音で子供達が出て来て巻き添えになるのは避けたかった。

「後ろを気にしたか」

 横目で男を見ればそう云って帽子に手を当てていた。

「!?」

 走っていた私は思わず目を見開いた。先ほどの場所から此方を見ていた男が駆け出したと思ったらもう既に私の真横にいるのだ。帽子に手を当て右脚を振り抜くのが見えた。だが軽い、この程度なら受け止められると私は足を止め両腕でその脚を受け止めた。

「なんだ、唯の女じゃねぇんだな」
「唯の女だよ、殺す価値もないね」

 私の動きと言葉に男はハッと笑った。そして今度は右の拳を振り抜く。それも見えた。だがさっきの脚の疾さから見てもまだ肩慣らしにもなっていないのだろうと思った。

「・・さっさと異能を使えよ」

 散々攻撃を繰り返して男はそう呟いた。

「っ煩いな・・」

 辛うじて攻撃を避け続けている私は肩で息をしながらそう云った。一瞬でも集中力を切らせば痛い思いをするのは目に見えていた。

「・・もうお使いはいいでしょ、さっさと帰って寝なさいよ」
「あァ!?俺を子供扱いするんじゃねぇ!」
「此処にいる小学生も同じ事云うよ」

 はぁ、と思わずため息が出た。そんな私に男は「手前・・!」と青筋を立てた。なんだ、案外子供っぽいんだな、と思ったのも束の間。男は先程とは比べ物になら無い程の速さで私との距離を詰めた。

「!?」

 咄嗟だった。反射的に私は異能力を発動していた。ガードの為に前に差し出した腕に男が触れる瞬間、その間にまるで壁でもあるかの様に男の拳を止める。そして私がその腕を振ればその身体はザザッと音を立てて後ろへと強制的に跳ね飛ばされた。

「・・っようやく使いやがったな」

 跳ね飛ばされた勢いを脚と片手を地面に着け力を入れる事で消し去った男はその体勢のままそう云って笑った。

「・・最悪」

 人に使ったのは二度目だ。咄嗟とは云え母の云い付けを破ってしまい男とは対照的に私は顔を顰めた。

「面白くなって来たじゃねぇか」
「・・本当、最悪」

 口角をこれでもかと上げて笑う男に私は心底そう思って同じ言葉を繰り返した。