その日は珍しく朝から首領に呼ばれた。隣のナマエは厭そうな顔を浮かべてエレベーターの壁に背を預けている。彼女は首領を良く思っていない。今のこの表情を見れば誰でも判る程にそれは明らさまで露骨だ。

 何故そこまで毛嫌いするのか、一度問い掛けた事がある。その時ナマエはただ一言「真意が読めるから」と云った。彼女の云う"真意"とは何なのか。

 ふと初めてナマエの"報告書"を見た時の首領の怪しい笑みを思い出した。その時は特段何かを思った訳では無いが、何故か今になって鮮明に思い出された。だが残念ながらその理由の応えを俺は持ち合わせていない。



episode 12...Abysmal discomfort



「失礼します」

 ポートマフィア本部ビル最上階の執務室を前にして俺は一言そう声を掛けた。中から「入りなさい」と落ち着いた声が聞こえてナマエと二人部屋へと足を踏み入れる。

 広い部屋の最奥。椅子ではなくその机に手を付いてポートマフィアの首領−−森鴎外は立ったまま俺達を迎えた。

「お呼びでしょうか」

 俺がそう云えば首領は机に寄り掛かる様に腰を落とし、口角を上げた。

「おはよう。中也君、ナマエ君。今日もいい天気だね」

 私には少し眩しい位だ、と何気無い朝の挨拶に俺もそしてナマエも「おはようございます」と頭を下げる。

「朝早く呼び出して済まないね」
「いえ」
「今日はナマエ君に用があって呼び出したんだよ」

 首領の言葉にナマエを見る。そこにはいつの日かあの孤児院の院長を見る瞳と同じ目をしたナマエがいた。ナマエは唯黙ったまま首領を見詰め、首領の言葉を待っていた。それを理解した首領はフッと笑って話しを進めた。

「昨日夜遅くに君宛てに一本の電話が入ったそうだ」
「電話?」

 口を閉ざしたナマエの代わりに俺が首領の言葉を復唱する様に問い掛けた。首領はそれに一つ頷いてピンと伸ばした指を顳かみに当て眉を下げる。宛ら困ったと云わんばかりの表情だ。

「それが下級構成員が出たからか判らないが不可解な電話だった様でね。頻りに君を出せ、と怒鳴り散らしたらしいんだよ」

 そして首領は射る様な瞳をナマエに向ける。瞬間、握った手に僅かに力が入った。

「何か、心辺りはあるかね」
「・・いえ、ありません」
「そうか、なら悪戯だったのかな」

 ナマエの言葉に首領は特に深く追求せずにそう云って笑った。そして「下がって良いよ」との首領の言葉に俺達は会釈をして背後の扉に手を掛ける。

「だがナマエ君、」

 扉が数センチ開いた時に背中にそう呼び止める声が掛かり俺達は足を止めて振り返った。

「君が此処に居る事を知っている人間はそう多くは無いはずだ」

 用心しなさい、と首領は忠告とも取れる言葉を発する。それにナマエは「判りました」とだけ告げて再び頭を下げ、俺達は今度こそ部屋を後にした。

「・・・」

 エレベーターを待つ最中、俺はチラリと横のナマエを見る。その顔にはくっきりと眉間にシワが刻まれ、何時もは無駄に声を漏らす口は固く結ばれている。ジッと下方を見詰め、何かを考えている様だ。

「・・多分」

 ふとナマエが口を開く。その声を俺は何も云わずに黙って聞いていた。エレベーターの現在地を記す光が七、八、九、とゆっくり点滅していく。まるでカウントダウンの様に規則正しく、確実に何かが終わろうとしている様な漠然とした何かがその光に合わせて足元から這って来る気配がした。

「院長だと思う」
「・・矢っ張りか」

 ナマエの言葉に俺はそうため息を吐く。首領が云った通りナマエはまだマフィアに入って日が浅い。外部の人間にそれが知れ渡る程の功績を挙げている訳でも高い地位でもない。俺もそしてナマエも、思い当たる節はそこしか無かった。

「如何して首領に云わなかった」

 俺の問いにナマエはまた口を結ぶ。信用も信頼もしていないのは目に見えている。だが虚偽の発言は矢張り幹部として見逃す訳にはいかなかった。例えそれが個人的なモノだったとしても、だ。ナマエもそれが判っているのだろう。だから口を閉ざしたのだ。

「厭な、予感がする」

 俺の問いには応えずにナマエは唯そう云って俯いた。同時にエレベーターの到着を知らせる高い音が一つ鳴って、俺達は黙ったままそこへ乗り込んだ。モヤモヤとした黒い何かが、俺達の耳元で警告を鳴らしていた。





 その日、俺達の会話は朝本部に着くまでに一日にする何時ものどうでも良い話しを終えていた。あのエレベーターを待つ間の会話を最後にお互い口を開かない。ナマエはずっと顔を顰めたままだった。俺も屹度そんな顔をしていたのだろう。俺達に話し掛けてくる奴は誰一人居なかった。

 だが組織にいる以上、俺が幹部である以上ナマエだけを特別視する訳にはいかない。否、俺はただ単に知りたかったのかも知れない。聖母に潜む陰鬱な感情を。

「・・ごめん」

 夜、帰宅して部屋へと続く短い廊下にてナマエがようやく口を開いた。ナマエより半歩先を歩いていた俺は立ち止まり振り返る。そこには気まずそうに少し俯きながら視線を横に流すナマエがいた。

「私は、首領が怖いんだと思う」

 ぽつりぽつりと言葉を選びながらゆっくりとそう呟いていく。静かな廊下にナマエの言葉達が音もなく溶けていく様だった。

「あの瞳に見られると口にして無い事も全て見透かされる様な気になる」

 だから気を張る。感情を少しでも殺して悟られない様にする。咄嗟の自己防衛だ。判らなくもない。それ程に首領の威厳はそれこそ髪の毛一本からでも滲み出ている。それに恐れを抱くのは当然の事。あの人を目の前に平然と出来るのは唯の莫迦か、唯の愚者だ。所謂早々に死ぬ奴に限る。

「・・首領は何れ私を拘束して閉じ込める」
「何だと?」

 溜め込んで吐き出した様なナマエの言葉に俺は顔を顰めた。何を根拠にそんな言葉が出るのか、俺には皆目検討も付かなかった。何を云ってやがると笑い飛ばしてやろうかとも思った。その位突拍子もない言葉だ。だが俺はそれが出来なかった。出来る雰囲気ではなかった。

「中也、」

 そしてゆっくりとナマエの瞳が俺を捉える。その瞳は見た事も無いくらい強く、そして暗く僅かに滲んでいた。

「その時は、中也が私を殺して」

 俺は言葉も出ない程驚き、瞳を大きく開いた。冗談だろ?唯々意味が判らなかった。だがナマエの瞳、声、雰囲気全てが戯れ言でない事を俺に訴える。ピリピリと肌につく緊迫感。正に今この場で殺せとさえ云われている様な気分だった。

「あんたなら簡単でしょ」

 そう云ってナマエは無理矢理笑う。莫迦ヤロウ、この世の何処に惚れた女を簡単に殺せる奴が居るんだよ。第一仮に首領の指示で拘束された奴を勝手に殺したとなれば俺は組織に居られなくなるのは確実だ。俺に何のメリットがあるんだ。それが判らない莫迦じゃないだろ手前は。

 俺はナマエの顎に手を置いた。真っ直ぐな瞳が俺を見つめて矢張りその全てが嘘で無いのだと知る。

「こんな事頼めるの、あんたしか居ないから」
「・・本当、勝手な女だな手前は」

 俺の言葉にナマエは「私の専売特許だ」と云う。煩え、そんなモンに付き合って遣る義理なんてねぇんだよ。黙らせてやる。その勝手さも気の強さも、その奥の暗い部分も、全て壊してやる。

「中也、」
「もういい」

 ゆっくりと顔を近付けた。ナマエが目を細めるのが見えた。お互いが閉じた唇を僅かに開ける。ナマエの息遣いを感じた。その長い睫毛が僅かに瞳と共に揺れて、俺達は目を閉じた。

「「 ! 」」

 唇が触れる直前、俺達は紙一枚程度しか入らない隙間を間に開けたままその動きを止めた。

「・・チッ、誰だよ」

 着信だ。俺のポケットから今この時には騒音とさえ感じる程の音が鳴り響く。それに思わず反応して、蔑ろに出来ないの自分に舌打ちをする。

 俺はナマエから顔を離しポケットを漁る。少し乱暴にそれを開き釦を押して俺は携帯を耳に当てた。目の前のナマエは口元を押さえ真っ赤になった顔を背けている。心の中で荒々しく舌打ちが漏れた。

「はい、中原」
『やぁ中也君、こんな時間に済まないね』
「・・いえ」

 電話の相手は首領だった。その声の主に苛立ちは瞬時に消えた。だが逆に複雑な思いが生まれた。

『首領は何れ私を拘束して閉じ込める』

 先程のナマエの言葉が浮かんだ。一体どう云う事だよ。訳の判らないまま首領の言葉を待つ。応えの見えない問題の山に俺の苛立ちは更に積もった。

『そこにナマエ君もいるね?』
「ナマエですか?はい居ます」

 俺の言葉にナマエが顔を上げる。二人して顔を見合わせ、俺は首領の言葉を待った。

『実は−−』

 俺は電話を終えると今し方帰って来たばかりの家を飛び出す様に後にした。

「ちょっと中也!何があったのよ!」

 車に乗り込んでナマエが声を上げる。自分の名前が出て来た電話のやり取り、俺の焦り方、そして昨晩本部に掛かって来たと云うナマエ宛の電話。『厭な予感がする』それは最悪の形でナマエに襲い掛かっていた。

「・・孤児院が襲われた」
「っ!」

 ナマエは一瞬心臓が止まったかと思う様な声になら無い悲鳴を上げて口元を押さえた。チラリと横目で見れば胸に拳を当て肩で息をし、呼吸を整えている様だった。

「・・それ、で」

 あくまでも冷静にナマエは問い掛ける。だがまるで一瞬にして呼吸の仕方を忘れてしまったかの様に息苦しそうにナマエは云う。

「原因もどこの組織かも何も判らねぇ、まだ其奴らがその場にいる可能性も有る」
「・・そう」

 やたら落ち着いた、低い声だった。その細い身体の至る所から殺気が漏れ、俺は制限速度を優に超えた車を運転させながらナマエを見た。

 そこには何処かで見覚えのある温度も慈悲もない悪魔の様な瞳が怪しく光っていた。