「ああクソ!やり辛え」
「袖どこ!?あれええ!?」

 お互い背を向けて着替える。次々と出て来る言葉は独り言で、苛立ちと焦りとが厭でも滲む。何せもう家を出なければ成らない時間だからだ。

「手前が寝坊なんざするから!」
「あんただって寝てたでしょ!」

 半ば八つ当たりの様に声を荒げてしまう。おかげで日課になりつつある朝のコーヒーはお預けだ。もう、朝から最悪過ぎる。



episode 10...Warmth in the slumber



「ああああー!もう!」

 私は行方不明の袖に我慢の限界を迎えた。如何してそこにある筈のモノがないんだ。お互い背を向けなきゃと意識すればする程動きの範囲が狭まる上に片手での作業は難航を極めた。

「中也!」
「あァ!?なんだ、ってえ!?」

 私がそう苛立ち気に中也を呼べば同じ様な声の返事が返って来て中也が私を向く。そして驚いた様に目を見開いて忽ち顔を赤くした。

「ば!て、手前!服を着てから呼べ!」

 私は辛うじて履いたズボンとシャツの袖を片方通しただけの姿だ。上はほぼ下着だけに近い。そんな私の姿に中也は勢い良く私に背を向ける。だがもうそんな事を云ってられない。苛々し過ぎて羞恥心は消えていた。

「手伝って!」
「はぁ!?」

 私の提案に中也は驚きの声を上げて此方を見た。でも矢張り目線のやり場に困る様で顔を背けたり横目で私を見たりしている。斯く云う中也もシャツとベストを羽織ったは良いもののボタンは全開。如何やら愛用のチョーカーを止めるのに手間取っていた様だ。

「・・仕方ねぇ」

 中也は何かと格闘する様に間を空けて、それでも諦めた様にそう呟いて私の背中で絡まったシャツを解いて私の晒された肩へとそれを掛けた。背中と肩に僅かに中也のその細い指が触れた。私達の距離は数センチ。中也の真っ赤な顔と引き締まった身体がよく見えた。

「ありがと」
「・・ああ」

 ようやくそこに袖を通してそう云う。やっと着れた、とスッキリしたが今度は釦だ。着替えにはまだまだ時間を要するだろう。

「手伝おうか?」

 未だチョーカーと格闘している中也にそう云えば、中也は少し躊躇った後に「頼む」と呟いた。首元で中也が金具を抑え、私が髪を掬い上げる様に首に沿って手を当てチョーカーのベルトを前へと持って来る。僅かに中也の顔が歪んだ気がするが最早恥ずかしいなんて云っている時間は無い。

「はい、出来た」
「・・ああ、ありがとな」

 視線を逸らす中也に「はいはい」と応えて釦を止めて行く。すんなり終わったそれに最初から変な気を遣わずにこうしておけば良かった、なんて思った。最後に黒塗りのジャケットを肩に掛け準備完了だ。

「まだ照れてんの?」
「煩え!照れてねぇよ!」

 同じ様に着替えを終えた中也は私と視線を合わせない様にしながらムキになって声を上げる。そんな中也に思わず笑ってしまった。

「意外と初心うぶなのね」
「・・煩えよ」

 フンッと外方向く中也は少し可愛かった。それから私は中也の行動を観察する事にした。何時までこうしているか判らないが現に離れる気配の無い私の右手と中也の左手の最も身近な解決策としてそれが一番有効だと思ったのだ。

 最初こそ戸惑いを隠せなかった中也だが、私がこの難易な状況を上手くやり過ごす為に如何にかしようとしているのを察したのか、彼も私が困れば手を貸してくれた。

「はいどうぞ」
「悪いな」

 そんな会話を一日に何度もした。逆も然り。こうして手を繋いでいただけだった私達の距離は自然と更に近くになっていった。それは身体的な意味では無く、心の様な気がする。相手が自分の一部の様な錯覚を起こすのに時間は掛からなかった。





「あー・・疲れた」

 マフィアに入社して一ヶ月が過ぎ様としていた帰りの車にて、私は車の窓の縁ではなく中也の肩に頭を乗せた。理由は簡単だ。窓より此方の方が近い。しかも窓に頭を当てとすると厭でも腕が伸びる。それに落ち着かないと自分の腕を引き寄せれば中也の腕が伸びる。そうなると運転がし辛いらしい。何とも面倒極まりない。

 だからこの形が一番楽なのだ。特に深い意味は無い・・と思う。心臓が煩かったのは初日からあの着替えを手伝ってもらうまでの一週間だけ。最早彼は私の中で身内の様な存在になりつつあった。・・落ち着く。近い距離から彼の匂いと温もりを感じそう思って目を閉じる。

「寝るなよ」
「判ってるよー」

 私の言葉に「如何だか」と呆れ笑いを零す中也。そんな彼の声すら私の眠りを誘う。如何やら彼は私が思っている以上に私を理解して来ている様だ。

 私はその繋がれた手をいい事に彼に甘えて居るのだろうか。そんな行動さえ日常となり些細な事になっていた。中也もそんな私を拒絶も咎めもしない。矢張り私はそんな彼に甘えて居るのだろう。

 人の温もりがこんなに心地良い事を彼は思い出させてくれる。母は仕事が忙しい人だった。一人で留守番なんて事は其れこそ日常的だったし、かと云って特段寂しいと思わなかった。

 母は私の為に働き、そして何より私を捨てずにそうしてくれているのだから。それに男勝りな母の性格を少し引き継いでいるからかも知れない。

「着いたぞ」
「・・あい」

 もう少しで意識を手放す処で中也のそんな声が聞こえて顔を上げる。「ふわあ」と思わず大きな欠伸が出た。

 連日異能力の訓練続きだ。その成果もあって銃弾を跳ね返す事は造作もなくなったし、武術と異能を兼ね合わせる特訓も大分様になって来た。「未だ未だ弱えな」と私の師匠である隣の彼は少し手厳しいが日に日に成長する自分を垣間見れる為やり甲斐はあった。

「あ、此れ美味しい」

 今日任務の帰りに立ち寄った葡萄酒専門の店で酒と云えば甘いカクテルしか飲まない私でも飲めると中也が豪語した一本の葡萄酒。風呂と食事を終え部屋着でソファーで寛ぎ飲む。此れも日課になりつつある一つの事だ。

「葡萄酒が美味しいと思ったのなんて初めて」
「そりゃ良かったな」

 私がそう云ってグラスに口を付ければ中也はどうだと云わんばかりに得意げに口角を上げている。そんな彼に私も笑う。随分と嬉しそうだな、と。

「ふあ・・でももう眠い」
「はぁ?飲み始めたばっかだろ!」

 グラスの葡萄酒を飲み干してそう云えば中也からは不満気な声が返って来た。如何やらまだ飲み足りないらしい。既に顔が赤い癖に。

「えー、じゃあいいよ」
「!」

 コトン、と目の前の硝子のテーブルにグラスを置いて横になる。ソファーの上で器用に身体を縮め、目を閉じる。私の頭の下には中也の膝。そして額には彼の温もりがぶつかった。

「手前、真逆此処で寝る気か?」
「うーん、だってまだ飲むんでしょ」

 寝る時適当に運んで、と目を閉じた侭そう云えば小さなため息が聞こえて来た。だがそれも掻き消すかの様に中也が私の髪に触れる。顔に掛かったそれを耳に掛けて後ろに流した。そんな彼の手が心地良くてキュッと繋がれた手を握った。

 一瞬ピクッと中也の身体が揺れたが、直ぐにその手を握り返す様に力が入った。私はそれに一つ微笑んでそのまま眠りに堕ちていった。

 その日見た夢は、随分と穏やかなモノだった。