「−−・・っ」

ナマエは朝の光に目を覚ます。何だか身体が重くて気だるい。

(お風呂、)

そう思って目を擦りながらいつもの様に布団から抜け出して立ち上がった。

「!?」

途端、崩れる様に座り込んだ。余りの事に一瞬で目が覚めた。すると背後からクスクスと笑う声が聞こえて、ハッとして振り返った。

「おはよ、ナマエ」
「!」

その布団から顔を出す総司を見て一瞬にして昨晩の事が頭を過ぎった。

「お風呂にでも行く気だったの?」

そう言って総司は起き上がる。なぜ分かったのか、なんて疑問よりも下着一枚姿の彼に思わず目を逸らす。

「その格好なら、お風呂以外ないよね」
「!?」

総司の言葉で初めて自分が何も着ていない事に気付いた。咄嗟に布団を引っ張り身体を隠した。

「一緒に入る?」
「なっ!」
「って言いたいところだけど」

流石に止めておこうかな、とナマエの姿を見て総司は笑う。

「・・っ当たり前だ」

そう言って視線を逸らすナマエに総司はやっぱり笑った。

「・・でも」
「!」

ふと総司の手が逸らしたナマエの視線を戻す。

「キスならいいよね」
「・・っ」

そしてナマエが言葉を発する前に、その唇は重なった。





「・・はぁ」

湯船に浸かりながらナマエは悩ましげなため息を吐いた。斯く言う彼も自分の家にお風呂に入りに行った。

何とか歩ける程度にはなった自分の身体を壁伝いに手を付きながらここまで来た。

『好きだよ』

彼の昨日の言葉が浮かんでそれを言われたのは初めてではないのに恥ずかしさに思わずその姿を湯船の中に消した。

「ナマエ、まだ入ってるの?」
「!」

ふと風呂場を出たすぐの場所にある洗面台から声がして、ザバンっと音を立ててその身を晒した。

家が隣、と言うのは時に不便だ。こうして熱を冷ます時間すらないのだから。

「もう、出るから」

ナマエがそう言えば総司はそう、と短く返事をしてその声は聞こえなくなった。それに幾らかホッとして、半分出かけた身体を沈める。

正直、昨日の彼は初めて彼を、いや人を怖いと感じさせた。あの冷たい瞳を思い出せば静かに手が震えた。

(・・でも)

そう思って自分の膝を抱えた。なぜ自分でもあんな事をしたのか分からない。完全に恐怖に支配されてしまった身体でなぜ彼を抱き留めたのか。

ただ一つだけ感じたのは、行かせれば彼は本当に私と縁を切るだろう、と言う絶望だった。

自分が受けた恐怖よりも、まだ見ぬ絶望の方がよっぽど怖かった。だから必死に彼に抱き付いた。引き止める言葉もこの気持ちの名前も分からない。選択肢はそれしかなかった。

「・・・」

風呂を出ればソファーで腕を組みながら瞳を閉じる総司の姿があった。ナマエはそんな長い時間考え事をしてしまったのか、と思う。

そう言えば以前平助が言っていた。彼が遅刻しないなんて珍しい、と。その言葉からして彼は朝が余り得意ではないのだろう。

それでも毎朝私が出る時間をわざわざ見計らって来る。今更ながらそんな事を思って小さく胸が鳴った。

「・・こんな顔をしてるのか」

寝顔を見た事がなかった訳じゃない。でも彼の顔自体をこんな風にじっくりと見た事がなかった。いつも衝動的で唐突な彼にそんな余裕はなかった。

長い睫毛に切れ長の瞳。それに掛かる茶色い髪の毛。見れば見る程不思議な感じがした。ほぼ毎日見てこんな距離よりもっと近付いた事もあると言うのに。

思えば自分は目を逸らしてばかりだ、と思わず苦笑いを零した。

「僕の顔がそんなに見たいの」
「!」

パチッとその瞳が開いてナマエは思わず覗き込んでいた身体を起こした。

「だったら、もっと近くで見てよ」
「・・っ」

こんな時彼の反射神経とかそう言ったものに勝てた試しがない。やっぱりナマエが身体を起こす前にその腕を引かれて総司の膝に跨がる形に座ったナマエは顔を歪めた。

「ほら、」
「もう、いい・・!」

そう言う総司の顔は正に悪戯っ子のそれで、腰を両腕で固定され腕を伸ばして離れようともビクともしない。

「ふーん、残念」

そう言って総司はナマエの頬を包んだ。

「なら、僕に君の顔を見せて」
「・・っいつも見てるだろ」
「足りないんだから仕方ないでしょ」

そんな総司の言葉にナマエはやっぱり視線を逸らしてしまった。

その行動によってナマエの右の首筋が総司の目に入った。そこには昨日後ろから覆い被さった時に付けた痕がクッキリと残っていた。

「!」

途端引き寄せられて、その距離が失くなった。

「・・っせめて、服を」

着させてくれ、なんて言葉は彼には聞こえていない様でバスタオル一枚のナマエの胸元に総司は黙ったまま顔を埋めた。

そんな総司に疑問を持ったが見下ろしている所為か、その大きな身体がやけに小さく感じてその頭をギュッと抱き締めた。

「いい匂いがする」

ふと総司がそのままそう言ってクスクスと笑う。

「シャンプーの匂いだね」

顔を上げてそう微笑む総司にまたナマエの胸が鳴った。

「・・ん、」

そのままゆっくりと口付けをして、目を閉じた。

「君に見下ろされるのも悪くないね」
「なにそれ・・」

唇を離して総司はそう言って笑う。ナマエにはその心理は理解出来ない。そんなナマエの濡れた髪を左側に一つに流して総司は開けた右の首筋に唇を寄せた。

「っ、」

まるで昨日無理矢理付けた痕を消す様にその上から痕を残す。そんな行為にナマエの吐息が漏れた。

「!」

ふと総司がナマエのバスタオルに手を掛けて咄嗟にその腕を掴んだ。

「少しだけ」
「・・っ」

そう言って優しく口付けをされたら、もう拒めない。総司の唇が鎖骨から胸へと降りて行ってナマエはグッと漏れそうになる声を飲み込む。

執拗にそこに触れられて、ナマエは思わず総司の髪に顔を埋めた。そこから自分と同じ匂いがしてナマエは思わずギュッと抱き締めた。

それに触発されたかの様に責める唇が激しくなって彼の手がナマエの足を撫でた。

「ぁ、」

その後の刺激にナマエの声が漏れた。上から降って来る甘ったるい声に総司は顔を歪める。

意志とは裏腹にその唇と指は動き続け、その小さな身体に溺れていった。

「はい、出来たよ」

目の前に出されたごく普通の朝食にナマエは目を丸くする。どうやら彼は器用な類いの様だ。

「・・美味しい」
「そう」

彼の手料理を一口含めば、思わずそんな声が出た。悔しくも自分の作るそれより美味い料理に何だか負けた気分だった。

あの後ナマエの身体から力が抜けた事によってそれは終えた。総司は優しく口付けをしてナマエに服を着せていき、朝食は自分が作ると立ち上がった。

そして今に至る訳だが、静かにコーヒーを啜る総司をナマエは食事に手を出しながらそっと盗み見る。

「なーに、」

だがやはり彼に隠れて、とかそう言うのは通用しない。こいつは本当に人間か、なんて非現実な考えが頭に過ぎったがナマエは考えていた事を静かに話し始めた。

「いつから一人暮らししてるの」

いつか斎藤に聞いた言葉が頭を過ぎっていた。幼い頃両親を亡くし、病弱だったと言う彼の話しを。

「君と同じだよ、高校から」

本当はもっと早く出たかったけど、と総司は本音を漏らした。

「お姉さん?」

ナマエのその言葉に総司は僅かに目を見開いた。何せ彼の口からこの類いの話しを彼女にした事はなかったから。

「そうだよ、姉さんと暮らしてた」

でも姉は総司が中学の時に結婚をした。その時既に家を出たかったが、それは断固として姉自身が許してはくれなかった。

「新婚の家に弟がいるなんて、嫌でしょ」

総司はそう言って笑った。ナマエは粗方その口角を常に上げている彼の僅かな表情の変化が分かるようになっていた。言葉では言い表せない僅かな変化。

無理矢理言葉で言うならば、今の彼は少し哀しそうだった。

「でも、誰から聞いたのかな」

ふと、頬杖を付いて向かいに座った総司の瞳が真っ直ぐナマエを見つめる。

そんな総司の瞳に何だか責められてる様に感じて思わず小声になった。

「・・斎藤先輩」
「なるほどね」

まぁいいけど、と言って再びコーヒーを啜る彼に少し申し訳なく思う。誰でも自分の知らない所で自分の内部事情を晒されているのは不愉快だろう。

「・・ごめん、勝手に」

そう言って俯くナマエに総司はフッと笑う。

「気にしてないよ」

別に隠してた訳でもないしね、と彼は呟く。でもきっとあまり触れられたくない所ではあるのだろう、と思った。

『あいつは自分の事をあまり多くは語らない』

これも斎藤の言葉だ。きっと色々聞く事は出来る。今だってその時間はたっぷりある。

だが、なら何を聞いたらいい?聞いたそれが彼の触れられたくない部分だったら。そんな風に考えたら、言葉は何も出なかった。

「一体、何を吹き込まれたのかな」
「!」

そんな考えを馳せていた時正面から腕が伸びて来て顎を掴まれた。

「別に」
「じゃあなんでそんな顔してるのかな」

それが一体どんな顔かは分からなかった。だけど口にするならきっとこうだろう、とナマエは口を開いた。

「私は、貴方を知らない」
「!」

ナマエのそんな言葉に総司が僅かに目を見開いた。

「だから、知りたい」
「・・僕の、何が知りたいの」

少し威圧的な瞳。それでもナマエは言葉を続けた。

「・・分からない」

そう言って顔を顰めるナマエに総司はその手を離して笑った。君らしいや、と。

「・・でも、全部」

その瞳は真っ直ぐに総司を見つめた。そんなナマエの瞳に総司は息を忘れた。

「貴方の、全部が知りたい」

それは模索した言葉の中からナマエが見つけ出した、紛れもない心からの言葉だった。だからこそそれは総司の胸を突き破った。

「・・本当、ズルいよね君」

片手で顔を覆って総司はそう言葉を漏らす。そんな総司にナマエは首を傾げた。

「いいよ、」
「!」

そして総司は顔を上げてそう言った。

「僕の全てを、君になら教えてあげる」

その笑顔はナマエが見た彼の中で、一番優しく微笑んでいた。