「・・・」

ナマエは自室のベランダに出て夜風に当たっていた。静かな住宅街の並びにあるそのアパートの前の通りは、人一人歩いてはいない。

あの後、結局午後の授業をサボり、放課後もだいぶ時間が過ぎてから二人並んで帰路に着いた。

「また明日ね」

なんて笑う彼の表情が前より優しくなった様な気がしなくはなかったが、僅かに名残惜しむ自分の心を振り払う様に自室に入って行った。

「・・もう、いない」

そっと自分の胸に手を当てて、昼間彼に言われた言葉を思い出した。

『まだ、彼女は君の中にいるの?』

その存在はとっくに在るべき所へ帰っていた。大切な人と共に。

残っていたのは夢で感じた感情の残骸。そんな小さなものに自分はこんなにも感化され、揺らいでいたのかと思うと遣る瀬無かった。

それでも何だか心が軽くなった気がした。それは彼女の想いを背負う事への重圧から逃れられた、と言うのもあったが、それよりも前世の二人がようやくその激動の運命を終え、これからずっと二人寄り添っていられるのだと思えたからだった。

「・・よかった」

心からそう思った。自分が見たものは二人の記憶のほんの一部だろう。だけど彼女がいた時は、彼女の想いがそのまま自分も感じられて、押し潰されそうだった。

それ程までの人生を送った彼女の心を、一瞬でも共有したからこそそう思えた。

今思い返しても、あの時ほどの切なさも苦しみも感じない。それは偏に彼女が消えたからか、それとも寄り添う二人を見れたからか、定かではなかった。

「何してるの」
「!」

ふと隣のベランダから一つの影が顔を出した。

「先輩、」

総司が隣の部屋なのを忘れていた訳ではない。だけど、それでもその人物の登場に少し驚いた。

考え事が考え事だったからかも知れない、とナマエは心で思って、もう高く上がった月を見上げた。

「君、月見なんてするの」
「月見をしようと思ってした事なんてない」

そう言う意味じゃないんだけど、と総司は笑い、そんな会話を以前にもした様な気がして、ナマエは笑った。

それはきっと、前世の二人の会話の様な気がしたから。

「珍しいね、君が笑うの」
「そんな事ない」

それはここに来たからこそ言えた言葉だった。以前だったら彼の言葉を肯定していただろう、とナマエは思った。

「ふーん、なら僕だけが見れてないって事だね」

ふと少し不貞腐れた様に手すりに頬杖をつく彼に視線を移した。

「ズルいよね、それって」
「意味が分からない」

何の話しだ、とナマエは顔を顰める。

「まぁいいや」

そう言って身体を起こし、ベランダを区切る仕切りギリギリまで来て、彼は手招きをする。それに誘われるがままにナマエもそこへと近付いた。

「!」

スッと伸びて来た腕に後頭部を掴まれて、そのまま引き寄せられる。

「んっ!」

瞬間重なった唇に、ナマエは突き放そうと腕を伸ばす。けれどその頭に回された腕に勝てるはずもなく、ギュッと彼の服を握った。

「可愛い」

僅かに離した唇で彼が愛おしそうにそう呟く。そんな言葉と瞳に、トクンと胸が音を立てた。何度も重なる唇に、そこが外であるのも忘れた。

「そっち、行ってもいい?」
「!」

ふと総司がそう言ってナマエの頭を解放する。見つめた瞳に思わず足元から熱が全身に駆け上がる。

「ねぇ、」
「っ!」

そっと頬を撫でられて、ナマエはサッと後ろへ身を下げた。

「い、い訳あるか・・っ!」

その勢いそのままに、自室に駆け込んだ。

「あーあ、残念」

そんな声が僅かに聞こえて、ナマエは後ろ手に閉めたカーテンに背を預けてその場に座り込んだ。

「・・何なんだっ」

両膝を抱え込んで顔を伏せた。自分の顔だけじゃなく、全身が熱くて嫌になる。

「もう、うるさい・・っ」

聞こえて来たのは自分のやけに早い心臓の音で、ナマエは顔を顰める。

彼の問いに、もう少しで頷く所だった。そうしていたら、彼は今ここにいるのだろうか。そんな事を無意識に考えて、頭をコツンと背後の窓に当て付けた。

「・・っなんで、」

少し残念に思う自分の心に戸惑う。前世の自分はいない。それに気付いて残骸ももう無いはずだ。感化されるはずもないのに、自分は彼の口付けを拒めない。

この感情が何なのか、彼女がその答えを見つけ出すのは、まだ先の事。