「っ、・・」
「まだ、あと少しだけ」

昼休み、あの空き教室に二人の姿はあった。昼間だと言うのに締め切られたカーテンで、少し薄暗いそこにナマエの息使いと時たま憂いを帯びた総司の声が響いた。

「もう、チャイムが」

そんなナマエの言葉も途中で飲み込まれる。微かに開いた横目に見た黒板の上にある時計の時刻を彼に伝えようとも、それは叶わない。

あの日からこの場所での密会が行われていた。毎日の様に昼休みになるとナマエの教室に総司が迎えに来る。

毎度お約束の様にナマエは怪訝そうな顔をするが、この哀しげな笑みを思い出すと嫌とは言えなかった。

「先輩・・っ」

ナマエが小さく呼べば、更に腰を引き寄せられて逃げ場は一センチとも無くなった。





「・・はぁ」

帰宅してソファーに腰掛ける。静かな部屋にナマエの重いため息が溢れた。

淡々と送ろうと思った高校生活は、一人の男によって想像を遥かに越えたものになっていた。

嫌な、訳ではなかった。でもだからこそ、辛かった。彼の瞳に映っているのが、自分ではない気がしていたから。

この感情は一体誰のものか分からなかった。なぜ彼を拒めないのか。受け入れているのは自分か、それとも彼女か。

自分越しの遠い昔の自分。彼は、一体どっちなのだろうか。自分と同じなのか、それとも彼は遠い昔の彼なのか。

「・・・」

ふと机の上にあの結い紐がある。少し霞んでいようとも、それは眩しかった。

「・・っこんなの」

それを手に取って、投げ付けようと振りかぶった。

「・・っ」

でも出来なかった。それを握り締めて力なくソファーへ腰を戻す。手の中には哀しみと愛おしさが詰まっていて、思わず一筋の涙が頬を伝った。この涙が誰のものかも分からずに。

「なんで、」

やり場のないもどかしさが胸を埋め尽くした。捨てられない彼女の想いと、自分の想いがぶつかり合っている。交わらないはずのそれを、ただ胸に秘める事しかナマエには出来なかった。





「ナマエちゃん・・」

一日の授業を終え、千鶴は少し悩ましげなナマエに声を掛けた。そんな少し声の低い千鶴にナマエは首を傾げる。

「どうかしたの、千鶴」

それが聞きたいのは千鶴の方だった。一見かわらない彼女の表情。それが一日の中で動く事は数少ない。

だけれど期間は短いと言えど、彼女を見て来た千鶴にとってその僅かな表情の変化は大きな変化だった。

動かない表情にせよ感情はひしひしと伝わる。それに反応して声を掛けても、当の本人がその変化に気付いていない事が一番の問題だった。

平助に相談しても彼にはその変化は分からない様で、千鶴は意を決してナマエに問う事にした。

「その、沖田先輩とは・・順調?」
「?」

千鶴の聞きたい事がイマイチよく分からなかったのか、ナマエはただジッと千鶴を見つめる。

「その・・何かあったのかな、って思って」

部活に行く者、帰宅をする者、これからどこに行くか、と楽しそうに話しをする声が教室の彼方此方で聞こえた。

気付けば教室には数人、ナマエは鞄を持って席を立った。

「一緒に、帰ろ」

そんなナマエの言葉に千鶴は頷いて、二人は教室を後にした。

女子二人が並んでいると言うのに、そこに会話はない。千鶴は少し後悔していた。もしかしたら、触れられたくない事だったのかも、と。

それをお節介に問い掛けて、この学園のたった一人の女友達であるナマエと気まずい雰囲気になってしまっている。

でも、それでも彼女の表情の理由を知りたかった。知って、共有して、少しでもそれが晴れれば、と思った。

入学当日に見た彼女の笑顔が、これ以上曇らない様に。それは一重に、友達としての願いだった。

そして千鶴がそんな思いを馳せていた頃、ナマエが長い沈黙を破って口を開いた。

「私と先輩は、前世で恋仲だったみたい」

ふと耳に入って来た予想外の言葉に、千鶴は思わず目を丸くした。

「前世・・?」

復唱した言葉にナマエは無言で頷く。そんな突拍子もない現実離れした言葉を千鶴は自分で口にしても尚、理解が出来なかった。

「だから、先輩は私の元に来る」

私じゃない私を求めて。そう呟くナマエの横顔が切なくて、千鶴は思わず声を上げた。

「そんな!・・そんなの、」

悲し過ぎる、口に出そうとした言葉を飲み込んだ。それを言ってしまえば、ナマエの想いはただそれだけになってしまう。

「・・別に、どうでもいいんだけどね」

そう言って空を見上げる瞳が僅かに光った気がして、千鶴は鞄を持つ手に思わず力を入れた。

「・・っないよ」
「千鶴?」

横に見た千鶴は俯いて言葉を絞り出す。そんな彼女に疑問を持って、ナマエは千鶴を呼んだ。

「どうでも良くなんてないよ!」
「!」

そう言って顔を上げた千鶴に、ナマエは驚きを隠せなかった。だって自分の事でもないのに、彼女はとても悔しそうに、悲しそうに唇を噛んでいたから。

「ナマエちゃんの気持ちはどうなるの!」
「ちず、」
「なんで、そんな事言うの!?」

普段温厚な彼女の豹変振りに戸惑った。捲し立てる様に言葉を続ける彼女の耳に、ナマエの声は最早届いていなかった。

「そんな・・自分の気持ちを、どうでもいいなんて言わないで!」
「・・千鶴」

どうしたものか、ナマエには初めての事で何と言ったらいいのか分からなかった。

誰かに相談するのも、こうして誰かに怒られる事も初めてだ。

「・・ふ、あはは!」

そしてナマエは笑い出した。何故か途轍もなく可笑しくて、一度笑い出したら止まらなかった。

「え、ナマエちゃん・・?」

勿論何故笑い出したのか千鶴には分からず、もしかしたら検討違いの事を言ってしまったのかも、と先ほどの剣幕はその影を隠した。

「ごめんっ・・でも、嬉しくて」
「え、嬉しい・・?」

千鶴の言葉に、ナマエは目尻に溜まった涙を拭いながら頷いた。

「私、親にも怒られた事ない」
「!」

それはどうしたものか、千鶴は途端にあたふたとする。そんな千鶴にナマエはまた笑い出す。

「・・でもありがと、千鶴」
「ナマエちゃん・・」

そこには入学初日に見た以上の笑顔があって、千鶴はホッと胸を撫で下ろした。

「だいぶ、楽になった」
「良かった」

そう言って笑いあった。ナマエは思う、これが友達と言うものなのか、と。

彼女の言う自分の気持ちは正直よく分からなかった。だけど、初めて得たそれに胸の奥がこそばゆくなり、でもとても暖かかった。