「おはよう、ナマエちゃん」
「・・・」

朝一番、家の玄関を開けた先にいた人物を見てナマエは思う。私はまだ夢の中にいるのか、と。

一先ずバタン、と静かに玄関を閉め、もう一度我が家へ戻る。一つ自分の頬をつねって見た。

(痛い、)

我ながら古典的な確かめ方だとは思ったが、これしか浮かばなかったので仕方がない。取り敢えず自分が起きている事を確認してもう一度玄関を開けた。

「ひどいな、人の顔見て何も言わずに閉めるなんて」

傷付くよ、と毛ほどもそんな風に思わせない表情で言う彼を背に戸締りをする。そして丁寧に頭を下げた。

「おはようございます、そしてさよなら」

そう言って足早にアパートの階段を降りた。するとその後ろから足音が付いて来た。

「・・何ですか」

怪訝そうに振り返って問い掛ける。そんなナマエを気にもせずに総司は口元に笑みを浮かべていた。

「何って、僕も学校行くんだよ」

さらっとそう言う総司にナマエは更に眉間のシワを寄せる。

「そうですか」
「うん」

その言葉にナマエは再び歩き出す。横に並ぶ彼を横目に見て、そのペースを徐々に上げて行く。

「あ!ナマエちゃ、」

校門間近、千鶴は振り返った先にナマエの姿を見つけ声を上げた。だがその人物は千鶴に気付きもせず、千鶴が言葉を言い終わる前に風のような速さで通り過ぎて行った。

「・・え?」

千鶴は余りにも一瞬の出来事過ぎて自分の目を疑った。見間違いだったのだろうか、と。

「・・・」

校門を潜り抜け、ナマエは校舎の時計を見上げる。その針を見れば家を出た時刻から五分と少ししか経ってない。昨日来た時には二十分掛かったはずのその距離に思わずため息を吐いた。

「へえ、足速いんだね君」
「!」

あれだけ走ったにも関わらず息一つ切らさず、尚且つ平然と横を歩く総司にナマエは思わず目を見開く。

「息も切らしてないし、何かスポーツでもやってたの?」
「・・何も」

そんな総司の言葉に、ナマエはそれだけ言って校舎へと足を運んだ。

「じゃあまたね、ナマエちゃん」

結局教室の前まで離れなかった彼はそう言って踵を返して行く。その後ろ姿を見つめて思う。何がしたいのか、と。

何だかこれから一日が始まると言うのに、もうすでにどっと疲れが襲い思わず机に頬杖を付いてため息を吐いた。

「あ、ナマエちゃん」

ナマエがため息を吐いたほぼ同時に背後から声がしてナマエは振り返る。

「千鶴、おはよう」

そんなナマエの言葉に千鶴は嬉しそうに微笑んでおはよう、と返した。

「ナマエちゃん、もしかして朝走ってた?」
「・・ああ」

千鶴の言葉にナマエは疲れた表情を浮かべる。そんなナマエに千鶴は首を傾げた。

「変なのに絡まれてね」
「え!?」

ナマエの言葉に千鶴は怪我はや何かされたか、など慌てていたが、当の本人はただウンザリとしていた。

「大丈夫、いつか負かすから」
「え?」

それは本当に大丈夫なのだろうか、と千鶴は内心思ったが、一先ず頑張って、と言葉を返しておいた。

「平助遅い」

ふとまだ来ていない空席を見つめてナマエが呟く。もう直ぐHRの鐘が鳴るというのに、彼が来る気配はなかった。

「平助くんは多分そろそろ」
「っだー!間に合ったー!」
「来たね」

扉を壊さんばかりにこじ開けたその人物に千鶴はもう、と頬を膨らませた。

「平助くん遅いよ」

また夜中までゲームやってたんでしょ、と言う千鶴に、平助は悪い悪い、と右手を上げた。

「・・二人は、恋仲?」

高校生活が始まったのはつい昨日の事。昨日も思ったことだったが、二人は昨日出会ったばかり、と言う気がナマエにはしなかった。

そんなナマエの言葉に二人は揃って顔を赤くし、首を左右に振った。

「ち、違うよ!私たちは幼馴染で!」
「そ、そうだよな!家が隣なだけで!今はまだ!」

必死にそう説明する二人にへぇ、と僅かに声を漏らす。若干平助の言葉が引っ掛かったが、特に気にもせずに納得した。だからか、と。

「ナマエちゃんは、その・・彼氏さんとかいるの?」

ふと千鶴が遠慮がちにそう問い掛ける。その言葉を聞いて、一瞬総司の顔が浮かんだ。

「・・いらない」

一間おいてそう言うナマエに二人は首を傾げる。ナマエは、と言うと口元を押さえて二人から視線を逸らした。

(なんであんな奴の顔が)

出会って二日目にも関わらず、もう忘れ様がないあの顔を思い出すのはきっと、あの夢のせいだと思った。

どうやら自分はすっかりあの夢に囚われてしまったらしい。じゃなきゃあんな奴の顔が浮かぶはずない。そう思うと段々と腹が立って来た。

「そう言えばナマエちゃんと今日走ってたのって、沖田先輩だよね」
「!」

千鶴から出て来た言葉は今まさに思い浮かべていた人物の名前で、ナマエは思わず肩を揺らした。

「なになに、ナマエって総司と仲良いの?」
「・・勘弁して」

平助の言葉に頭痛がして頭を抱えた。

「でも沖田先輩、他校の子からも凄い人気だよね」
「へぇ、そうなのか」

正直、どうでも良かった。その手の話題は苦手だ。関心もなければ自分には無縁のものだと思っていたから。

そしてそんな話しの途中で鐘が鳴り授業が始まる。二日目と言えどキッチリと午後まで授業がある。昼の時間になり三人は持参した弁当を持って中庭へと来ていた。

「わあ!凄い!」
「人もいないし、よくこんなとこ知ってんな!」

それは彼と初めて会った桜の木の場所。どこで食べるか、と言う話しになりナマエがここを提案した。

予想以上に喜ぶ二人にナマエも僅かに微笑んで木陰に腰を下ろした。

「あれ」

ふと三人で会話をしながら食事をしていると、一つの影が三人に近付いて来た。

「三人とも、こんな所で食べてるの」

そう声をかけて来た人物にナマエは明らさまに怪訝そうな顔をした。

「あれ、総司じゃん」
「沖田先輩、こんにちは」

律儀に挨拶をする千鶴に笑顔で返事をして、総司はナマエに視線を向ける。

「なーに、ナマエちゃん。僕に会えてそんなに嬉しいの」
「全く」

どこをどう見たらその解釈になるのか分からず、ナマエはフイっと視線を逸らした。

「髪、」
「!」

ふと総司はナマエの髪を梳くった。それにナマエは思わず視線を総司に向ける。

「花びらが付いてるよ」
「・・どうも」

目の前にひとひらの桜の花びらを見せ付けられて、ナマエは無愛想にそれだけ返す。

「にしても君、それだけで足りるの?」

総司の視線の先にはナマエの小さなお弁当箱。おかずしか入らなそうなそこに、ご飯とおかずが少しずつ入っていた。

「足りる」
「ふーん、それちょうだい」
「無理」
「あーん、ってしてくれると嬉しいな」
「 絶 対 嫌 」

ナマエはお弁当を持ちながら総司の手からそれを護っている。そんな二人のやり取りを端から見ていた千鶴と平助が徐ろに口を開いた。

「やっぱり仲良いんだな」
「やっぱり仲良いんですね」

そんな揃った二人の言葉に総司とナマエは瞬間的に動きを止めた。総司はニヤッと口角を上げ、ナマエは見る見るうちに眉間にシワを寄せていく。

「仲良くな、」
「もらい」
「!?」

ナマエが声を上げたその瞬間、ナマエのお弁当に手が伸びた。そして難なくそれを口に入れ、指を舐める総司は勝ち誇った顔をナマエに向けた。

「・・っ」
「ご馳走様」

総司はそう言ってナマエの頭に手を置く。

「触るな・・っ!」

パッと手を上げれば、総司はそれをひらりとかわして立ち上がった。

「じゃあまたね」

そう言って手を振って消えて行くその背中に、ナマエは心で叫んだ。二度と来るな、と。

「・・はぁ」

疲れた、と言わんばかりにため息を吐くナマエに二人は同情の眼差しを向けた。

「なんか、大変だなお前も」
「相談にいつでも乗るからね、ナマエちゃん」

そんな二人にナマエは再びため息をついて一言だけ返した。ありがとう、と。

そしてナマエは気付いていなかった。彼に対して建前だけでも取り繕っていた自分が、無意識の内に消えていた事に。