ナマエは静かに夜の京の町を進んでいく。その目は既に覚悟を決めている様だった。

「っ、」

だけど胸が痛む。苦しくて思わず胸元をギュッと握る。脳裏に浮かんだのは咳き込み苦しそうな総司の姿。

でもそれも忘れる。きっと一歩踏み出せば踏み出しただけ、遠ざかれば遠ざかっただけ彼を、皆を忘れられると信じて歩いた。

そして一つの酒場にたどり着く。それはもう遠い過去の様で、つい最近まで身を置いていた場所ナマエが新選組に来る前にいた隠れ宿であった。

「おう、ナマエ」

彼女が来るのを知っていたかの様に周りの男たちは声を掛ける。それを無視して、ナマエは一つの机に腰を下ろした。

「久しいな」

目の前にはここを総括する男が静かに酒を飲みそう言った。

「随分前から接触しようとしたんだがな」

そう探る様な瞳をナマエに向ける男を、ナマエは何も言わずに真っ直ぐ見つめた。

「そういや、お前は口が聞けないんだったな」

そう言って無造作に紙と筆がナマエの前に転がる。それに謝罪文でも書けという事か、とナマエは思う。

(いや、何方かと言えば遺書、か)

そう思って思わず笑う。それに目の前の男含め、周りがざわついた。

「今更私に聞く事なんてないだろ」
「お前・・!」

そしてその声に皆が驚愕した。

「女だったのか!」

そんな事も気付かない様な奴らと何年もいたと思うと虫酸が走った。

「良かったな、まだお前は生きてたのか」

多くの奴が殺されたろ、とナマエは笑う。

「やっぱり、てめえか」

男はギリ、と歯を食いしばってナマエを見つめた。

「覚悟はできてんだろうな」
「覚悟、か」

そんなものとっくに出来てる。だけどなぜか、その言葉を聞いたら新選組の皆の顔が浮かんだ。

『君のしたい事をしたら良いんじゃない』

総司に言われた言葉を思い出した。あの時答えられなかった答えが、今ならすんなりと浮かんだ。

「そんなもの、」

そうか、覚悟なんて出来てなかった。だってそれを思い浮かべたら手が震えてる。

道場で稽古したり、皆でご飯食べたり、ふざけあったり・・背中を預けて戦ったり。

私のしたい事はもうきっと、知らない内に皆が叶えてくれた。

『君が、好きだよ』

彼が、叶えてくれた。

ありがとう。もっとたくさん伝えれば良かった。皆ともっと、話したかった。思うのはそんなくだらない事ばかりで、笑えてくる。

「!」

ふと自分の頬に感じた温かさ。

(これが、涙か)

知らない内に失くしていたもの。皆が全部取り戻してくれた。

最初は溶け込む為、それだけだった。それがいつの間にか皆に当てられて、感化されて、喜びも驚きも笑顔も感謝も、そして涙さえも私に与えてくれた。

それだけじゃない。この声だって、きっと彼と出会わなければもう二度と発する事はなかっただろう。

「あるに決まってる。私は新選組一番組副組長 ナマエだから」

だからせめて、最期はこのままで終わらせて欲しい。私は裏切り者としてここで死ぬだろう。

どちらにせよ間者である私はもう新選組でも生きてはいけない。ならせめて、その名だけでも。

「言いたい事はそれだけか」

目の前の男が立ち上がり刀を抜く。刃先がナマエの喉元にあてられた。

「あんたらに一つだけ感謝してる」

ナマエがなぜ新選組に潜入したか。それはその時、完全に外れくじだったからだ。

倒幕を企み始めたのは随分前だった。そして本格的に動き出し皆が散り散りになった。

正直そんなものナマエに興味はなかったが今後その邪魔になる様になるなら、と新選組への潜入を言い渡されたのがナマエだった。

だが会津の預かりとなったばかりのただのゴロツキの集まりだと思われていた新選組。ナマエは押し付けられたに近かった。

何故なら潜入が無駄になる可能性の方が高かったからだ。新選組は時代の流れで勝手に消えると予想されていた。しかし蓋を開ければその真逆だった。

維新を掲げる薩長にとって新選組は脅威になった。あの池田屋事件を発端として。

「私をあの場所に送り込んでくれた馬鹿なあんたらには、死んでも感謝する」
「てめえ!」

男が刀を振りかざした。終わらせよう、私の哀しくも喜びに満ちた物語を。

「まぁ、タダで死ぬつもりはないけど」

浮かんだ顔に微笑んだ。願わくば、もう一度だけ彼と共に時間を共有したかった。それだけが、少し心残り。

向かってくる刀を見てナマエも横に置いた刀に手を掛けようとした、その時だった。

「!」

バタン!と突然開く扉に男たちは皆動きを止めてそちらに視線を向けた。

「誰だ」

目の前の男が問い掛ける。すると扉を開けた人物はああ、と笑い、ナマエはその人物に目を見開いた。

「僕の部下が間違えてこの店入っちゃったみたいなんだよね」

本当、バカな子だよね。そんな聞き慣れた声と言葉に思わず掠れそうな声が出た。

「嘘・・」

それは紛れもなくさっきまで脳裏に浮かんでいた人物の顔で

「どうして・・」

呟くナマエと目が合って総司は笑う。

「いたいた。その子、返してくれない?」

そう言って総司は店の中へ足を踏み入れる。

「動くな」
「!」

ナマエの首元に刀を当てて男は総司に告げる。

「やだな、そんなもの女の子に向けるもんじゃないよ」
「じゃあ、返してやるよ!」

そう言って男は刀を振りかざす。

「首だけな!」
「!?」

驚きで反応出来なかったナマエの横で、ドンッと鈍い音がした。

「てめえ・・!」
「あはは、ダメだよ」

机に刀を突き立てて、机越しの男の刀を受け止める。

「この子を傷付けていいのは、僕だけだからね」
「組長・・」

殺気を放ち、ナマエの肩を抱えて総司はそう呟く。ナマエは思わず顔を覆った。

「どう、して・・っ」
「泣いてるの?そう言う事は二人きりの時にして欲しいな」

ナマエの震える肩を引き寄せて総司は笑う。

「てめえら、馬鹿にしやがって・・!」

その声に周りの男たちも刀を抜いた。

「!」

その音にナマエは顔を上げる。瞬間、唇が音を立て、間近に総司の顔があった。

「やっぱり、泣いた顔も可愛いね」

優しく笑う総司にナマエは溢れる涙を抑えきれなかった。

「やれえ!」

目の前の光景に痺れを切らした男が声を上げる。それを見て総司が立ち上がって背を向けた。

「馬鹿だよ、君は」

呟かれた言葉には僅かに怒りが滲んでいた。

「こんな人数、いくら君だって一人で相手出来る訳ないじゃない」

総司は気付いていた。羽織を置いて行った彼女が、ここで死ぬつもりだった事を。

「僕の背中、君が護ってくれるんでしょ」
「!」

顔だけ振り向いて微笑む総司に、ナマエは袖で乱暴に涙を拭いた。

「勿論、」

そう言って立ち上がったナマエにフッと笑って総司は前を見据える。

「それじゃ、悪党退治と行こうか!」

突き進む総司の背を追ってナマエも走る。外に出れば瞬時に囲まれた。

「多い」

ふと背中を付けたナマエが呟く。それはナマエがここにいた時の話しか、ナマエが手に入れた情報の話しかは分からなかった。

だが優に三十人はいる。恐らく最初に手に入れた情報の人物が次々と殺され、ナマエの仕業と踏んだ奴らは他の薩長の集まりから人を寄せ集めた。

ナマエの腕は周知されている。それにしても人数が多い、とナマエは思った。

「もしかして、」

浮かんだのは風間千景と名乗る鬼の存在。恐らくあいつの言葉によってナマエを確実に殺す為に集められた人数だと思った。

「舐められたもんだね」

楽しそうに言う総司にナマエは首を傾げる。

「僕ら二人をこの人数で殺そうなんて」

そんな総司の言葉にナマエはフッと笑った。

「同感」

そして地面を蹴る。付かず離れずの距離を保ちながら二人は次々と敵を斬り殺していく。

ナマエはその時を噛み締めた。これが、本当の本当に最期の時間だと。

血が飛び交いとても楽しいと呼べる状況ではない。だけどそれでも嬉しかった。

もう、悔いはなかった。願った瞬間叶った願いが此処にある。それだけで、十分だった。

「はあ、はぁ」

だけれどそれほど戦っていないにも関わらず、総司が肩で息をする。そんな総司の背に自分の背を合わせる。

「最近寝てばかりだったからかな」

横目で見ればこめかみから首すじまで汗が伝っている。合わさった背中からは異常な熱を感じた。

「もう、いい」
「なんの話しかな」

呟くナマエに総司は少し怪訝そうに問い掛ける。

「私なんか、放っておけば良かったのに」

ギュッと自分の刀を持つ手に力を込めた。こんな風になる位なら、自分一人で死んだ方がマシだとナマエは思う。

「今更、無理だよ」

そんな総司の言葉にナマエは疑問を持つ。

「それに僕はまだ、君の気持ち聞いてないしね」
「!」

横目で見れば不敵に笑う総司の視線とぶつかった。

「ばか・・っ」

また涙が出そうになった。だが手を止めればその瞬間畳み掛けられる。

正直これ以上は総司が持たなかった。彼が立っていられる間に一人でも殺して道を作らなければ、とナマエは思った。そんな時だった。

「なんで、」

視線の先に見えた誠の文字。そして近付いて来る浅葱色にナマエは唇を噛み締めた。

それに気付いた薩長の者たちは騒めき、動きが止まる。

「やっと来たね」

総司は僅かに安堵の表情を見せて呟いた。

「御用改めである!」

近藤の声が静かな夜に響いた。見れば幹部が全員いる。局長の近藤、副長の土方に山南、斎藤に左之に平助、新八。

形勢は逆転し、その場にいた大半が斬り殺され、総括していた長州の男とその他数名、そしてナマエがその場で捕らえられた。