七話


 この地を訪れることは二度とないと思っていた。少なくとも、逃げ出したあの日には。ずっと、一人になってからは嫌で仕方なかったはずのこの場所の空気に肩の力が抜けた気がするのは、企業が立ち並ぶ大都会の中にいたからだろう。呪術師と労働。どちらもクソだ。だがほんの少し、こちらの方がマシだったというだけの話だ。

「七海、」
「!」

 高専の結界内、鳥居を潜り石畳を歩く私の耳に、沈んだ水の中で聞く音ではない、はっきりとした声が聞こえた。顔を見ずともそれが誰なのか理解した脳は心臓に肘を立て、わざとらしく私に訴える。

「久しぶり」

 高専の教員専用の制服を見に纏い、歳を重ね少女だった彼女は女性へと変わっていた。あの頃よりも少し伸びた髪、少し控えめになった笑顔。あの頃の彼女にはなかった落ち着きと憂いは時の流れが与えたのか、それとも。

「相変わらずゲロ甘で吐いちゃうセックスしそうな顔してるね」
「……」

 この落胆を味わうのは二度目だ。そうだ、そうだった。時の流れは記憶を美化する。それを身をもって体感した気分だった。このおん……女性はこういう人だ。見目こそ普通ではあるが、最悪なことに中身に至って言えば五条さんと似た部分を持っているし、挨拶の際人のセンシティブな部分に土足で入ってくる。相変わらずといえばまだ聞こえはいいのかもしれないが、未だに初対面の人間にそう言っているのかと思うと頭が痛い。この感覚も、酷く久しぶりだ。あの頃はよく、彼女の言動に頭を抱えていたのだから。

「試してみますか?」
「お、言うようになったねぇ」
「そりゃまぁ、あれから六年経ってますから」
「そう、だね……」

 突然歯切れの悪くなった彼女を見下ろして、首を傾げる。その少し考え込むような、寂しそうな瞳。それは私の視線に気付くなり、ニッと誤魔化すように笑った。

「にしてもさ、育ちすぎじゃない? うわ! 硬ッ!」

 顎に手を当て私の身体を観察する目は疑心暗鬼で、許可もなくぺたぺたと触っては驚いた声を上げる。ああ、だからか、彼女があの頃よりもか細く、か弱く見えるのは。

「今ならあなたにも負けませんよ」
「七海、それ私の性格知ってて言ってる?」
「失礼、知ってて言いました」
「いい返事だ。道場行こうか」
「は? ちょっと、私は五条さんに話が」

 彼女の変わらぬ手が容赦なく腕に絡み、引きずられるように再び石畳を踏みつける。硬いはずのそこに春が敷き詰められ浮き立つ感覚も、久々だった。

「……」
「クソ弱だよ七海くん」

 見上げた天井。そこから覗き込む彼女の腹立たしいドヤ顔。単純な手合わせのはずだった。確かに油断ややる気のなさが私にあったことは否めない。だが、モノの数秒でそう言われ私はこれみよがしに顔を顰めた。

 術式を失い、呪力を使うことを許されない彼女のその身のこなしはどの武道にも当てはまらず、全ての武道に精通しているようだった。圧倒的力、体格差を逆手に取ったやり方に、彼女のこれまでの鍛錬が容易く伺えた。そういえば、彼女はこう見えて努力家だったということを思い出す。こればっかりは私の落ち度だった。ぐうの音もでないほど、完全に。

「もう一本、お願い出来ますか」

 ざらりとした畳の網目に手を滑らせ身体を起こし、構えてそう言えば彼女の口角が上がる。もちろん、と見据える瞳は獣の如く鋭く、やはり彼女はこうでなくては、なんて思えばこちらの口角も上がった。締め切った部屋には古びていながらも懐かしい匂いが立ち込めていて、瞬く間に私たちをあの頃へと連れ戻す。

「早く私を負かしてみなよ七海」
「そんな気毛頭ない人間がなに言ってるんです」
「正解!」

 その言葉と共に鳴らされた指の音は、パチン、と景気良く道場に響き渡り、それを合図に私たちは同時に畳を蹴って駆け出した。彼女はこちらの攻撃を上手く受け流しながら的確に空いた急所を狙ってくる。これを受ける生徒は嫌だろうなと思いつつ、それでもその視線はあえてそれをこちらに教えるモノだ。呪いを祓うためではなく、誰かを育てる動き。とはいえこちらとしては彼女の容赦ない指導に加え、呪力を使わないようにと神経を払っているために余裕は思った以上になかった。縛りを受けた彼女がギネスに載れると言ったことも今なら頷ける。やはり笑えはしないが、それを会得した彼女を、心の底から尊敬した。

「……負かしましたよ」
「負かせなかったら高専から追い出してたっつーの」

 肩は大きく揺れ、滴る汗はかつてここで修練に勤しんだモノたちと同じように畳へと吸い込まれていく。床に大の字となって寝そべりながらも不敵に笑う彼女に自分が作り出す影が映って、頬には湿った髪が張り付いていた。酸素を求め上下する胸と連動して呼吸を繰り返す唇はひどく扇情的で、ぽたり、彼女の首筋に自分の汗が垂れた。

「七海、」

 彼女の唇が自分の名を形どり、呼ぶ声は後頭部で甘く溶ける。汗ばむ肌を撫でるように髪を払えば、絡みあった視線がゆっくりと細められた。

「あれ、お楽しみ中だった?」
「……」

 場の空気なんてものをその声は知ろうともしない。昔からそうだ。この、私たちの横にしゃがみ込み頬杖をつく、五条悟という男は。

「いえ、私が手合わせをお願いしていたんです」
「でも僕忙しいからさ、先に話しちゃってもいい? 乳繰り合うのは後にしてよ」
「聞いてますか?」
「無駄でしょ。誰と話してると思ってんの」
「……確かに」
「おい、勝手に完結させるなよ」

 ゆっくりと身体を起こし、完全に乱れてしまった髪を掻き上げる。立ち上がり彼女に手を差し出せば、彼女は躊躇いもなく私のそこに手を重ね、起き上がった。

「あっつー」
「またあなたは。人前で着替えるなと昔にも言ったでしょう」
「面倒臭いって昔にも言いましたっ」

 私と五条さんがいるにも関わらずジャケットを脱ぎ始めた彼女をそう咎めれば、至極反抗的な言葉が返って来る。人の言うことを聞かないのも相変わらずらしい。もういい大人なんですから、あーそれ生徒にも言われる、……あなたまさか生徒の前でもそうなんですか、そうだけど? なんて会話をし、深いため息を吐きながら私たち二人の足は自然と出口へと向かっていた。

「ちょっとちょっと! どこ行くわけ! 大体話は!?」

 背後で慌てた声がする。人で遊ぶ彼にしては珍しいそれに、たまにはいいだろうと思う。これからまた嫌でも付き合っていく羽目になるんだ。この、″最強″に。

「何って汗かいたから風呂と着替え」
「学長にはその後キチンと挨拶に行くのでご安心を」
「だから、あとよろしくね、先輩」
「お願いしますよ、五条さん」
「……お前ら僕に甘えすぎじゃない?」

 全く困った後輩だよ、なんて溜め息混じりの嘆きについに笑って道場を後にする。お前らはそのままでいろよ、なんて彼の呟きに、気付きもせずに。





「……」

 自分の身体を伝い、身長よりも高い場所から降る少し熱めのシャワーが、彼女との手合わせの際にかいた汗と共に排水溝へと吸い込まれていく。タイルの床と自分の足、視界にはそんなものが映っていると言うのに、ぼんやりと見ていたものは組み敷いた時の彼女だった。

──何をしようとしたんだ私は、

 壁についた両手が、ぴくりと反応する。艶かしく思い出した彼女の肌の感覚に、咄嗟にシャワーの温度を最低まで捻った。途端、降り注ぐのはほぼ水のような体温を一瞬で変えるもので、上りきった頭の熱がスッと落ちていく感覚にゆっくりと目を閉じた。少し、柄にもなく浮かれてしまったのかもしれない。いや、いつもそうだった。理論ではなく感情が身体を支配する瞬間、それはいつだって彼女への想いが絡んだ時だ。それが分かっているにも関わらず、それなりの歳月が過ぎ、大人になったと言うのに変わらない自分の幼稚さには、些か困り果ててしまう。

──忘れるな。

 自分に、その資格がないことを。いや、私はただ──そう考えゆっくり閉ざした瞼を開けた。所詮言い訳だ。全て、全て、子供だったからと許されるものなどなにもない。否定も後悔も今ではどうしようもないことだ。ありのままを受け止め今をどうすべきかを考える方が余程有用性があり現実的だ。

「おっそい」
「待っていたんですか」
「そーよ」

 シャワー室を出ると、壁に寄り掛かった不機嫌な顔が待ちくたびれたと不満を吐く。今し方外したままポケットにしまってしまった為時計は腕になく時間を確認出来ないが、ご立腹加減からそれなりに待たせてしまったのだろう。まぁ、待ち合わせをした記憶がないのだから怒られる筋合いもないのだが、彼女にそれを言えば火に油なのは目にみえているので「すみません」とだけ言っておく。社会に出てよかったことは、自分が悪くなくとも謝れるようになったことだと今気付いた。

「喉渇いたから自販機行こ」

 もちろん七海の奢りで、と歩き出す彼女の横を並んで歩く。目に映る何もかもが懐かしく、帰って来たという安心感のようなものまで僅かながら感じていた。だがそう感じることができるのは、彼女が横にいるからだと思う。いなければきっと、どうしても一人になった後の時間が頭をもたげていただろうから。

「なんで戻ってきたの」
「……また唐突ですね」

 自販機の前に辿り着き、本当に人の金で水を買って煽る彼女が、小銭を入れている私に問い掛ける。いいから答える、なんてはぐらかそうとした訳ではないが、ワンクッションおこうとした意図を清々しく一刀両断され、間違えてクソ甘い五条さんが好んで飲みそうな乳酸菌入りの飲み物を買ってしまった。

 七海そんなの飲んだっけ、なんて彼女の疑問に、味覚も少しは変わります、なんて言ったって笑う彼女にはどうせバレているのだろう。はい、と躊躇いなく差し出された水を、渋々受け取った。まぁ私が買ったものだしな。と言い訳をして口に含めば、思っていたよりその冷たさは感じなかった。同時に、適当な言葉で誤魔化そうとしても彼女にはバレてしまうのだろうなとも。

「ようやく、あなたたちが見ていた景色を、私も見れるかもしれないと思っただけです」

 手の中にある口の空いたペットボトルを見下ろし、いつの日か入れなかった世界へと思いを馳せる。忘れたわけじゃない。消えたわけじゃない。全て、全て。短いながらもやっていた呪術師から逃げて、それでも今度こそは何かを見出せるような気がして、戻って来た。やっと、やっとあの時の二人に並べる。私は、そんな気がしたんだ。

「七海って」
「……」
「面倒臭いとこあるよね、昔から」
「……は?」

 嘲笑われるか、馬鹿にされるか、どちらも彼女ならやりかねないなと思っていた思考が止まった。だが顔を上げ隣に並んだ彼女の顔を見ればそこにその類いの感情はなく、至って真顔、真剣だ。いや真顔で貶されたのか私は。

「神経質というかセンチメンタルというか、そんな小難しいこと考えてなかったよ。私も、きっと灰原も」

 その名前をそんなすんなり出せるほど、彼女の中で灰原の存在はうまく消化されているのだと驚いた。それに安堵する自分も落胆する自分もいて、確かに彼女のいう通り、私は少し面倒臭い男なのかもしれない。

「どんな思想だってどこ向いてったってなにを見てたっていいんだよ。私たちは呪術師っていう一つの輪なんだから」
「一つの輪、ですか」
「そ、一蓮托生。旅は道連れ世は情け。知ってる? ライオンの親は子供をあえて崖から落とすらしいよ」
「それは架空の獅子の話であって、あなたが生徒を崖から落としてもいいというものじゃありませんからね」

 念を押すようにそう告げれば、ちぇ、と彼女が声を漏らす。彼女が最後に余計なものを付け加えるから、話が急ハンドルを切ってしまった。

「ま、でも私もう呪術師ではないけどさ」
「あなたは呪術師ですよ」
「ちょっとちょっと、忘れちゃった? 私の術式はもうないし未だに縛りは」
「覚えてますよ」

 忘れる、わけがない。術式はともかく、彼女の呪術師という資格を奪ってしまう縛りを彼女にさせてしまったのは、きっと私だから。

「例え術式はなく呪力も使うことが出来なくても、あれほどの体術を使いこなし教えられる人間はそうはいません。それだけでもあなたは呪術師を育てるという観点で十分なほど貢献している。……それに、私は知ってる」
「……」

 気圧されるように彼女は瞬きを忘れつらづらと言葉を並べる私を見つめている。見つめ返したその瞳には幾多の任務を共にした時の彼女が、鮮明に映し出されていた。

「あなたがどれほど誇り高い呪術師だったか。私は近くで見てましたから」

 見開かれた瞳が更に開かれ、溢れてしまいそうだ。桜吹雪の中、真夏の焼け付くような太陽の下、悴むような雪にその身を染めながらも、いつだってあなたは眩しかった。それが悔しくも、私の胸をいつも攫っていた。

「だからあなたは……なぜ笑うんです」

 突然、俯いたかと思えば腹を抱え身体を小刻みに震わせる彼女につい声も低くなる。

「クク……っ、だって、七海、誇り高きって……!」
「……」
「あはは! もうだめ、お腹痛い!」

 堪えきれず天井に向かい笑いをこぼす彼女に、こめかみに青筋が立つ。こっちが真剣な話をしているというのに、この女は、本当相変わらず腹が立つ。

「はー、久々にこんな笑ったわ」
「それはよかったです」
「あれ、怒った? 七海くーん?」
「なんです」

 目尻に溜まった涙を掬う彼女から視線を外し、間違えて買ってしまったドリンクを口に含む。……五条さんはこんなものをよく飲めるな、と顔を顰め、そのまま蓋をして彼女へと渡した。それにさえ彼女はクスクスと笑った。

「嘘だよ、ありがと七海」
「それだけ笑っておいて嘘もクソもないでしょう」
「確かに」
「……」

 そこで肯定してしまう辺りが彼女らしい。こちらは再びムッとするも、彼女には効きやしない。

「本当、七海は優しいね」
「……私は事実を言ったまでです」
「はーいはい、捻くれてんのも変わらないなぁ」
「なんですそれ。私のどこが捻くれているんです」
「うわ、めんど。逃げよ」
「待ちなさい。まだ話は終わってません。さっきの面倒臭いはほんの少し認めますが」
「認めるんかい」

 歩き出した彼女の背を追いかけ問い詰める。広い割には昔から人の少ないこの場所に、二つの足音と声が、静かにこだましていた。