六話


 高専に到着後、彼女はすぐに家入さんのところへ、私は、灰原と共に霊安室にいた。聞きつけた夏油さんが灰原を寝かせ上半身だけになった灰原に布をかける。

「クソッ……! 産土神信仰……アレは土地神でした……一級案件だ……!」

 私は、報告しなければと思ったのか。いやきっと、ただ何かをしていないと頭がおかしくなりそうだったんだと思う。一日で起こるにしては多すぎる出来事の数々、受け止め難い現実に、今にも押しつぶされてしまいそうだった。

「今はとにかく休め、七海。任務は悟が引き継いだ」
「……」

 最強、特級、きっといけすかないあの人はあの程度の呪霊退治なんてわけないのだろう。私も彼女も死にかけて、灰原は死んだ……相手だって。だったら、それなら、私たちの存在意義はなんだ? 私たちは、灰原は、なんで。

「もうあの人一人で良くないですか?」

 分かってる。そんなわけないって。だけど、言葉は意思に反して溢れていた。どこかにこの感情を向けなければ、自分が保てなかった。嫌でも思い知る。自分は、まだ子供なのだということを。

「七海、硝子さんとこ行ってきなよ」
「!」

 霊安室の扉が開き、誰かが入って来たことは布で隠した瞼で見えずとも分かっていた。だけど、とてもその人物をわざわざ確認する気にはなれず、そのままにしていた。その声が、聞こえるまでは。

「もう大丈夫なのかい」
「この通り、硝子さんのおかげで」

 布を取った私の視界に映った彼女は、怪我もなく、なかったはずの腕までもが当たり前のようについていた。俄かには信じがたいが、夏油さんの問いに応える彼女の耳も、きちんと聴こえているらしい。

「……」

 彼女の視線は、私が布を取ってから一度もブレることなく灰原を見つめていた。それに気付いた夏油さんが灰原から一歩下り、彼女の生えた腕がその布をそっと剥ぐ。そして、

「!」

 傷だらけの両頬を包み、彼女の顔が灰原へと降り注いだ。

「ありがとう、灰原」

 ありがとう、彼女は額を合わせ、何度も同じ言葉を繰り返す。思い出を語るでもなく、悔しさを吐き出すでもなく、泣き喚くわけでもなく、ただその言葉と、灰原の名前を呼び続けた。

──強いな、

 その光景を見ていられなくて視線を逸らす。本当、五条さんへ世界のどうしようもない理不尽を押し付けた自分とは大違いだ。いつだってそうだ。痛む胸はそんな悪足掻きしかできやしない。きっと、これからだってそうなるはずだった。でもそれでもいいんだ灰原。私は、それが一番いいと、思ったんだよ。なのに、なんで、

「またね」

 そう微笑んで、彼女は再び布を被せた。まるで、おやすみと歌う、子守唄のような声音だった。

「ほら七海、早く治療、に」
「危ない……!」
「!」

 ぐらり、揺れた頭に彼女が自らの視界を覆い、足元がフラついた。指の間から見えた顔は青白く、とても血が通っているとは思えない。

「おい! 大丈夫、」

 伸ばした手は彼女に届くも、私たちは崩れるように床へと座り込んだ。勢いよく立ち上がった拍子に持っていた布は宙を舞い、倒れた丸椅子が転がって背中に当たった。

「っ、」

 離せなかった。一度抱き留めた彼女を。私はバカだ。彼女が最後に灰原に見せた強がりを、こんな風に抱きしめるまで気付けないなんて。彼女も、咄嗟に掴んだ私の服を離そうとしない。その手は力強く、だけど、堪えることのできない悲しみが震えとなって私へと注がれる。私たちは互いに互いの肩に顔を埋めたまま、動けなかった。まるで、胸にぽっかりと空いてしまった穴を埋めるように、抱えてしまった悲しみを、思い出を、大事に、大事に抱き締めるように。

 パタンと、扉が閉まった音だけが、この静かな霊安室に溶けて消えた。



 次の日から三人いたはずの教室は、私の貸し切りになった。彼女はあの産土神との戦いの時、自らに縛りを施した。呪力を使用した際、それが強力になるもの。だが縛りとは契約だ。ただその力を得られるわけじゃない。それを得るため、彼女は自分の身体の一部を、生贄とした。特級との戦いで焼き切れていた術式の穴を、埋めるかのように。それだけなら一時的なものとして処理できていただろう。だが彼女はその縛りを紛いなりとも“神”の前でしてしまった。それ故にその縛りは魂に刻まれてしまった、らしい。

 たまに前触れもなく教室に現れた彼女は「一日三回くらいどっか壊れて、三日に一回走馬灯が見える」らしく、走馬灯見た回数で絶対ギネス載れるよ、なんて笑う彼女の言葉はとてもじゃないが笑えなかった。私たちは物心つく頃から呪力を自覚して、短いながらも人生の大半を当たり前のように呪力を自覚し過ごしている。だが彼女の場合ふとした瞬間無意識に使うことによってもその縛りは発動し、彼女の何かが失われた

 それを危惧した人たちは彼女が呪力を使わないことに慣れるまで、三年の家入さんと行動を共にすることを命じ、そして──彼女は、呪術師の資格を失った。

 そして灰原が死んで間も無く、三年の夏油さんが任務の際村の住人を殺して消えた。その際も訪れた彼女は、「硝子さんはともかく、五条がやばい」とイマイチ緊迫感が伝わりにくい言葉を吐いた。私はなんでもないふりをしながらも、彼女に会う度、呪いのように灰原の言葉を思い出していた。

 なぁ灰原、お前は私に何を託したんだ。否、何を託されたって私には、何も出来やしない。

 だから、卒業と同時に呪術師をやめた。三年の中頃に高専を辞めていた彼女には、伝えられやしなかった。当然だ。私は──全てから逃げ出したのだから。

 そして高専を出て四年。とある証券会社に勤め、呪いとも、あの日々を共に過ごしていた人たちとも関係のない場所で全てを忘れていた。嫌、忘れたふりをしていた。仕事が立て込み三徹した時、朝日に目が眩んで幻を見た。

「七海、」

 まだ幼さの残る、彼女の残像。年はもう私と同じ二十代半ばだが、記憶がそこで止まっているのだから当たり前だ。向けられた変わらない笑顔、それに締め付けられる胸も、あの頃と微塵も変わらなくて嫌気がさした。

 金、金、金。
 それさえあれば忘れられると思った。全部、何もかも、未だ積もり続ける、この想いも。

 呪術師なんてものになったって、あの二人のように私はやり甲斐も生き甲斐も見つける事が出来なかった。そんな概念がそもそも存在しないのだから、当然と言えば当然の結果だ。三、四十まで適当に働き、物価の安い国でフラフラと人生を謳歌する。そのためだけに働く。会社で目覚める朝も別に苦じゃなかった。全てと無縁でいられる先があるのなら、早く、今すぐに、そうしたい。──私は、まだ逃げようとしていた。

「大丈夫ですか? ちゃんと寝れてます?」

 コンビニで目当てのパンが売られなくなったのをきっかけに来るようになったパン屋。店の女性は出会った時からその肩に蠅頭を担いでいた。悪さをしているようでもなかったから放っておいたが、それは一時的なものだったらしい。

「……貴女こそ、疲れが溜まっているように見えますが」
「あ。分かっちゃいました? 最近なんか肩が重いというか、眠りも浅いし」

 香ばしいパンの香り。だがそれすらあまり感じられないほど疲弊していた。思考はきっと動いていない。だから、店主に対し自分の仕事の話をしている。否、これは仕事の話じゃない。私自身の存在意義の話だ。私がいなくても誰も困らない。きっと、高専を去る時を境に一度も連絡すら取っていない、彼女にとっても。

「一歩前に出てもらえますか?」
「?」

 その言葉と共に疑問を浮かべながらもカウンター越し、手刀を店主の肩に乗った蠅頭へ向ける。高専を出てから呪いを祓ったのは、これが初めてだった。

「肩、どうですか」
「え、はい。あれ!? 軽い!」
「違和感が残るようでしたら病院へ」

 失礼します、と言い残し買ったパンを手にし店を出た。なぜこんなことを。そう思わなかったわけじゃない。だが、別に今更こんなことしたからって何かが変わるわけでもない。そう、思った。

「あっ、ちょっと! 待って! あのっ」

 背後でカランカランと店の入り口にあるベルの音がする。

「ありがとー! また来てくださいねー!」
『ありがとう、灰原』

 脳裏で、あの日の映像が反芻する。最も忘れたかった記憶。そのはずなのに、

「あれ!? 聞こえてない!? ありがとー!!」

 “生き甲斐”なんてものは、無縁の人間だと思っていた。だけど私はその言葉を背に受け、気付けばあの軽薄な男へと電話を掛けていた。

「もしもし、七海です。お話があります」
『やぁ七海、久しぶりだね。僕に何か用か?』
「ええ、明日にでも高専に伺い……」

 四年ぶりに聴いた声はやはり不愉快で、何も面白いことを言ったつもりはないにも拘らず喉の奥がくつくつと音を立てているのが聞こえる。

「何笑ってるんですか?」
『いーや、あいつはとっくに帰って来てるよ』
「は?」

 五条さんの言葉に進めていた足がピタリと止まった。視界に映るのは見慣れた東京の街のはずなのに、見えるのはまた、彼女の幻覚だ。

『僕が体術の特別講師として呼び戻した』
「……なぜ、彼女なんですか」
『術式も呪力も使えず戦うことはできないが、教えることは出来る上に信用もある。僕が求めたのは、そういう人材だからね』

 だから、お前が戻って来ることも賛成だよ。そう言いながら口角を上げているこの人の姿が容易く想像できて、顔を顰めた。

「お見通しってわけですか」
『僕最強だしね。頭もいいしイケメンだし欠点という欠点は』
「では明日、よろしくお願いします」
『あ゛!? なに勝手に話まとめて』

 タン、と画面に浮かんだ通話を終える赤に触れれば、久方ぶりに聞いても鬱陶しい声は途絶えた。フゥー、と天を仰ぎ一つ息を吐く。見上げた空は、いつかの日に見たものとよく似ている。空なんて似たり寄ったりなのだから当たり前だ。だけど、同じ空は一つとしてありはしない。あの頃の日々も、今も、同じ日が一日たりともないのと同じように。

──戻って、来てるのか。

 気持ちは、重くなると思っていた。重いと言われれば重い。きっとそんな自分も確かにいるんだろう。だけど、

「本当、嫌になる」

 そう言った声は思った以上に軽かった。それは時の流れがそうさせたのか、答えは分からない。ただ一つ分かること。それは……私はまだ、彼女に恋をしているということだ。