五話


「ぜっったい一緒に行く」と言って聞かなかった静養期間中である彼女を間に挟み、補助監督の運転する車に揺られていた。景色はすっかり都内とは打って変わり、山を切り開いて作られた道路を走る。空には分厚い雲が漂い、陽の差し込まない世界は肌寒ささえ感じていた。

「あ、帰りにここ寄ってこうよ」
「いいね。夏油さんたちのお土産もそこで買おう」

 五条さんも食べるだろうから甘いものがいいってさ、と、彼女が差し出した携帯画面を覗き込みながら二人は話しに花を咲かす。バックミラー越しに二人を見た補助監督も、慣れているとはいえこれから任務に向かうとは思えない雰囲気に、苦笑を漏らしたのが分かった。

「へぇ、ここ? 確かにいるねえ」
「だから来たんでしょう」
「まぁ二級だし、僕と七海で十分だよ」
「君は大人しくしてるんだ」
「分かってるよ、もう」

 車から降り少し歩き辿り着いた村の外れ。と言ってもだいぶ距離があるが、この辺りに住み着いた二級呪霊の討伐が今日の任務だ。微かに、でも確かに漂う呪霊の呪力に反応した彼女に念を押すように灰原と共にそう言えば、しつこいなと言わんばかりに彼女が唇を不満げに尖らせた。

「“闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え”」

 印を組んだ彼女が詠唱を終えれば、その上空から黒い帳が降りて来る。それを合図に私たちは前へと進み、帳の中へと入って行った。色なき風が私たちの間を駆け、草木がカサカサと乾いた音を奏でていた。

「さっさと帰って来てよねー」
「了解、すぐ戻るよ」
「それ以上は絶対、」
「入らないってば!」

 信用ないな、なんて呟くくせに、その口角はどこか茶化すように持ち上げられていて昨日のやり取りが脳裏に浮かぶ。バツが悪くなったのはこちら側で、誤魔化すように顔を顰めては視線を彼女から前へと向けた。

「彼女となんかあった?」
「……なにも。ただあんな状態で戻って来たにも関わらず病室を抜け出すくらいだ。彼女があそこでじっとしていられる時間を考えたら頭が痛い」
「ふふ、確かにね。それじゃ、彼女が迷子になる前に終わらせよう」
「ああ」

 眼前に迫った気配に肩から下げていた鞄から鉈を取り出し、戦闘態勢に入る。が、その呪霊が姿を現した瞬間、私たちの間に言い知れぬ、今まで感じたことのない悪寒が走った。

「ッ!!」

 真っ先に向かって来た切っ尖は鋭く、受け止めきれなかった衝撃波が頬の皮を裂いた。

「七海!!」
「クソ……!!」

 押し返せなかった力は私を背後へと下がらせ、思わず舌打ちが漏れる。これは、二級なんかじゃない。頭はすぐにそう結論付けた。同時に、その呪霊の先に靄がかかりながらも僅かに見えた、朱色。

 チッ、と脳にも響くくらい大きな舌打ちを吐いた。二級じゃないどころか、これはただの呪いでもない。二級と一級の間には三級と二級よりも明確且つ、大きな差がある。加えて、こいつは産土神、あの先に見えた神社に祀られた、土地神だ。仮に二級の術師が二人いようとも、敵うわけがない。

「撤退だ灰原!! こいつは私たちが、」

 そう叫んだ声は木陰に揺れた三つの影によって紡ぐことは叶わなかった。年端もいかない少年二人と、少女が一人。恐怖に怯え涙を零しながら身を寄せ合っていた。かなり離れているとはいえ村はある。遊んでいる中でこんなところまで来てしまったんだろう。……クソ、本当にクソだ。呪術師なんてものは。

「逃げろ! 早く!!」

 私の声にびくりと肩が跳ね、小さな身体は更に小さく萎縮していく。だけど震える足に鞭を打ち二人の手を引いたのは、少女だった。その後ろ姿がどこかの誰かと重なって、場違いながらあの少女はきっと逞しく育つのだろうなと思った。

「灰原、」
「うん、大丈夫」

 子供たちを認識した灰原と私は、たったそれだけで意識を共有した。片方が残ったところで稼げる時間なんてたかが知れてる。残る選択肢は、これしかない。

「悪い」
「なんで七海が謝るの。僕だって呪術師だ」

 覚悟はとっくに出来てる。そういう灰原に、いつかの日に妹の話をしていた言葉が浮かんだ。

「それに、二人ならなんとかなるかもしれないよ」

 そのいつものように笑う灰原に、肯定は出来なかった。
 時間にすればたった数分だっただろう。だけど、歴然とした力の差に毎秒増える傷、全身にのし掛かる疲労、なのに打てども打てども相手の体力を削れている気がしない。果てのない、私たちの命だけを削る消耗戦。

「ッ!!」

 鋭い刃にも似たものが呪霊から放たれる。二、三、四。そう目視は出来ても、身体の反応が一歩遅れ、それは私の目を掠った。最悪だ。視界の端が欠けて、痛みは眼球から迸るように身体を駆ける。身体は宙に放り出され、思わず着地と同時に地に手をついた。だけど、歯を食いしばり鉈を持つ手に力を込める。きっと、止まった瞬間殺られる。

「七海、」
「大丈夫だ、まだやれ──」

 呪霊を睨みつけた瞳が、動きの止まった灰原の横顔に見開かれていく。ゆっくりと伏せた黒い睫毛は何かを噛み締めるように穏やかに凪ぎ、「うん」と小さく声が聞こえた。口角を上げながら私へと向けられたその顔はやたら満足げで、まるで、楽しかったって、悪くなかったって……ありがとう、って、言ってるようで。

「あとは頼んだよ」

 高らかに、灰原らしい人懐っこい笑みで、くしゃりと笑った。──刹那、その上半身が、ずるりと下半身から滑り落ちる。少し遅れて下半身がぐらつき、枯れた落ち葉の上へと倒れた。

──なんで……

 脳に落ちた言葉は、音にはならなかった。なんでだ。なんで、なんで、奪うんだ。お前が死んだら、お前だから、お前なら、こんなクソみたいな世界でも彼女を幸せに出来ただろ。鬱陶しい雨が降ったって、彼女を笑顔に出来たのは私じゃなく灰原だった。だから野放しにしていた想いだって捨てようとした。二人が笑ってる世界を外から眺めることが今は少し苦しくたって、それがいいって、その方が彼女のためだって、そう、思ったのに。

「ナメやがって……」

 もう充分時間は稼いだだろう。帳の外には彼女もいる。あの子供たちは保護され、家に帰りこの後も生きる……灰原を、犠牲にして。撤退するべきだ。土地神ならばある程度ここから離れれば追っては来ないだろう。もう、ここに止まる理由はない。だけど、

「……」

 気付けば鉈を振り下ろしていた。こいつを殺すという思考だけが傷だらけの身体を動かし、眼球の痛みすら神経を掠ることはなかった。殺す、殺す、呪いを、諸悪を。ただ、それだけが私の感情を埋め尽くしていた。

「七海!!」
「!」

 思考を手放していた朦朧とする私を現実へと引き戻したのは、他でもない……今一番聞きたくなかった声だった。急激に沈んでいくアドレナリンに、思い出したかのように瞳の傷が疼く。胸に負った、痛みさえも。

「もう子供たちは平、気……」

 駆け寄ってきた彼女の目が、横たわる灰原を捉え、瞠目していく。あけすけになった瞳孔が揺れ、滲む前に彼女はグッと目を閉じ、歯を食いしばった。握られた拳は瞬く間に白くなり、内側から湧き出た赤が這うように彼女の手を汚した。

「……帰ろう、三人で」
「……ああ、」
「行けるよね。私、援護するから」

 視線を合わせ、一つ頷く。ほぼ同時に彼女は呪霊へ、私は灰原へと駆け出した。灰原の腕を自分の肩に担ぎ、立ち上がる。その身体は思った以上に軽くて、顔を顰めた。

「帰ろう、灰原」

 そう、返事のないまま足を進める。彼女の声に冷静になった頭は一気に全身の痛みだけでなく疲労をも私に与え、顔が歪んだ。だけど、彼女は準一級だ。この間の昇格試験こそ、呪霊が特級に羽化したが故にあんな怪我を負う羽目になったが、一級相手であれば私たちのようにはならないだろう。それどころか援護と言わず祓ってしまえる可能性だって、

──……なんなんだ、これは。

 昨日彼女に熱があるんじゃないかと詰め寄った原因でもある違和感が、再び私を襲った。思わず止まった足は、私に警鐘を鳴らしているかのように動きはしない。

 彼女ならば祓うくらいのことを言ってもいいはずだ。なのに、援護すると言った。まだ本調子じゃないからか? いや、次の日にはこちらの心配をよそに出歩くような女だ。そんなものを気にかけるとは思えない。なんだ? 考えろ。じゃなきゃきっと、取り返しのつかない事に、

「!」

 少し先を何かか私たちを追い越し、それは大木に衝突し動きを止めた。

「──嘘、だろ」
「……ない、……力…が、…」

 ゆらり、頭から血を流し両腕をだらりとした彼女が立ち上がる。何かを呟いているが、こちらからは到底聞こえるような声量じゃなかった。

 なんで彼女がああも容易く吹き飛ばされてるんだ。違和感。
 追い付いた呪霊が彼女へと向かい、それを彼女は避ける。違和感。
 振り上げた足は呪力がこもっているも、一級相手には大したダメージにはならず、彼女の舌打ちが聞こえる。違和感。

 それは押し寄せる波どころか、雪崩のように私へと押し寄せ、混乱していく。目の前で彼女はただ呪霊の攻撃を受けることに精一杯みたいだ。なんで、そんな戦い方見たことがない。なんで、術式を──。

 ハッとした。まさか、と言った五条さんの言葉が脳裏をよぎる。それを言わせようとしなかった、彼女も。

『いーの。もうどう足掻いたってあいつに勝てないし』

 まさか。こめかみに汗が一つ、滴る。それは氷のように冷たく、背筋から私を凍らせていく。

「ッ──!!」

 呪霊が私の目を、そして灰原の身体を両断した技を繰り出す動作に移り、私は彼女の名を呼んだ。もどかしさに苛立っているようだった瞳が私を捉え、ああ、と口元が小さく声を漏らす。そして、笑った。灰原、みたいに。

 心臓が鷲掴みにされた気がして、嫌な予感に声を荒げた。

「おい! 逃げろ!! 君の、君の術式はもう……っ!」

「くれてやるよ。私の身体、どこだってね」
「!」

 瞬間、彼女の呪力が跳ね上がった。それは呪力のみで一級呪霊の攻撃を跳ね返し、そして、

「ッ──!」
「──!!」

 彼女の頭の中で、何かが弾けた。
 何が起きたのか、理解も出来ないままゆっくりと彼女がその衝撃に背後へと背中を仰け反らせる。も、ダン! と音を立て地面に足を付け立ち直す。今度は、彼女の腕が吹き飛んだ。

「ああ、そっか、これが……ふふ、」
「……」

 喉を鳴らし飲み込んだ唾がやたらと重く、胃に流れていく。手にかいた汗は止まることを知らず、最後にしたマバタキはいつだったか思い出せない。ただ、目の前で笑う彼女は、あの踏切の音が鳴り響く白昼夢の中で見たような異物感を漂わせていた。

「何してんの! 走って!」
「っ、」

 彼女の声に再び走り出す。呪霊の気を引き並走するようにじりじりと目的の地点、帳の外に近付いて行った。あと少し。だが、彼女が呪力を使う度、攻撃を受けていないはずの身体から血飛沫が上がる。

「!」

 無我夢中で走ったその先、足が明らかに今までと違う地面の感覚を捉えてハッとした。そこは帳の外で、土地神の生息範囲外だ。彼女は、そう思い来た道を振り返れば、片腕のないシルエットが森から顔を出す。

「みなさん怪我は……、っ、急いで高専に戻ります! 乗って!!」

 駆け寄って来た補助監督は私たちの姿に顔を歪め、それでも私から灰原を受け取りそう促した。私は今にも倒れそうな彼女を支え、後部座席へと乗り込む。車の中は一気に、血の匂いで溢れた。

「七海、」
「……」
「なな、み」
「なんです」
「七海、ねえ……そこにいる?」
「っ、クソ……!」

 私の名を呼ぶ彼女に視線で答えるも、目を閉じた彼女には分からない。鼓膜の破れた彼女には、私の声は届いていない。クソ、クソ、どうして。

「私は、ここにいる……っ、ここにいるから」

 そう言って一つしかない手を握れば、私たちの肩がぶつかり合い、彼女の頭が私の方へと預けられた。まるで、沖縄の空港で過ごした、あの夜みたいに。

「よかった……七海の、匂いだ」

 そう微笑む彼女の声はひどく穏やかで、ようやく安心したというようだった。早く、早く辿り着いてくれ。奇跡なんてない。神なんてものはもっと信じない。その神にやられたんだから当然だ。

 彼女なら持ち堪えてくれる。それだけの力を持っているし、それなりの過程を彼女は踏んでいる。だけど、なら灰原は持っていなかったのか? 運が悪かったのか? そんなもので、片付けられる命なんて、ひとつもないというのに。

 混乱する頭は答えの一つも見出すことは叶わない。もう、縋らずにはいられなかった。祈らずにいられなかった。この傷だらけの小さな手を包み込み、額に当て願った。このクソみたいな世界の中だろうとも、彼女の温もりが、消えてしまわないようにと。