四話


 夏が終わった。静かなはずの秋も慌ただしく過ぎ、冬の寒さにいつもより三人の歩く距離が縮まり白い息を吐きながら過ごした。年末年始も帰らないという彼女に、一度は出た高専を灰原と一緒に戻った時に見た彼女の驚いた顔。その後「バカだね」なんて言いながらも溢した笑顔に安堵して、その日は夜通しテレビを見たりゲームに付き合わされたりした。

 雪の積もった日には引きずられるように外に出て、開始音のない雪合戦に明け暮れ彼女が引いた風邪も、灰原と二人で看病した。私たちが出会った春になり、今度は三人で耳に桜を引っ掛け、桜吹雪の舞う中で呪霊退治をした時の彼女は至極楽しそうだった。不謹慎だと思いながらも、それを綺麗だと思った自分の方が不謹慎で、瞬く間に春も終わった。

 初めての京都校との交流会なんてものは、三年の特級呪術師たちのせいでなにをする間も無く終わって、気付けば去年、沖縄で過ごした日になった。──彼女への想いはまだ、夏の陽炎みたいに私の前で揺れている。

「あっっっっつ!!」
「確かに暑いけど、僕は夏好きだよ」

 夏油さんにも夏が付いてるしね、なんて意味の分からない理論にツッコむ気力はなかった。二〇〇七年。この夏は茹だるような猛暑が続き、東京でも最低気温が三十度近い日もあった。立っているだけでもこめかみから垂れた汗が首筋を伝い、溜め息さえも熱風に感じる、そんな夏。

 昨年頻発した災害の影響もあって呪霊も多く、準一級の彼女はいよいよ本格的に一級への試験に向かうため一人任務に行くことが増えていた。そして今日も今日とて溶けてしまいそうな気温の中、今回は久々の同期三人での任務だった。灰原も、そして気温への不満を漏らす彼女も、どこか肩の力が抜けている気がする。油断とかそう言ったものではなく、この空気がただただしっくりくるんだ。例えそれが、今だけのものだったとしても。

「また沖縄行きたいなー次はちゃんと海行く!」
「アロハ着てね」
「そうそう、ハートのグラサンして」
「勘弁してくれ」

 去年の苦い記憶が脳裏を掠めてそれだけ呟けば「えー」と二人からは不満の声が上がった。もうあんな格好を、しかも三人並んでするなんてごめんだ。いや一人でするのはもっとごめんだが、でも、あの日を思い出す度私に寄りかかる彼女の体温が同時に浮かぶ。というよりは、あの時の自分の感情が、だ。凪いだ湖に降る彼女と言う名の一滴の雫は、静かに、だけど確かに水面を揺らす。そして奥深く沈み込んでは、一体化してしまう。それを取り除く術を私はまだ知らないが故に、非常に厄介だ。

「あー早くお風呂入りたいプール行きたいアイス食べたい」
「せめて一つにしたらどうだ」
「女の子は貪欲なの」
「うちの妹もこんな感じだよ七海」
「灰原の妹かぁ、可愛いだろうな」

 まぁね、と言う灰原は少し照れ臭そうだ。妹も呪いが見えるらしいが呪術師にさせる気はないらしい。初めてこの二人に会った日に呪術師がどんなものなのか分かっているのか疑問だったが、今となってはそんな疑問自体が間違っていたのだと分かる。二人は呪術師というものを真剣に受け止め、やり甲斐を持ち向き合っている。呪いが見えるから高専に来ただけの、知れば知るほどクソみたいな職業だと思う自分とは、違う。きっと、この二人の持つ流れに乗って私は、ここにいるに過ぎないんだと、思う。

「あれ、雨?」
「うわ! ちょっといきなり本降り!?」
「天気雨か」

 ポツン、と違和感を感じ空を三人揃って見上げた瞬間、小粒ながらもしっかりとした生温い雨が降り始めた。途端に慌ただしくなる足踏みに、「こんなシャワー望んでない!」と空に歯向かう彼女は、本当に恐れるものがないらしい。

「退散ー!」
「また冬みたいに風邪引いたら大変だしね」
「バカは何とかって言うのに、奇跡は起こるものだな」
「あーん? なんのことかな七海? 大体、奇跡なんて信じてない奴がよく言うよ」

 三人並び、吸い込む間もなく地面に溜まった水を踏み締め駆けていく。時折、彼女の言葉は私の核心をつくように容赦なく刃を向ける。そうだ。奇跡なんてものは存在しない。全ての結果には理由があり、過程があり、事実がある。それを知らず最終回だけ見た人間が、奇跡なんて言葉に煌びやかな装飾を鬱陶しいほど付け光らせているだけだ。なにもない場所には生まれず、彼女の風邪だって雪合戦という子供染みた原因がある。そうやって見透かされる度に、いやでも思い知らされるんだ。私は彼女が、好きなんだって。

「あー五条悟いないかなーそうすれば無下限で雨も凌げるのに」
「便利だね」
「さすがに怒られるだろうな」

 五条さんはどうでもいいにしても、それよりも五条家に。というよりそんな使い方を提言してくる人間がいることに腰さえ抜かしてしまいそうだ。
 雨の匂いが辺りに充満し、走る私たちの肺をも侵していく。

「無下限みたいにはいかないけど、」
「!」
「お、灰原さすが」

 視界の片隅で黒が羽ばたき、それは彼女と灰原を飲み込んだ。灰原のジャケットの中、肩の擦れそうなその距離で二人は仲睦まじく笑う。

「七海も入りなよ」
「うん、七海が風邪引かないとも限らないしね」

 その世界から二人が顔を覗かせそう言う。だけど、

「……いや、私はいい」

 なぜか、その世界に入る勇気はなかった。淀んだ渦が胸を掻き回し、たったひとりだけの世界を暗転させていく。

「それで風邪引いたって看病してやんないからねー」
「そんなこと言ったってしてくれるから大丈夫だよ七海」
「しないってば!」

 二人の会話は聞こえなかった。いや、もう聞きたくなかった。白雨は平等に私たち三人へと降り注いでいるはずなのに、雫に反射して目視出来る陽の光は彼女と灰原の周りにだけあるようだ。きっと、互いのみが視界を埋め尽くす二人は気付いてはいないんだろう。その上空に掛かる、虹色にも。それはまるで笑い合う二人を祝福しているようだなんて、私が、思っていることさえも。



「なにしてるんだ」

 そう言った声にはきちんと怒気を込めた。例え彼女に怖いものがないと分かっていたって、人の言うことなんて聞いたことがないと分かっていたって、廊下についた足も、眉間のシワも、真剣さを受け流してしまう彼女にきちんと伝わるようにそう言った、はずだ。

「なにって、コンビニでも行こうかと」
「……」

 なのに、医務室に様子を見に行ったものの、もぬけの殻を作り上げていた怪我人はそうあっけらかんとするものだから、どう伝えるべきか悩む。さらに深まったシワは彼女のせいで一生涯残ってしまいそうだった。

「そんなもの、今外に出てる灰原に頼めばいいでしょう」
「えーもう傷なんてないしこれ以上寝てたら身体鈍っちゃうよ」
「忘れてるのなら言うが、君が怪我をして戻って来たのは一昨日だ」

 しかも、ほぼ危篤状態で。そう真っ直ぐ咎めるよう見つめたって、彼女はわざとそうしているかのように視線を合わそうとはしない。二日前、五条さんの腕に抱かれた彼女は、その軌跡に自分の足跡を残すよう深紅を溢していた。

 一級昇格試験へと午前中に出て行った彼女の帰りが遅いこと、いつまで経っても「楽勝だったわ」と、掛かって来ない電話に私と灰原は担任の元へと訪れた。そこで聞かされた彼女の安否不明の言葉と、近くで任務を終えていた五条さんが応援に向かったことを聞かされた。そして、もう時期ここに到着することも。──瞬間、駆け出していた。

 なにを考えていたのか、今はもう思い出せない。ただ、走っている感覚も、唐突に上がる息も、心臓の痛みには敵わなかったことだけが鮮明に残っている。 

 辿り着いた高専入り口に立つ鳥居を目にした瞬間、二つなければいけないはずの影は一つに重なり、景色に溶け込むように浮かび上がって思わず足を止める。喉が聞いたこともない音を発したのが分かった。唾を飲み込んだはずの喉は枯れ、声は気管に詰まり息が出来ない。

「──!!」

 後から来た灰原が私を追い越して真っ直ぐに五条さんへと向かい、彼女を代わりに抱えては踵を返す。ひたすら彼女の名前を呼ぶ灰原の声が、やたら鼓膜の奥で響いては、立ち竦む私の横を通り過ぎ、置き去りにして消えていった。

「……んで、」

 灰原と同じように私の横を通り過ぎようとする五条さんは、その服に彼女の血をベッタリとつけながらも取り乱すことなく、ゆっくりと歩いている。……自分たちは呪術師だ。誰よりも死に近く、誰かの命を救う仕事だ。分かってる。誰かがやらなければならないことを。分かってる。いつだって真っ先に犠牲になるのは呪術師だってことも、それが、前線に立つ上で当たり前だと言うことも。

 昨年の星漿体、少女の護衛任務然り、今日の彼女への援護然り、この特級呪術師で“最強”の男が出した結果以上のものを出せる人間はいないだろう。それに加え生まれた瞬間からこの道しか存在しなかったこの男からしたら、こんな事態は何百回とあるうちの一つなのかもしれない。だけど彼女は、あんたとあんな言い合いをしていたじゃないか。私に「クソ弱」と声を揃えて、私たちとは違う、だけど確かな関係を築いていたじゃないか。

「……」

 これが呪術師か。分かってた。だけど、本当にクソだ。そう思えば口にしようとした疑問も、全て消え失せた。私はそのまま、私の漏れた声に足を止めた五条さんに視線を合わせることなく、その場を去った。

「そんなこと言ったってさ、一級が特級に羽化しちゃったんだから怪我くらいするよ」
「……」

 めちゃくちゃムカつくけど、そういう彼女は笑っている。途端、私の中に芽生えたものは、指の先に出来たささくれのような違和感だった。いつもの彼女ならあんなの聞いてないだとか、もう少しで倒せただとか、もう五条さんによって祓われた呪いだったとしたって次は祓ってやるとか、そんな勝ち気で何にも恐れない言葉が彼女の声で脳に再生されるのに、目の前で実際彼女が紡いだ言葉は上手く飲み込めない。

「変だ」
「は? なにが」
「君が負けて悔しがりもしないなんて」

 そう言った言葉の先で、ようやくこちらを向いた瞳が瞠目する。だが私は何かに駆り立てられるように、構わず彼女へと一歩その距離を縮めた。

「熱でもあるんじゃないか」
「はぁ!? ちょっと七海!? ない! ないってば!」
「信用出来るわけないでしょう。家入さんのところへ」
「なんだよ、心配して来てやったのに全然元気そうじゃん」

 私と彼女は、聞こえた声に向き合っていた身体を揃ってそちらへと向けた。揺れる白髪に、顔を顰めたのは言うまでもない。

「七海、熱あるの絶対あいつだよ」
「あ゛?」
「……確かに」
「あ゛あ゛ん?!?」

 嫌味十割で視線を明後日の方へと向けそう呟けば、五条さんはそう言った後に盛大な溜め息を溢した。そしてぶっきらぼうにその長い足を彼女へと進め、その度にガサガサと揺れていた手に持った袋を彼女へと差し出す。明日世界征服でもする気? なんて彼女に、お前俺をなんだと思ってんだよ、とぶつくさする五条さん。そんな彼女が一つ、袋の中身を手に取った。

「血、足りてねーんだろ」
「あんた血がトマトジュースで出来てると思ってんの?」

 その手に握られた赤いパッケージは、半透明の袋の色さえ変えていた。んな訳あるか、なんていつものように悪態を吐きながらも、一昨日のことがあったからか今日の嵐は怖いくらいなだらかだ。というか、

「……?」

 ちらり、五条さんのずれたサングラスから放たれる視線が自分へと向けられ、なんだ? と心で呟く。だがそれはすぐに眼前の彼女へと戻り、光を吸い込んだ浅瀬の海を閉じ込めたような六眼が細められた。

「お前、まさか」
「!」

 瞬間、腕を伸ばした彼女の手が驚く五条さんの胸ぐらを掴み、引き寄せる。自らも身体を傾け目の前で二人の顔が近付いていく光景が、瞬く自分の目にはスローモーションに見えた。

「うぐ!?」

 刹那、口籠もった声の後、ぶしゅっ、と液体が噴射される音がした。

「げほ! ごほ……! てっめえ!」
「うん、変なもんは入ってないか」
「入れるか!」
「今までの無礼はこれでチャラにしてあげる」
「なんで上から目線なんだよ!」

 そのままくるりと反転し五条さんに背を向け歩き出す彼女に、「おい!」と声が上がる。だけど彼女は足を止めずに「ありがとねー先輩」なんて呼んだこともない名称を放ち、手にした袋を揺らした。だから私も赤く染まった口元を悪態吐きながら拭う五条さんに一つ会釈をして、彼女を追った。

「やりすぎじゃないか」
「いーの。もうどう足掻いたってあいつに勝てないし」

 こんくらい可愛いもんだ、と呟く瞳に、色は灯っていなかった。──まただ。いつもの彼女からは想像もできない言葉。だけどその明確な何かを、私は見つけられやしなかった。

「にしてもさ、」
「……なんです」

 思い出したように笑い出す彼女に怪訝の目を向けた。彼女がくすくすと笑う度、動く肩と連動するように腕にかけられた赤いビニールがガサガサと揺れる。

「いや、さっきの七海、らしくないなって」
「……」

 確かに、思い返せばなにをそんなムキになっていたのか。いや、あんな彼女を見れば当然だ。ただでさえ難しい反転術式。他者に使うとなればその難易度は更に上がるそれを使える人間がいた事は不幸中の幸いだ。だが言い換えれば、家入さんがいなければ彼女は死んでいた。恐らく、確実に。

「私だって」
「わかってるよ」

 私の言葉を遮って、揺れていた肩がこちらへと向く。自然と足を止めた私たちは、向かい合うように互いを見つめていた。

「七海が優しいこと」

 いつかの手にした桜の花弁のように柔らかく笑う彼女に、チクリと胸が傷んだ。まだ望みを捨てていなかった灰原と違って私は、ピクリとも動かない彼女の姿を見た瞬間、もう死んでいると思った。だから、そんな言葉を掛けてもらう資格はない。きっと灰原より、彼女を想う権利も。

「心配してくれてありがとう、七海」
「……いや、」

 やめてくれ。いつだって言わなきゃいけない言葉は言えないまま、私の中に積もっては呼吸を鈍くする。捨てるべき感情は、まだ捨てられない。