二話


 授業の中休み、灰原と彼女はなんでもない会話を繰り返し、私は文庫本を片手に席についていた。時折灰原が話を振って来たり、彼女が寄り掛かって来たり、勝手に菓子を口に突っ込んできたり、髪を弄られたり、エトセトラ、エトセトラ。そんな手持ち無沙汰を私で解消する彼女にもだいぶ慣れた。構わず読書ができる、くらいには。

 ……いや、嘘だ。私はその時、彼女の指先に意識を集中させ、脳にはこの前読んだ本のクソみたいに甘ったるく吐きそうな文字列を反芻する。こればっかりは意思に反して起こる現象のようなもので、抗うよりは諦めた。その方が、手っ取り早い。

「お、暇そうじゃん」

 そんないつも通りの教室を覗く白髪と黒髪。ポケットに手を突っ込みながら入って来る様はまるでチンピラだ。はぁ、なんてことだ。外は快晴。雲一つない空が広がっている。というのに、この教室に嵐が巻き起こるまで、あと十秒足らずであることが確定してしまった。

「中休み忙しそうにしてる訳ないでしょ。頭大丈夫?」

 この二人は何故だかすこぶる相性が悪い。水と油ように、街にいる威嚇しあう猫のように。こちらに被害が被るという点で言えば、雨と風なのかも知れない。それぞれであれば対処のしようがあるし可愛いモノだが、合わさると最悪だ。相乗効果で互いのクソな部分がこれみよがしに露見されてしまう。似た者同士だから反発する典型。つまり、子供だ。

「お生憎、俺たちも暇じゃない。だがこのイケメンかつ天才で」
「じゃあ来んなよ。頼んでねー」
「あ゛ぁ゛ん!? 最後まで聞けよ!」

 五、四。カチ、カチ、と染み付いた秒針の音に合わせカウントダウンをする。夏油さんは灰原と笑顔で雑談を始めた。この光景ももう、皆慣れ始めている証拠だ。

「この俺がお前らの稽古してやろうってわけ? 分かる? 弱っちいからさ」
「あ゛?」
「まぁお前じゃ俺に触れもしないだろうけど。激弱だから」

 三、二。

「言ってなよ。そのクソだせえグラサン顔面にめり込ませて棺の中まで悪趣味晒させてやるからさぁ!」

 一。

「あ゛ぁ!? 誰が悪趣味だ! 」
「今日こそぶっとばす!!」
「今日こそ泣かす!」

 零。

 スッと手を伸ばし、立ち上がり駆け出す寸前だった彼女の首根っこを掴む。視線はまだ、文字の続きだ。夏油さんも灰原と話しながら五条さんの腕を掴んでいる。今日が嵐だなんて天気予報はない。まぁこの二人を前にしたら、その予報士は秒でその職を手放すのだろうが。

「七海、そしたら着替えて外集合。いいかい?」
「分かりました」

 それじゃあまた後で、と中指を立てる五条さんを引きずりながら教室を後にする夏油さんを横目で見送り、仮にも女性から発せられる単語とは思えない暴言を吐く彼女を離す。そのままパタンと閉じた本を机にしまって、椅子を引いた。

「アイツ、ほんっっっとムカつく!」

 恐らく、今頃五条さんも同じことを叫んでいることだろう。その言葉もまだまだ短い付き合いながらすでに耳にタコが出来るほど聞いた気がする。「楽しみだね」なんて暢気な灰原は夏油さんを尊敬しているらしく、意気揚々と着替えを始めた。

「はぁーヘイト溜まったから絶対ボコボコに、」
「だから、ここで着替えるなって何度言わせるんだ」

 ごくそれが当たり前かのように制服のジャケットを脱ぎ始めた彼女に顔を顰めれば、だって移動面倒くさいじゃん、と何故か彼女が唇を尖らせる。なら僕らはこっち向いて着替えようよ七海、といつもと同じ問答に灰原が同じことを言って、私は溜め息を吐く。灰原は実家に妹がいるからある程度慣れているのかも知れないが、そう言う問題じゃないだろ。

 気になるんだ。布の擦れる音、足踏みの音、会話しながらもその動きに合わせて漏れる声。全部がイメージとして脳に描かれてしまう。こればっかりは、抗い続けなければ私の沽券に関わる。だからいつも気を紛らわせるために頭の中にある何かを引っ張り出して、それだけに集中する作業をしている。これは酷く面倒だ。彼女がたかが隣の教室に移動するだけのものよりも、遥かに。

「七海、最近鍛えてるでしょ」
「ッ!?」

 今日は小数点を無心で数えながらジャージに手をかけた私は、その背後に忍び寄る影に気付く事が出来なかった。ヒヤリとした手が無遠慮にシャツを捲り上げ、脇腹辺りに触れたそれにぞわりと肌が泡立ち思わず肩が跳ねてしまう。

「なにして……!」
「あー僕もそう思ってたんだ。七海の身体見る度変わってくなって。あ、僕も触らせて」
「は!?」
「うわ、硬! 見た目より全然あるね!」
「おい……!」

 するりと彼女の手だけじゃなく灰原の手までもが私のシャツの下で蠢いている。ぺたぺた、ぺたぺた、私のことなど構いもせずに、ここはこんなになかっただの、ここはまだまだだとか好き放題だ。

「だよね。まぁ近距離型だからある程度自然とつくだろうけどさーいいなぁ」
「え、こうなりたいの?」
「なれないでしょ。体格的に」
「……」

 べりっと二人の頭を遠ざけるように剥がせば、文字するのも憚られる声を出す二人には私のこめかみに浮き上がった血管は見えないらしい。全く、と早々にジャージを羽織り、ファスナーをきっちり上まであげれば、二人はすでに早くしろと言いたげに入口で待ち構えていた。

 はぁ、とひとつ溜め息を吐きそこに足を向ければ、待ちきれないと言った風に二人が廊下へと駆け出す。まだまだ高い廊下の窓から差し込む太陽の光が映し出すその姿をぼんやり眺め、先程の感覚を思い出してしまった。

「……クソ、」

 押さえた口元からは、そんな熱を帯びた悪態が漏れた。







「来たね」
「遅くなってすみません」
「いや。と言っても彼女と悟はもうやりあってるけどね」

 外に出ると灰原と並んで立っていた夏油さんにそう軽く頭を下げた。柔らかく返された否定の後、肩を竦めた彼の視線はその先へと続き、全く、と言葉を溢す。その声音には、呆れと感心がこもっていた。

「彼女、すごいな。あの悟とあそこまでやり合えるなんて」

 二人に並びそのやりとりに目をやれば、この話が五条さんの口から出た時は取っ組み合いでも始まるんじゃないかと危惧していた私の思考に反して、きちんと手合わせをしていて少し驚いた。まぁ罵り合いながらやっている辺り、二人らしいし、予想通りなのだが。

「そうなんですよ!! 僕たちより強くって、本当すごいんです!!」

 灰原はテンションが上がると語尾に力が入る。初めて会った時の声量で常に来られたらどうしようかとも思ったが、それは要らぬ心配だった。今は憧れの夏油さんといること、その人に稽古をつけてもらえるという高揚感、それと、純粋に同期を褒められたことに対し歓喜しているようだった。他人のことをまるで自分がそう讃えられたように喜べるのは灰原の長所で、私にはないモノだ。

「ふふ、まるで彼女が好きみたいだな」

 なんでもないことのように、肩を揺らし揶揄いを微かに滲ませて笑う夏油さんの言葉に、何故か私がヒヤリとした。自分の気持ちが見透かされたとか、そう言ったモノじゃない。スッと体温が奪われ、赤い心臓が紫へと変わっていくような感覚。そんな私の髪を靡かせる風だけが、やたらと爽やかだった。

「はい、好きです」

 真っ直ぐ彼女を見据えた瞳はそう告げた。先ほどまでの声量はなくとも、力強いままのその声は私たちの間を駆け、消えていく。目を見開き口元を抑えた夏油さんはそのまま視線を明後日の方向へ泳がし、灰原にも私にも聞こえないぐらいの声で「まずったな」とだけ呟いた。

 ……なんとなく、灰原の気持ちには気付いていた。この空のように澄み切った瞳は彼女から逸れることはない。だから、私は静かに目を閉じて、ゆっくりと開く。だが、心臓の色は元に戻りはしなかった。なにも考えるな。それが、一番いい。

「てめ! さっきから顔ばっか狙ってんな!?」
「クソださグラサンめり込ませるって言っただろばーか! もう忘れた? 痴呆かよ!」
「あ゛あ゛!?」

 私たちの沈黙を掻き消すいつもの罵声が響いた。やれやれと言うように夏油さんは頭を抱え、「困った奴らだ」と溜め息を吐く。同感だ。だけど、今回ばかりは助かった。あと少しで、碌でもないことを口走ってしまうところだったから。

「七海、」
「……はい」

 呼ばれるがままに、夏油さんの後を追って駆け出した。睨み合った二人が体術だけでなく術式までも繰り出しそうな動作に移り、私はいつものように彼女の首根っこ、ではなく、腕を掴んだ。自分から彼女に触れたのは、初めて顔を合わせ彼女が私の頬を摘んだ時以来だった。

「代わってくれないか」 
「はぁ!?」
「いいですよね、五条さん」

 彼女の顔も見ずに告げた言葉に、目線の先にいた五条さんは口角を妖しく三日月型に変える。それを返事と取った彼女は、不満そうながらも私の腕をすり抜け一歩後ろに下がった。

「お願いします」
「手加減いるか?」
「……」

 むしゃくしゃしていた。前から、軽薄で人の勘に触るような言動の多いこの男に。
 むしゃくしゃしていた。容赦なく、容易く私たちから彼女の視線を奪ってしまうこの男に。
 むしゃくしゃしていた。灰原が彼女を好きだと言った時に、私もだと言わない自分に。

「いると思いますか」
「へ、後悔すんなよ七海」
「しませんよ」

 一番嫌いな言葉なんで。そう言って駆け出した。数秒後。鬱陶しいくらい眩しい空が視界に広がった私に「クソ弱」と重なった声が降って、余計むしゃくしゃした。