最終話


「──……」

 目を開けた先に見えた光景は、夢だと思った。
 そこは地獄とは縁遠い暖かな木漏れ日が降り注いでいて、目覚めたばかりの瞳には些か眩しすぎる。咄嗟に顰めた視界に手の平をかざしたその先で、チラついた人影を見つけ目を凝らした。下から見上げたその人の髪が風に靡いて、それを耳に掛ける仕草は無条件で私の胸に愛しさを落とす。誰か、なんて問う必要もなかった。私がそう思えるのは、どの世界においてもたった一人なのだから。

「あ、やっと起きたね」
「ええ、私はどのくらい寝て」

 ふに、と頬が摘まれ、言葉が遮られた。無遠慮に伸ばされた頬に顔を顰めれば、彼女は小さく「敬語」と呟く。ああ、そうだったな。そう思い「悪い」と言ってその手を取った。そのまま彼女のただ柔らかで美しいだけの手の平に頬を寄せ瞼を閉じれば、上からくすくすと綿毛のような声が落ちてくる。

──穏やかな時間。私が何時間寝ていたのか、ここがどこかはもうどうでもよかった。彼女がいる。こうして触れることが出来る。……声が、聞こえる。それ以外を私は望んではいない。

「また寝るの?」
「もう少しだけ」
「えー、私はもう飽きちゃったよ」

 そうだ。沖縄での任務だって、その請け負った仕事よりも彼女をそこへ止まらせる方が大変だった。困ったことに彼女は私がじっとしていて欲しい時ほど行動を起こす。閉じた瞼を再び上げれば、彼女は微笑んだまま私を見下ろしていた。

 暖かい。まるで、彼女自体が木漏れ日なのではと思ってしまうほどに。その暖かさに触れたくて、手を伸ばした。その手は枝垂れる彼女の髪を掻き分け、その頬を滑る。私の頬に添えられていた皮膚がその表面を撫で慈悲むように視線を細めるから、そっと彼女を引き寄せた。

「……、」

 重なる体温は心地よく、唇を起点としてじんわりと全身に広がっては心を満たしていく。ゆっくりと名残り惜しむように離れた先で同時に開いた瞳と目が合い、同時に、笑った。前髪をくしゃりと絡ませながら額を合わせ、鼻先を擦り合わせ、そしてもう一度……唇が重なる。

「七海、」と彼女の声が私を呼んだ。高専時代からずっと、私はこの声が好きだった。何度も何度も反芻しては、いつだって感情を飲み込むことに必死になって、いつだって鼓膜にこびりつき、心臓に鞭を打つ私をよそに、いつだって、彼女が好きなのだと知らしめてくる。

「全部聞こえてたよ」
「……そうか」
「うん、七海が私を死なせないようにって頑張ってるの、わかってた」

 そう言って彼女が私の前髪を梳いて、背後に流す。その感触をゆっくりとした瞬きで感じながら、あの時間を思い出していた。きっと私の眉間にはこの穏やかな場に不釣り合いなシワが寄せられていただろう。だって、彼女は文字通り自分の身を犠牲にして私を守った。というのに、私はそれを出来なかったのだから当然だ。だけど、彼女は私のそんな不甲斐なさを掻き消すように額にキスを落とす。過ぎ去った時間に移していた意識を再び彼女へと戻せば、やはり彼女は微笑んだままだった。

「七海建人がそんな顔しない!」
「は?」

 上体を上げ、急にそう謎の主張をし出した彼女に自分でも随分間抜けな声が出たな、と思う。だけど彼女は一つ、私にニッと笑って見せた。そして誰もいない遥か先に向かい、また声を放つ。

「七海建人は自分の不甲斐なさに腹が立ったりしませーん!」
「なんなんだ急に……」

 彼女の奇怪な行動に私も彼女の膝から頭を上げ、そのなにを考えているのか分からない横顔を見つめた。だけど、彼女はその行動をやめはしない。

「なぜなら、七海建人なので!」
「……はぁ、それはどうも」
「七海は、周りをよく見てるし、冷静だし、なんだかんだ真面目だし」
「なんだかんだってなんだ」

 そこは普通に真面目だけでいいだろう、と視線で訴えても彼女は指を折るのに夢中なようだ。長くなりそうなそれに胡座をかいた膝に肘をつけ、自分の話をする彼女に呆れた溜め息を吐く。

 どうにも褒められるということ自体にピンと来なかった。だってそれらは、私にとってどれも当たり前で当然のことだったから。だが、捻くれてるし、面倒臭いとこあるし、ゴリラだし、と続けられる言葉にただただ悪口を言われている気分になってきた。閃いたかのように「あと心配性! あ、これは悪口だった」なんて、それは違うだろうともうツッコむ気すら起きない。

 だけど、彼女的には私の長所を握り締めた手が、ゆっくりと彼女の膝へと落ちていった。先ほどまで私が寝ていたそこへ、まるで宝物を見るかのように細めた視線が落ちる。大袈裟だ。そう思ったのに、

「それに、優しいから」
「!」
「だからね、七海」

 風が、吹いた。爽やかでからりと晴れた空に似合う、私たちを包み込む風。

──夢だと思った。私は自分の都合の良い幻を見ているのか、と。そう思ってしまうほど柔らかな空白。その時間の中で、私の見開いた瞳と、彼女の柔らかな視線が重なる。

「そんな顔する必要なんてないんだよ」
「っ、」

 不意打ちだ。そう、込み上げたものを堰き止めるようにまぶたを閉じた。どうして、君はいつも私を掻き乱すのか。核心をついて、私が否定する私を肯定する。その度に他でもない彼女に理解してもらえた気になって、その度に胸の内側は喜びを隠しきれなくて、その度に私は──彼女に恋をしてしまうんだ。

 そんな私の目尻を、涙を拭うようにどこまでも温かい彼女の指が撫でる。最期に触れた時にはなかった体温……それだけで本当に涙が零れてしまいそうだった。同時に、私抱えてきた想いも。だから、

「好きだ……っ」

 その手を取って、そう言った。目を開けた私は情けない顔をしていたかも知れない。だけど、震える息を堪えることが出来なかった。彼女が真っ直ぐに私を見つめている。見つめて、くれている。たったそれだけの事が、こんなにも私の心臓を掴んで離さない。

「私は君を……愛してる」
「うん、」
「だから」

 手を、伸ばした。瞬間、笑みを携えたままの彼女が胸に飛び込んで、ギュッと背に回した腕が私を捕える。──ああやっぱり、涙が出そうだ。諦めてばかりの日々で最後の最期にたった一つ、彼女だけは諦めきれなかった。諦めたく、なかった。彼女が愛しくて、愛しくて、死んでしまいそうなんて馬鹿げてる。でもだからこそ私も強く、強く彼女を抱き締めた。

「もう離さない……っ」

 その誓いと共に、この張り裂けそうな気持ちが彼女へと伝わるように、と。

「私も離さないよ。もう、そう決めたから」
「ああ、例えなにがあっても、」

 するりと彼女が顔を上げる。互いの頬を包んで、私たちは笑った。

「「ずっと一緒にいよう」」

 優しい空の下、遠くでは蝉がここに儚い命があるのだと鳴いていた。四方に敷き詰められた向日葵の花はその大輪を大きく揺らし、ざわざわと音を立てている。その中心で、私たちは一つになった。ようやく、一つになれたんだ。 

「じゃあ、そろそろ起きないとね」
「……ここに居続けるのは」
「退屈だからだめ。それに、」

 額を合わせた視線の先、控えめにした提案はすぐさま却下されてしまった。でも、そうだ、彼女は──

「みんなに会いたいから!」

──強欲なんだ。私がふっと口の端から息を漏らせば、彼女も小さく笑う。悪くない。まだ君と、君が好きな世界を歩けるのなら。

「だから、七海が起こしてよね。なんか私ばっかだったし」
「どうやって」
「眠り姫を起こす方法なんて一つしかないでしょ」
「全く君は……一度で起きなかったら引っ叩くからな」
「王子の所業とは思えない」

 誰が王子だ。私はそんな歯の浮くようなものになる気はないぞ。……だが、こう言い出した彼女は本当にしないと目覚めなさそうだから困ってしまう。まぁそれも今更だ。そしてきっと、これからも。

「じゃあ、あとで」
「ああ、」

 またね、とは言わなかった。それもそうだ、私たちの道はまだ、続いていくのだから。

 景色が音もなく消えていく。だけど青く澄み渡る空だけが、私たちが消える最後の瞬間まで……そこにあり続けていた。



「驚いたな」

 意識の浮上と共に上半身を上げれば、そこは高専の医務室だった。締め切られているカーテンの一角を開け窓辺に立った家入さんは、瞬かせた瞳を前触れもなく起き上がったであろう私へと向けている。身体は重かっただが、傷などによる痛みはなかった。それでも身体の反応は鈍く、少しふらつく頭を振って隣に並んだベッドに目をやる。そこには、未だ眠り続ける彼女がいた。

「お前と同じでずっとあの調子だ」
「……」
「いつ目覚めるか……いや、正直目覚めるかもわからない」

 悪いな、と呟く家入さんは、そう言って指に挟んでいた煙草を口に含み肺に吸い込んだ紫煙をやるせなさと共に月へと吐き出す。気にしないでください、と言おうとした口は音を発せず、思った以上に長い間眠っていたんだろうことが伺えた。

「おい、急に動くな」
「問題、ありません」

 ベッドを滑る私に家入さんが慌てて携帯灰皿へと煙草を押し込む。よかった。今度は少し掠れながらもしっかりと言葉を紡ぐことが出来た。ゆっくり、普段であればたった一歩で届きそうな距離を少しずつ進んでいく。それを家入さんはきっと険しい顔で見つめていただろう。

「家入さん」
「……なんだ」
「彼女は強欲なんです」
「は?」

 振り返って、ふっと笑った。瞠目した瞳を確認して、彼女へと視線を戻す。辿り着いたそこで白々しい眠り姫の横に手を付けば、パイプベッドの軋む音が静かな部屋に響いた。ゆっくりと肘に置き換え、その距離を縮める。顔に掛かった髪を手の甲で払い、その寝顔をじっくりと見つめた。起きる気配は全くと言っていいほどありはしない。……本当に君は、困った人だ。だから、

「起きるんだ」

 そう言って唇を重ねた。
 柔らかな感触がぶつかって、そっと離す。瞼を開けたそこで、ゆっくりとその長い睫毛が上昇した。

「嘘だろ、」

 背後でそんな声がする。だけど、見つめ合った私たちのそこに驚きはなかった。

 目覚めた彼女の腕が上がって、するりと私の首元に絡み付く。その口元はいつもの、何にも恐れはしない笑みが浮かんでいた。

「おはよう、王子様」
「ああ、おはよう。私の──」

──私だけの、お姫様。
 そう額に唇を落とせば、彼女がけらけらと笑った。静かに閉まる扉の音の後、私たちは揃ってそちらを見つめる。どうやら気を使わせてしまったらしい。どれくらいの頻度かは分からないが、恐らく家入さんはああやって窓辺に立ちながら私たちが目覚めるのを待っていたのだろう。悪いな、そう言った横顔からもそのやるせなさは滲み出ていた。その言葉を言うべきは私たちなのだろう。それと同時に、感謝の言葉も。

 あの状況から生き長らえた理由は分からなかったが、それでも色々な人が尽力してくれたのは確かだ。私たちを同じ部屋に寝かせていたのだって配慮の延長線上にあるのだろう。本当、感謝しても仕切れない。

「起きれるか」
「うん」

 そう言った彼女の背に手を回し、ゆっくりと上半身を上げた。いたた、と身体の突っ張りに声を漏らしながらも、視線の合った彼女はにへら、と破顔するから肩の力も抜けてしまう。でも、私にはまだ言わなければいけないことがあった。だから首に回されていた腕に触れ、落ちて来た手の平を包み込み視線を落とす。彼女はそんな私を、じっと見つめていた。

「ずっと、君の幸せを考えてきた」

 彼女に恋した時。五条さんに問われた時。彼女に、拒絶された時。そして、今も。私がここにいることが幸せだと彼女は言った。だけど私が聞きたいのは、知りたいのはそんな彼女がいない前提の答えじゃない。

『君が望むものを教えてくれ』

 もう内容さえ思い出せない映画の台詞。その先は聞かなかった。いや、私は聞けなかったんだ。聞くのが怖かった。あの台詞の続きを聞いたところで私たちに当てはまるとは限らない。だけど、重ねてしまったんだ。彼女のそれを聞いた時、そこに私は必要ないかも知れない。私ではどう足掻いても叶えてあげられないものかも知れない。……私は、彼女を想うことしか出来なかったから。

 それ故に目を背けた。降り注ぐ雨の音に耳を傾けて、外側からの喧騒も、自分の中から聞こえる声をも掻き消して聞こえないふりをしていた。だからこそずっと前を見据える彼女を強いと思っているだけだった。その先に何があるか、知りもせずに。

「でもいくら考えたところで私にはわからなかった。だから、教えて欲しい。君と私がここにいる世界で、私は君に何が出来るのか」

 どこかで私はそう長く生きないのだろうと思っていた。呪術師なんて仕事をしているのだからそれも仕方ないと思う。少なくとも私は、明日の約束さえ出来ない職業では未来を見据えることをしなかった。ただ日々己のするべきことをするだけ。面白みもなければ代わり映えもしない。そんな日常の中である日突然私は死んだのだろう。きっと、彼女がいなければ。

 彼女に出会わなければ、恋に落ちなければ、諦めたくないものも見つけられず、この感情さえも生涯知らなかったように思う。だから、少しでも返したいんだ。心から笑えることに、君が愛おしいと感じられることに……幸せだと、一人ではないと思えることに対して。

「七海は」

 彼女が口を開き、重なった私たちの手から視線を上げる。乾いた私の喉が一つ、苦しげに動いた。

「本っ当面倒臭いよね」
「……」
「ちょ、伸びる! ひどい顔になる!」
「普段とそう変わらない」

 心底言う彼女の言葉にその頬を左右へと伸ばしてそう言えば、「なんですって!?」と抗議が飛んでくる。が、知るか。この人はいつもいつも、毎度毎度、一度私を落とさないと気が済まないらしい。だが……知ってる。

「私は今、すっごい幸せだよ」

 彼女は、私の欲しい言葉をくれることを。

「……そう、か」
「うん。だから、あれ七海? もしかして泣いてる? そんな嬉しかった?」
「うるさい。泣いてない」

 だから、全てが緩んだ目頭から安堵が込み上げてきても仕方がないことだと、思う。例え顔を覆った私の顔を無理やり覗き込み鬱陶しさをひけらかす彼女にほんの少しイラッとしようとも、その溢れたものはもう隠しようがなかった。

「だからね、七海」
「!」

 パイプベッドが軋む音の後、ふわりと彼女の香りに包まれた。私の頭をすっぽりと覆った体温と子供をあやすように髪を撫でる仕草は酷く心地よく、だけど同時に、吐息を震わせる。

「これからも私を、幸せにしてね」
「っ、……ああ、もちろん」

 そう、彼女の背に手を回した。堪えきれず溢れた涙は、彼女の肩口に落ちては音もなく溶け込んでいく。

 この先私たちが同時に事切れることは恐らくないのだろう。その機会はきっと、失ってしまった。

 だけど……それでも、もうこの手に何もないと言うことはない。なかったとしたってきっと、彼女が代わりに握りしめてくれているから。せめてその瞬間までは醜くとも、意地汚くとも、生きていたいと思う。明日の約束さえ出来ない世界だろうとも、彼女を幸せにしたいと、思うから。だから──

 顔を上げれば、窓から差し込む月明かりが私たちの横顔を照らす。きっと雲のない夜空には、大きな満月がそれはそれは綺麗に輝いているのだろう。だけど私たちは見向きもしなかった。ただ互いを見つめていたくて、全てが始まった世界で、そっと唇を寄せる。

 永遠を願った。叶わないと思いながら、永遠なんてないと知りながらも。それでも今は、永遠だと思える想いを抱いて。

──君に、精一杯の愛を。