二十一話


「──……ぅ、」

 意識の浮上と共に上げようと思ったまぶたは思った以上に重たかった。それどころか一思いに串刺しでもされたかのような激痛が全身を駆け、思わず背中が丸まり呻き声が漏れる。長く永遠に続くとさえ思われた痛みの波を乗り越え、ふぅ、と長い息を吐く。そこでようやく、自分が寝転んでいることに気が付いた。普段見ることは滅多にない駅の天井、埃っぽいザラついた空気の中に混じる鉄の香りが鼻に抜ける。

──戻ってきたのか。

 ぼんやりする頭だろうと、それだけは分かった。まだ、生きてる。辛うじてだが、自分の耳に聞こえる鼓動は確かにそのことを私に教えていた。

「起きるのが遅いんだよバカ七海」
「……酷い挨拶だな」
「!」

 私の横に腰掛けた彼女に視線を向け、なんとも彼女らしい言葉にそう返せばその瞳がゆっくりと見開かれる。その仕草になんだ、と少し眉を寄せれば、彼女は頬を綻ばせ「ふふ、」と笑った。

「やっと敬語がとれたね」

 瞬間、まだあどけなさの残る彼女が教室を背景にそう言った光景が浮かんだ。それと同時に、高専に戻って来た時に垣間見いた表情も。あの時、一瞬曇った表情の原因は分からなかった。だって、思わないだろう。この人がそんな些細で、小さなことに対して傷を負うなんて。……だから、その頬へと手を伸ばした。桜の舞う日、私の中に棘を差し込んだ、あの瞬間の彼女のように。

「ちょ、っと!? なに!?」
「バカだなと」
「はぁー!?」

 ふに、と摘んだ柔らかなそこを強弱を付けて揉めば、彼女は「もう!」と不満を漏らしながら私の腕を掴んで引き剥がした。そんなことくらいはっきりと言えばいいのに、変なところを気にするんだな。そう新たな彼女を発見すれば、灰原と話をした世界の中でずっと付き纏っていた心の痛みがすっかりなくなっていることに気が付く。全く、自分がこんな単純だったとは思いもしなかった。

 だが、生きながらえた以上いつまでもこうしてるわけにはいかない。床に手を付け身体を起こし、目線が彼女の少し上をいく。いつ呪霊に襲われるかも分からない以上、この場から早急に離脱する必要があった。だけど、そんな緊張感を持ち合わせていない彼女がふっと笑うから、つられるように私も笑ってしまった。──これが全て終わったら言おう。彼女の笑みにそう思った。全ては、そこから始まる。

 麻痺した神経が徐々に四肢へと巡り、そこである違和感に気付いた。……濡れている。手の平全体にべったりと付着した湿度は水よりも重く、生温かい何か。視線を下ろせばそれは床に溜まり、座り込んだ彼女の足や服をも濡らしていた。

──え、

 ドクン、と脈が一際嫌な鼓動を私の身体に打ち付け、手の平を掲げたそこに目を見開く。目覚めた瞬間から鼻に付いていた鉄錆の匂いの正体が、そこにはあった。

「へへ、何度も失敗しちゃってさ」

 でも、出来て良かった。そう言った声は、聞いたこともない穏やかな声だった。瞠目し壊れかけた人形のように動きと思考をぎこちないものへと変えた私の視界に、彼女の腕が伸びて来る。彼女の少し冷たい指が緩やかに私の肌を滑り優しく包み込んでは、腰を上げた彼女が私に影を作る。

「七海、」彼女が私を呼んだ。薄暗くなったその小さな世界で、瞬きを忘れた私の視線がゆっくりと彼女を見上げ──息を、止めた。

「好きだよ」

 緩やかに上がった口角と、下がる目尻。羽根をたたむように降ろされた睫毛に──触れた、柔らかな唇。僅かに離れたそこで、彼女はいつものように笑った。その目尻から、一つの雫を落として。

「   」

 そして眠るように目を閉じて──私の胸へと倒れていった。

「……ナマエ、」

 何が起きたのか、分からなかった。小さく彼女の名を呼ぶ。だけどその静かな場所だろうと彼女の耳には届かなかったようで、その身体はピクリとも動きはしない。確かに彼女の重みは感じるのに、彼女はここにいるのに、

「……」

 だけど、彼女の声だけが聞こえない。私の名前を呼ばない。記憶の中の彼女はよく笑っているというのに、見下ろした彼女のその表情はただただ穏やかに閉ざされていた。私の両目は……両目?

 そこで、倒れる前までと見え方が違うことに気付いた。火を操る呪霊に瞬く間に焼かれ、私の半身は爛れて皮膚すらそこにはなかったはずだ。なのに、そっと触れたそこはピリリと痛みが走ったモノの、生身の肉が剥き出しになっているわけではなかった。──まさか、視線を彼女の顔から下方へと移していけば、僅かに見える肌の至る所にある生傷は痛々しく、身体を滴る色はすでに変色するだけでなく乾き始めていた。

「!」

 ずるりと、彼女の身体が落ちかけて咄嗟に支え……目を見開いた。仰向けになった彼女の吐き出したと思われる血が、買ったばかりだと言っていた服を赤く染めている。それを拭ったであろう、袖口も真っ赤だった。

『またね』

 遅れて聞こえてきた言葉。彼女から発せられるその言葉を聞いたのは二度目だ。一度目。それは私の目の前で……あの日、彼女が灰原に──
  刹那、ゾワっと、全身の毛が逆立った。

「っ──!」

 ぐっと、落ちてしまいそうな首を支えその小さな身体を強く抱きしめた。その身体が折れてしまいそうなほど引き寄せて、その鉄錆の臭いの中に彼女の香りを探すよう顔を埋める。どうして君はたったこれだけを治すために出来もしない他者への反転術式を繰り返して、自分を傷付けて、なんで、

──ああ、そうか。

 浮かんだ可能性に固く瞑った瞳を苦渋を携えたまま開く。きっと、これさえも君にとっては想定内だった。信じられないほどの治療回数も、それに起因しているのか。君は本当にこの日のために、私の……ために、

「バカだ、君は……っ!」

 本当に、救いようがないほどに、私の望まないことをしてくれる。私の気持ちなんて、知りもしないで。

 溢れ出しそうな感情を奥歯を噛み締めて押し込み、その腕を肩に担いで立ち上がった。

「っ、」

 途端、激しい立ちくらみに襲われたが、どうでもいい。前方を睨みつけ、一歩、足を踏み出す。

 君はいつもいつも自分勝手で、私の心配も、考えも、分かってるくせにこうして自分の道を突き進む。どうせならその時私がどんな思いに苛まれているかまで知ればよかったんだ。──許さない。君が言ったんだ。私に、死んだら許さないって。なのに君は死ぬのか? 私を生き返らせておいて、私に好きだと言っておいて、私の返事も……聞かずに。

「ふざける、な……っ」

 重い足を這いずらせ、前へと進む。死なせない。一人でなんか。私は何も伝えていないんだ。だから、頼むから、死なないでくれ……っ、

「はぁ、……はぁ、ッ!」

 小さな段差に上がらなかった足は、私と彼女の身体を床へと転がした。全身に当てられたはずの痛みは、感じない。だというのに、無機質な冷たさだけが頬に染み込んで、離せそうになかった。視線を同じように床に倒れ込んだ彼女へと向ける。その瞳は未だ、閉じたままだ。

「ナマエ、」

 鉛でも詰め込まれたかのように重い腕を、彼女へと向けた。だが、その手が自分の視界に映った瞬間、その動きが止まる。

──私の手には、何もない。目標も、熱意も、未来も……きっと、なかったんだろうと思う。こんなクソみたいな世界だ。私にそれを抱けという方が無理な話だったのかも知れない。……それでも、それでも今は、

 君が、この世界を好きだというから。私もほんの少しだけ、そう思える気がするんだ。

「……、」

 彼女へと再び伸ばした手。たったそれだけの動作さえ覚束ない。だけど、指先が彼女の頬に触れる。……泣かないでくれ。涙が一雫溢れたその痕を親指でなぞって、手の平全体でその低い温度を確かめた。

 例えこの手になにもなかったとしても、それでいい。なにを掴めなかったのだとしてもいいんだ。ただ、君さえ、掴めたならば……私は、君が──

「──好きだ」

 ああ、だから嫌だった。好き、好きだ。一度口にしてしまえばその感情はもう堰き止められやしない。好きだ、君が。例えどんなに君が勝手で、私を困らせ、辛さも、痛みも、苦しみをも与えるのだとしても、それは君だからこそ抱く感情で、私が君を好きだから負う傷なんだ。

 だけど、出来ることならいつもの君に言いたかった。君が好きだと、君と共に生きていたいと、君を私の手で──幸せにしたい、と。

「ナマエ、」

 彼女の頬を撫でていた手を、床に投げ出されている彼女のそれに重ねた。傷だらけだ。何度言ったって君は平気でその身体に傷を作る。君も一応女性なのだからと言いながら、傷を付けて欲しくないだけの本音なんてこれっぽっちも知らずに。

 私の言うことを微塵も聞かない愛しい人。その手を掬い、そっと引き寄せた。指で撫でてその感触を確かめる。こんな風に彼女の手に触れたのは初めてだった。こんなに小さくて、細くて、柔らかかったんだな。知らなかった。知れて、よかった。最期に。

 血塗れで、薄汚れていて、だけど美しい君の手。まるで私たちの世界のようだ。いや、これは、私の世界……きっと私が唯一──

「愛してる」

──そう思えた世界だ。その世界にそっと唇を寄せ、するりと指を絡ませた。散々私は君にバカだと言ったけれど、きっと今は私が君にバカだと言われてしまうな。こんな、君と迎える死なら、悪くないと思ってしまったなんて……もう離れることがないようにと願いながら、手を握っているだなんて。

「悔いはない、今度こそ」

 私も君に告げよう。例えこの場所に二度と戻って来れないとしても。それでも、なぜか大丈夫だと思えるから。だから、

「また、会う日まで」

 その時は決して君を離さないと誓う。目覚めた先が、どんな地獄だろうとも──きっと。