二十話


けたたましい音が聞こえていた。それは遠く、遥かから鳴り響き、徐々に、夏の陽炎のように近付いて来る。

──なんの音だ……

 有り触れたモノのはずなのに、その正体が分からなかった。その存在を確認しようとも思ったが、揺蕩うような微睡に包まれていて心地がいい。重力さえなく、雲の中に居るような感覚。……このまま眠ってしまいたい、そう思った。痛みも苦しみもない。ここは、そんな場所だ。

「七海、起きて」

 だけど、そんな声が聞こえた。それは酷く懐かしく、爽やかな夏の空を彷彿とさせる。お前が言うなら起きなきゃな、と私を無意識にそう思わせる、声。

「──……、」

 ゆっくりと瞼を開けた。うっすらと開けた視界に映ったのは自分の革靴と、私のいく手を阻むように引かれた白線。私は、その外側に(傍点)立っていた。

──ここは、どこだ……?

 そう思い視線をゆっくりと上げ──強い既視感に襲われた。ずっと絶えず聞こえていたのは踏切の警告音で、あの時(傍点)と同じように遮断桿が降りて来る。

 私はこの時、嵌めていた腕時計に視線を落とし今日のスケジュールを頭に描いていた。これから向かう高専という場所に期待も楽観もせず、人より多く呪力なんてモノを持って生まれてしまったことに少なからずうんざりしながら佇んでいた、はず。そして──

「……」

 ──彼女に、出会った。
 線路を挟んだ向こう側、口元に笑みを携えた一人の少女がやはり同じようにこちらを向いている。あの時の私はまだ彼女の存在に気付いてはいなくて、だけどなんだか、

「七海」

 思わず、目を瞬かせた。あの時は聞き取れなかった声。そうだ……私は、耳馴染みのあるような声に呼ばれたような気がして顔を上げた。だがあの瞬間私たちは赤の他人だったはず。もちろん互いの名前なんて知る由もない。一見普通のどこにでもいそうな、だけど異物感を漂わせていた彼女。私が見たものと変わらない……いや、何かが足りなかった。逡巡しそれが一体なにかと記憶を辿っていく。遥か彼方、目を細め違和感の正体を探していた。

……ああ、そうだ。きっと彼女に目が止まってしまったのは、色素の淡いこの時期によく映えた色を携えていたからでもあった。彼女の手には──

「……え、」

──季節外れの向日葵が、私の手にあった。
 瞠目する私の目に、一輪の鮮やかな黄色が映る。これは夢か? 単純な記憶の再生であるなら違いが出るのはおかしい。どうして、私は……一体いつから夢を見ていたというのか。

「夢じゃないよ」
「!、……灰原、」

 その人の出現に、ああ、そうか。と納得した。いつまで経っても通り過ぎない電車、景色の中には空も、建物も、街というモノ自体がありはしない。あるのは目の前にあるモノだけで、存在するのはいつかの彼女と、私と、死んだはずの灰原だけだ。

「私は、死んだのか」

 それならばこの状況も理解できる。首だけを振り返った先、背後にいた灰原が私と並び彼女がいる方を見つめた。だが同時に、あちら側にいる彼女は生きている、のだろう。手の中の向日葵を見下ろし、茎に生えた短い生毛の感触を指に感じながらそっと目を閉じる。ならいい。彼女が生きているのなら、もう。それ以上望むことはない。

「七海はさ、十分生きた?」
「……ああ、お前より十年以上生きた。十分だ」
「確かにそうかもね……あ、来たよ」

 なにが、と言う前に、私たちと彼女との間を電車が駆け、目を見開いた。本来であれば車両の側面が見えるはず。なのに、

「あ、僕もいる!」

 そこには、私たちが過ごした日々が映っていた。初めて言葉を交わした時、桜を私の鞄に乗せ悪戯に笑った時、茹だるような暑さにうんざりしてる時、アロハシャツを着て空港にいる時、雪合戦をして風邪を引いた彼女を看病した時……灰原が死んで、抱き合いながら泣いた時。

 脆く儚く、苦しくも眩しい景色は色鮮やかな四季で彩られている。まるで古いビデオを見ているようだ。だけどそこに、私はいない。

 ……これはきっと、私の記憶だ。一人きりになった教室、術師の資格を失くし高専を去る時に無理矢理作った笑顔を向ける彼女、その後を追うように逃げた後に務めた証券会社での虚無感、見えた幻、そして……戻ってきてからの、日々。その全ての中心に、彼女がいた。

「……ねえ、七海」
「……なんです」

 それを見上げながら、灰原が私の名を呼ぶ。次に言われることは、なんとなく分かってしまった。こんなものを見て、誰が気付かないというんだ。こんな、彼女に溢れた記憶……それだけで私が彼女をどう思っていたのか、手に取るようじゃないか。

「僕は、彼女が好きだったよ」

 知ってる。知っていた。だから言えなかった、言わなかった。

「私は、」そう溢れた声に覇気もクソもない。お前なら彼女を、幸せにできると思ってたんだ。だけどお前がいなくなって、それがどういうことなのか分からなくなった。なにをしたらいいのか分からない私が、彼女を幸せにできるわけがない。自分の中にあったごく一般的だと思われる幸せというモノの定義は、彼女に両断されてしまった。

「今でもそう思う?」
「……」

 まるで私の心の中を見透かしたような灰原の言葉に、車両から視線を落とし忙しなく通過する車輪たちを見つめる。浮かんだ言葉は、あまりにも馬鹿げていた。

 電車が通り過ぎ、途端にそこは静寂に包まれる。追い風が私たちの髪を撫でたけれど、そこに手を当てる気にはなれなかった。それどころか、顔を上げることすら出来ない。

「私は、もういいんだ」

 そう、瞼を閉じた。だって、口にしてしまえば願ってしまう。望んでしまう。そんなこと、彼女へ想いも告げられず、十代半ばという短い生涯しか送れなかった灰原に言えるわけがない。それに、私は死んだんだ。今更どう足掻いても仕方がない。

「私はこの世界が好きじゃなかった」
「うん」
「理不尽で、大切なものは容赦なく奪われていく」
「そうだね」
「だから、」

 だからもう──なにも考えることのない世界へ、行ってしまいたい。例えそこに彼女はいなくとも……

──……どうしてっ、

 泣きたくなるんだ。本当の身体は傷だらけで疲労にまみれ苦しかったというのに、そんな傷もない今の方がよっぽど苦しいなんて、おかしい。

 自分が正しいと思ったことが間違いだと言われればそれを飲み込むことだって、理想を抱こうとも世界がそれをイエスと言わないのであればそれも仕方のないことだと思っていた。

 自分の何もかも、命すらも諦めることが出来る。こうなってしまってはどうしようもないと思っている。……なのに、どうしても君は、君だけは諦めたくないと、思ってしまうんだ。だけど、そう思って軋む心臓にも、私は疲れてしまった。なにも考えたくない。だから早く……私を楽に、

「知ってたよ」
「!」

 聞こえた声に、ハッと顔を上げた。目の前にいる彼女は相変わらず幼いままで、前髪で表情を伺うことは出来ない。いや、私は気付いていた。それが目の前にいる彼女の言葉ではないこと。だってこれは、この声は……

「七海がずっとそう思ってたの、知ってた」
「ナマエ、」

 それは左右から、背後から、白く染まった上空から聞こえていた。スッと、頬に柔らかな感触が降って、私の心までもを鷲掴みする。痛みは、容易く全身へと広がっていた。

「だけどね、七海」

 瞳孔が揺れる。胸が締め付けられる。呼吸は浅くなり、目の奥はさっきから熱くて仕方がない。だから、空を見上げたまま目を閉じた。噛み締めた歯の隙間から嗚咽が漏れて、額にも温もりが伝わる。──彼女の、香りも。

「私はこの世界が好き。灰原に、皆に……七海に出会えたこの世界が」

──ああ、
 それは、諦めに似た溜め息だった。

「例え七海がここで全て終わりにしたくったって、私は七海にここで生きて欲しいの」

 君は本当に、私を掻き乱す。ずっと、ずっと……出会った、あの瞬間から。

「私が生きてるうちは死なせない。だから、」

 ゆっくりと、遮断桿が上がっていく。私を包んでいた温もりと、一緒に。細く息を吐き出し、真っ直ぐ見据えた先にいた彼女に、幼さはなかった。

「“ごめんね”」

 そう、困ったように眉を下げ笑った。まるで我が儘を言って、とさえ言っているようだ。君のそんなものなんて今更だろうに。いや私は君の我が儘なら、私はそんな君だからこそ、

「行かないの?」
「……でも、私は」
「七海、」

 俯き、ぐっと拳を握りつま先を睨み付けた私の言葉を、はっきりとした声音が遮った。ゆっくりと顔を上げた先にいた灰原に、あの日が彷彿として顔が歪む。やめろ、やめてくれ。心でそう呟いた。だってそれは、最期に見た笑顔と同じだったから。その言葉を聞いてしまえば、私は、“言い訳”をなくしてしまう。だから、

「あとは頼んだよ!」

 ドン、と灰原の手が私の背中を押して、足が一歩、白線の内側へと掛かる。ああ、だから嫌だった。お前がそうするのなら、そうしていいと言うのなら、私は自分のエゴに飲まれてしまう。

 ……まだ生きるのか、私は。生きて、いいのだろうか。そんな疑問さえもその手は取っ払ってしまったようだった。だって私は、彼女の隣りで、彼女を、自分の手で──

「っ、灰原!」

 勢いよく振り返り、手に持った花をギュッと握り締めた。ずっと言えずにいた言葉。ずっと言わなければいけなかった言葉。ずっと、ずっと……言いたかった言葉を、灰原に言うために。

「私は、彼女が好きだ……!」

 辺りが白い靄に覆われていく。警告を告げる赤も、黄色も、黒も、ソイツの影をも、飲み込んでいく。だけど関係ない。

「ずっと、ずっと好きだった……! 今も、彼女を……っ」
「七海、」

 叫ぶように、吠えるように声を張り上げた。靄は灰原の姿をみるみる内に包み込んでいく。だけど、その中で見えた灰原は……笑った。眩しいくらい、暖かな笑顔で。

「知ってたよ!」
「っ、」

 溶けていく。私たちの過ごした夏が。だけど、それは決して消えるものじゃない。だって私の胸にも、きっと彼女の胸にも、あの空は永遠にあり続けるのだから。

──遅くなってすまない、あと……ありがとう。

 そう、目を閉じた。