十九話


 彼女を無理矢理でも置いて来てよかったと、心の底から思った。続け様に現れた言語を理解する特級呪霊。そして瞬く間に傷だらけになり焼け爛れた肌に、視界は左半分が黒く……いやこれは、消失しているんだろう。朦朧とする意識は黄泉と現実を右往左往しているだけで、現在地すら把握することは困難だった。

 一歩、二歩、気を抜けば転げ落ちてしまいそうな階段を降りた先。蔓延る呪霊に気が遠くなって、思わず吐き出した溜め息は酷くうんざりしていた。

 ……疲れた。そう、疲れたんだ。私は。もう十分やった。これ以上なにをすればいい。こんな傷で出来る事なんて高が知れている。だから、もう、帰りたい。

『七海』

 見上げた先の笑顔に、会いたい。
 会って、さっきのことを謝らなければ。君を傷つけたこと、どうしたら君は許してくれるだろうか。そうだな……彼女の好きな居酒屋に行って、彼女のしたい事をして、彼女の欲しいものを買って、それから、私は、私はただ……君と居られれば。

 だけど、そう思い鉈を振り下ろした。祓って、殺して、祓って、殺して。私は呪術師だから。私は、君に──

「……いたんですか」
「いたよずっとね」

 胸に当てらてた“死”に、頭はやたら冷静だった。ツギハギ呪霊は口元の笑みを隠そうともせず、私に情けを掛ける。数秒後に死に逝く、私に……

──そうか、私は死ぬのか。

 そう思えば、私は問い掛けていた。かつて彼女と共に歩いた、友人に。逃げたくせにやり甲斐なんて曖昧な理由で戻って来て、彼女の隣に居座って、そんな時間が永遠に続けばいい……だなんてきっと、虫がよすぎたんだろうな。 

 顔を上げればあの頃のまま、高専制服を身に纏った灰原がいた。もう十分なのかもしれない。彼女は生きてる。例え、私がここで死のうとも。それでいい、それ以外望むものなんて私にはないんだ。なぁ灰原、お前もそう思うだろう。……そう、灰原に同意を求めた。だけど灰原は変わらず真夏の青空みたいな笑みを浮かべているだけだ。頼むから頷いてくれ、私と同じように彼女を愛した、お前にそう言ってもらえたなら私は、もう──

『よかった、間に合った』
「──え、」

 瞬間、白くぼやけた世界に、黒い火花が散った。
 眼前で揺れる髪が目に入った後、赤い飛沫が視界の片隅を駆ける。だけど、私と吹き飛ばされた呪霊の間に立ち塞がった人物はピクリとも反応しない。それどころか蹴り上げられ壁に大きなクレーターを作り、顔半分を抉られた呪霊から視線を外そうとはしなかった。見慣れたはずの姿。だが、私は目の前の影が頭の中にいる人物とは思えなかった。

──怒りだ。息を呑むことさえ躊躇ってしまうほどの凝縮された圧力をその人は全身から放っている。それはとても術式を持たず、呪力をも使えない人間の背中とは到底思えなかった。……強かった。彼女は、確かに。だが高専時代共に戦っていた時だってこんな凄まじいまでの集中力を見たことがなかった。これが、彼女の本領なのか。極限まで研ぎ澄まされた精神は、この場の空気までを震わせていた。いや、そんなことよりも、

「……どうして、」
「ん?」

 柔らかな声。抱いた印象とは裏腹に、聞こえたのは戦場に不釣り合いなほどいつもと変わらぬ声音だった。私は彼女を傷付けたはず。次に会う時は機嫌を直す前にまず殴られる可能性だって覚悟していた。そんなことをしたって、私は彼女をここへ連れて来たくはなかったんだ。なのに、なぜ君は、ここにいるんだ。

「やだな七海。自分が言ったこと忘れたの?」

 彼女が振り返る。十年以上前から変わらない、何モノにも恐れを抱かない笑みを、口元に携えて。いや、もっと柔らかく、まるで愛おしいものを見るかのような、微笑み。

「私の声、聞きたかったんでしょ」
「!」

 そう言って彼女は手に持った携帯を、私の瞠目した視線の先でこれみよがしに揺らした。

「バカですか、あなたは……っ」
「いいよそれでも。私は、私の為にここにいるんだから」

 え、と言う私の微かな声は、ツギハギ呪霊が立ち上がった音に掻き消されてしまった。

「はーびっくりした! なに今の? もう一回やってみてよお姉さん!」
「うげ、さっきので死なないの? 生命力ゴキブリ並み?」

 まぁ、そんな簡単に死なないとは思ってたけど、と欠けた顔面がぼこぼこと再生されていく様を見ても、彼女は私の前から退こうとはしない。それどころか、呪力の流れなどなくとも彼女が殺気を放っているのが分かった。それは近くにいる私の肌までをもピリつかせ、瞳は瞬時に細められ鋭利になった瞳孔に色はない。そこにあるのは、目の前にいる敵への明確な憎悪だ。

「でも、お前だけはこの手で殺したいと思ってたから好都合だよ」
「へーどっかで会った? ……ああ、その七三術師か。なるほど。でもさ、ほら、なんだっけ。人間の言葉にあるでしょ?」

 完全に修復を終えた呪霊が一歩、無邪気さをはじけさせながら踏み出す。服についたコンクリートの破片がパラパラと落ち、ただただ破裂寸前の禍々しい風船を前に空気が張り詰めていく感覚がした。

「三度目の正直、ってさ!」
「ねーよ、バーカ」
「!」

 駆け出した両者が交じり合ったそこで拳を振り上げる。呪霊の変形した左手は彼女の身体を両断しようと振り下ろされた。奴の術式は右手のみ発動する。だが形を鋭利な物に変えればもちろんそれは物質を断ち切る、というのに……彼女はそれを、呪力で受け止めた。

「! えー正気?」
「こちとら走馬灯は何度も見てんのよ」

 瞬間、刃物が触れてないはずの左足から赤が噴き出る。だが、彼女は止まらずその傷付いた足を軸とし、右足を振り上げた。

 再び弾ける黒い火花。それと、彼女の腕。弾けたそこに彼女が顔を背けたが、当然のように首筋は瞬時に赤く染まった。だけど彼女は一ミリも動じない。だからこそ私は、ただ茫然とその異常すぎる光景を見続けていたのだろう。振り返った彼女が顔を顰めたが、それは痛みによるものではなさそうだった。

 一体彼女は、どれほどの感覚を味わってきたのか。計り知れなかった。家入さんと通話をした時、その治療回数は現実味がなさ過ぎて彼女を問いただす視線を向けたモノの半分は冗談だと思っていた。だが、

「……チッ、取れんの早いんだよ」

 彼女は人形の腕がもげてしまったかのように千切れた呪霊の腕と共にそう吐き捨て、自分の腕を拾い上げた。それが冗談ではなかったのだと私に知らしめ、同時に疑問を抱かせる。縛りを結んだ直後からコントロール出来る様になるまででそこまでの回数になるのか、と。いや、どんなに多く見積もってもそうはならないだろう。なら、彼女は一体なにをしていたんだ? 腕がもげたとて顔色ひとつ変えないようになるまで……そんな、痛覚が死んでしまうまで、なにを。

 そんな風に私が背筋を凍らせているなど知りもしない彼女は鷲掴みにした自分の腕を多角的に観察し、ふっと一つ息を吹きかけ、そして──

「な……!」
「ま、取れただけならこんなもんか」

──繋ぎ、合わせた。外れた肩を治しただけとでも言いたげに元に戻ったその腕を肩から回して、代わりに額の端から垂れた血を乱暴に手の甲で拭う。まさか、驚きに開いた口が塞がらない私を見て、彼女が思い出したかのように「ああ、」と声を漏らした。

「硝子さんと五条しか知らないんだ。ごめんね」

 黙ってて、と困ったように笑う彼女に、なにも言葉を紡ぐことが出来なかった。最高難易度とさえいえる反転術式。その中でも他者に使えるのは国内に二人だけ。だが反転術式自体を使える者だって片手に収まる程度だろう。

 だが、妙に納得してしまった部分でもあった。反転術式といえど呪霊ではないのだから治療には限界がある。特に自己の再生よりも、他者への再生は更に難しいと聞くし、私は家入さんがどの程度の怪我までを治せるのか把握していなかった。だが彼女が失くした腕を、破れた鼓膜を、あたかもその怪我さえなかったかのようにして戻って来るものだから勝手にその可能性を決めつけていた。

「治した時にどこが怪我するかわかんないしゼロにはならないからさ、治すのは硝子さんがいる時だけにしてたの」
「……どうして黙ってたんですか」
「それは……多分この時のため、かな」
「それはどういう」
「ぷ、あはは!」
「!」

 仰向けに倒れていた呪霊が、軽快な動きで跳ね起きる。片腕は、彼女と同じように元通りだった。

「面白いね! そこの七三術師より殺しがいがあるよ!」
「……七海、私ね」
「どうやって殺そうかなぁ!」

 視線をはしゃぐ呪霊に向けたまま、響き渡る声とは正反対に静かな声で彼女が私の名を呼ぶ。そこに先ほどまでの殺気はありはしなかった。あるのは風も吹いていない水面のような、穏やかな静寂。だというのに、私の胸をかけたのは、映る虚像の月が揺れるような、不気味な予感だった。

「七海が生きてるなら、それでいいの」
「な、に……言って、」

 聞こえた言葉を理解は出来なかった。いや私は、理解なんてしたくなかった。だってその言い方はまるで、私だけが生きていればいいとさえ聞こえてしまう。そこにはきっと、彼女はいない。

「私が死んだとしたってその代わり七海がここにいられるなら、これ以上の幸せないよ」
『七海は、ここにいてよ』

 襲い来る呪霊に、彼女が再び応戦する。彼女は分かってる。いくら見計らい自分の身を犠牲にして呪力を込めた攻撃をしても、あの呪霊を倒すことは出来ないことを。それなのに、応援が来るまでと持ち堪えようとしている。……私は、彼女の言葉を飲み込めず、動けずにいた。

 私は、君にそんな幸せを掴んで欲しかったわけじゃない。ただ血生臭い前線から離れ、君の望む人と年老いて、ただ……笑ってくれてればよかったんだ。なのに君は、そう思いながら私にここにいろと言ったのか? 自分が私よりも先に死ぬ前提で、君がいない世界で……私に生きろと言うのか。

『自分の、終着地点だよ』

 ああ、そういうことか。バカだ。どうして君は、いつも私を掻き乱すくせに。一体いつから、そう思って生きていたんだ。──盾にくらいにはなると、私たちの、私の代わりに死ぬことから逆算してたというのか。ずっと……あの日から。

「!」
「な、七海!?」

 勢いよく彼女と呪霊の間に鉈を振り下ろした。反射的に背後に飛び退いた両者の中間地点で、驚く二人の視線を一身に受けていたって関係ない。

「……ふざけるな」
「……動けるなら硝子さんのとこに行って」
「嫌です」
「自分がどんな状態かわかってんの……!?」

 分かってる。四肢は重力に逆らうことを全力で否定しているし、気を抜けば意識だって容易くあの世に連れて行かれてしまいそうだ。だけど、それでも、

「あなたより後に死ぬのは、嫌です」
「っ、バカ七海!」
「あなたにだけは言われたくない……!」

 そう、十数年ぶりに二人で呪霊へと向かった。
 
 だが致命傷どころかまともな傷さえ与えられない中、ただ一方的に増える彼女の傷と出血量、私は混濁し始めた意識に身体は瞬く間に悲鳴を上げる。彼女の脈に倣うよう肌を滴る赤は床に斑点を描き、私は立っているのも辛い状況だ。無謀だった。きっと、最初から。

「ッ、さっさと死ねよクソ野郎」
「さっさと殺してみなよクソ呪術師」

 両手を広げ依然として余裕の消えない呪霊に対し、彼女は荒々しい息を全身で繰り返している。その横顔は酷く霞んで見えて、ぐっと目を凝らした。だか、ピントの合わない景色が変わることはない。それだけじゃなかった。もう、足が上がらない。床から生えた無数の手が私をそこに止めているかのように、靴底はコンクリートに張り付いてしまっていた。

──ああ、クソ……。

 動け、止まるな。まだ、まだダメだ。ここで私が倒れれば、彼女を一人にしてしまう。それだけはダメだ。そう、思うのに、今にも滑り落ちそうな鉈を握りしめることさえ出来ない。──限界だった。もう意志だけでどうにか出来る状態でないことは、自分が一番よく分かっている。だから、誰か……そう祈らずにはいられなかった。頼むから、あの呪霊を任せられる術師が──

「!、ナナミンと、先生!?」
「悠仁!?」

 術師が──来た。

「悠仁! 七海はもう限界だから私と、!」
「虎杖くん──」

 ……現れた虎杖くんに視線を向け、最後の力を振り絞り彼女の腕を掴んだ。すまない。悪いが彼女を連れて行かせるわけにはいかない。これは完全に私のエゴだ。分かってる。でも君なら、私が彼女に戦いをさせたくないと気付いた君なら、理解してくれると思った。ずるい大人で申し訳ない。だけど……だから、

「──あとは、頼みます」

「七海ッ!!」
「ナナミン!!」

 二人の、私を呼ぶ声がする。それはやがて一つになり、だけど、ずっと響いていた。

「七海!! 死んだら、許さないから!!」
「……」

 もういいんだ。もう、いい。倒れ込んだ私を彼女が支え、無機質なコンクリートの上に寝かされた身体は指一本動かせやしない。彼女の声もどんどん遠くなっていく。本当に、終わりなのかもしれない。終わり、なのだろう。

 もうどこもかしこも感覚なんてないはずなのに、たった一つ、締め付けられる心だけがまだ、機能しているようだった。

「七海!!」

……願わくばあと一秒、あと、一秒だけ、君の声を聞いていたい。

 そう思いながら、まぶたを閉じた。