十八話


「ちょっと、大丈夫……?」
「!」

 ハッと顔を上げた瞬間、意識の浮上と共に視界には私の顔を心配そうに覗き込む野薔薇が映った。──こんな時に、なにぼーっとしてんのよ。そう額を抑え被りを振って鈍くなった思考を呼び起こす。

 七海がどうして私に全部を告げたか。それは、この界隈に携わる者として何をすべきか考えろってことだ。“術師”として、大人として、私だって役割があると、七海は言いたかったんだろう。言い方は、そりゃめちゃくちゃムカついたけど。

「ごめん、もう大丈夫。それより野薔薇は? 怪我とかない?」
「ないわよ。新田ちゃんがしてるくらい」
「そ、でも守ったんだね。偉いえらい!」
「ちょ! 頭撫でんなバカ教師!」

 そう悪態吐くくせにその頬はほんのり赤く染まって、照れてるんだと分かる。だけど、その表情からはすぐにそんなぬか喜びは消えてしまった。

「私だけじゃ多分やられてた。あの、七海さんのおかげ」
「……そっか。でもごめんね。七海言い方キツくて」
「別に、普段のあんたに比べりゃ可愛いもんでしょ」
「え゛、」

 そうだったかなぁ、なんて記憶を辿るように首を捻ったけれど、うん、まぁ確かにそうかもしれない。野薔薇は、特段。

 私たち三人だけが取り残された建物内。野薔薇に新田ちゃんと呼ばれていた彼女は、救護の手筈を整えるため私たちから離れ電話をしている。でも、恐らくすぐには来ないだろうと思った。こんな状況だ。硝子さんが来ていない、というか七海がそれを申請していないわけがないだろうし、だからこそ野薔薇の様子から出来る限り時間を稼ぐはず。彼女たちからすれば野薔薇は術師である前に、子供なんだろうから。

「それに、ちゃんとわかってるつもり。敢えてああ言ったんだろうなって」
「そう、」
「……ねえ」

 ちらりと、上目遣いで見る視線には野薔薇に似合わない躊躇いが滲んでる。野薔薇が高専に来てから、二年生にその役目を奪われた時も何度か手合わせをしたりして交流していた。いつだって前向きで、若いのに信念がはっきりとあって、だけど盲目的で。まるで、いつかの私みたいだと思ってた。だからほんの少し、贔屓してしまう。無理をして、無茶をして……私みたいに、ならないようにって。

「なあに」と首を傾げれば、一度その言葉を発するのを唇を噛みながら逡巡し、開いたそこは僅かに震えていた。確かに、野薔薇は子供だ。七海だってそう言うだろう。でも、

──本当、やになっちゃうな。

 脳裏には高専に来て医務室の天井を初めて見た瞬間が浮かんでいた。全身が自分ものじゃないみたいに重くて、痛くて、何がどうなって自分がそこにいるのかも分からなかった。だけどそんなのは一瞬だ。自分のものじゃない。確かにそうだったのかもしれない。術式を失くして、私は、私じゃなくなった気がしたから。

 五条と硝子さんに助けられて、生きながらえて、自分の力不足に嘆いて、イラついて、私もこんな風に唇を噛んだ。無力だって……あの二人に、顔向けできない、って。子供だった。私も。だけど、

「どうしたら、みんなを守れるの」

 そう、思ったんだ。術式を失くしたって出来ることはないかって。その気持ちに子供だから、大人だからなんて括りはナンセンスだと私は思う。私がそうだったから、この気持ちをそんな言葉で諦めたくない野薔薇の気持ちは、痛いくらい分かる。分かって、しまう。まぁ、出した案は五条に「バッカじゃねえの」って吐き捨てられたんだけど。でも、まさかそれを七海に言われてたのは想定外だった。あのバカ、本当余計なことを。

 そんな思考を抱え溜め息さえ吐き出しそうな私に、野薔薇の真剣な瞳が刺さる。痛いくらいに、真っ直ぐに。

「野薔薇の好きなようにしなよ」
「え、」
「きっとそれが、悔いが残らない最善だから」

 強くなりたい。私も常にそう思ってた。そうなるんだと思って疑わなかった。ただ山の頂を目指す登山者のように、登り続ければそこに辿り着くと信じて疑わなかった。……でも、だからこそ昇格試験の任務で報告とは明らかに違う自分より強い呪霊に対して引くことをしなかった。子供だった。ただただ、過信に塗れた。

 でももうそんなことを言っても仕方なかったから、アイツらを守りたいと思ったんだ。だけど守りたいと思ってから大切な一欠片を失くすまでには、あまりにも時間が足りなかった。縛りを結んだことだって後悔してない。でなければもう片方まで、失くしていたかもしれないから。

 この子は私に似てる。だけど、当たり前だけど、悔しいけど、野薔薇はまだ戦う術を持ってる。自分の弱さと向き合う強さすでにを持ってる。……あの時の、私とは違う。

 野薔薇が正しいと思ったこと、したいと思ったこと、それはすべき事なんだって思えるから。この子はむやみやたらに自分の命を投げ出すような子じゃないから。だから、

「釘崎野薔薇を貫きな」

 私は、そんな野薔薇を応援する。例えなにかを失くしたって、自分自身じゃなくなった気がしたって、それでも得られるものはあると私は知ってるから。気付けた“想い”があるから。

「現実、術師なんてやってる限り死ぬなっていう方が難しい」
「……」
「でもだからこそ、最後は悪くなかったって、そう思えるようにしなさい」

 野薔薇ならきっと大丈夫。そう言えば、その憂いを帯びた瞳に光が戻っていった。廃れた街に似合わないくらい綺麗に、だけど強く、それは輝きを放つ。

「……当ったり前でしょ。私を誰だと思ってんのよ」

 そんな台詞さっき七海に言ったな、なんて思えば肩を竦めて笑ってしまった。

 新田ちゃんが私たちの元に戻り、やはり少し時間がかかることを告げる。全く、切り傷だらけなのは彼女の方だというのに、自分の治療を遅らせてまで野薔薇を止めようとする根性はさすが、高専関係者と言うところか。そんな彼女たちからしたら、私はきっと、余計なことを言ったんだろうなと思う。やっぱ私教師向いてないな、なんて、七海に言ったらまた険しい顔をされてしまうんだろうけど。

「あのさ、もう一つ聞いてもいい?」
「ん、いーよ。私一応センセーだからね」

 自虐的に笑ってそう言っても、野薔薇は笑ってはくれない。きっとそんな些細なこと気にしてないんだ。その人の過去を知れば知るほど、周りの人間は過敏になる。一挙一動、一つ一つの言葉が、なにかを彷彿とさせその真意を探ろうとするのは仕方がないことなのかも知れない。だけど、思わず出てしまった自嘲に反応した相手へ誤魔化す作業がないのは、だいぶ楽だった。

「あの人、七海さんはあんたの同期?」
「あれ、言ったことなかったっけ」
「ないわよ。ちょっとだけ伏黒に聞いた事あるけど、あんたはいっつも私のことボコボコにするだけだったじゃない」
「……そう?」
「そうよ。恋人いたなら言いなさいよ」

 少しムッとした野薔薇に、思わず瞬きを二度繰り返す。そして数分前の私たちを思い返して「ああ、」と納得してしまった。そりゃそう見えてもおかしくはなかっただろうな。いや、七海が心配性なだけなんだけど。……本当、昔から。

「ちがうちがう。きっと十年後には、野薔薇たちもこうなってるよ」
「はぁ!?……まぁでも、そうかもね」
「ふふ、そうでしょ」
「なに笑ってんのよ、キモい」

 ひどいなぁ。最近の若い子は容赦がない、とは自分の高専時代を思い出して言えやしなかった。それでよく七海に怒られたっけ。いやそれは今もなんだけど。そんなやり取りをする野薔薇と私に、新田ちゃんが「仲良いっスね」なんて言うから「そうでしょ」って肩を組んだ。だけど「とんでもない暴力教師よ」と紹介されてしまったのはとても解せない。

「で、あんたが術師に戻らないのって、七海さんが理由?」
「……」

──なるほどね。
 ほんの少し違和感があった。以前から私と七海のことを恵からほんの少しでも聞いて、本当に聞きたかったのならばその瞬間彼女は私の所に飛んで来ただろう。それが野薔薇という女の子だと、私は思ってる。それをしなかった彼女が何故今になってそんな話をし出したのか。確かに七海に直接会ったからというのもあるのかも知れない。だけど、きっと先程までの会話はこの質問をするための序章だった。……正直、この釘崎野薔薇をナメてたと言わざるを得ない。

「おかしいね。誰にも言ったことなんてなかったのに」
「ふん、野薔薇様ナメんな。って言いたいとこだけど、ずっと気になってたの。なんでこんな強いのに術師じゃないのよって」

 術式もない。呪力を使うことも出来ない。それだけであるなら二年の真希とそう大差ないだろう。呪具を使えば戦える。だけど呪力を使ってしまえば傷を負う。それを懸念しているのは七海と、あとは夜蛾学長だ。今の段階だって、きっと二級くらいなら呪力を使うリスクはほぼない。一級にもなれる、かも知れない。それでも私がなると言わないから圧力は学長で止まっているんだと思う。あと、五条と硝子さんも無関係じゃないことは分かっていた。術師に戻ろうと思わなかったわけじゃない。でもそれは、七海が呪術界に戻って来た時点で消えてなくなった。

 私は甘えてるんだ。いや、利用している。術師に復帰できるのにしないのは、こういった時術師は組織の戦略に使われてしまうから。昨年の、クリスマスみたいに。だけど術師でもない、補助監督でもない私は基本的には組織の中の頭数に入らない。自由に、動ける。盾に、なれる。

『あなたを盾にして生きるくらいなら、死んだ方がマシです』

 本当、困った男だ。私の存在意義はもう、あの瞬間からそこにしかないというのに。

「悪くなかったよ。教師もさ」

 そう見据えた視線の先には、野薔薇と、悠仁と恵の姿があった。私はこの子たちを見る度にかつての自分たちを思い出していたんだと思う。楽しくて、バカみたいに綺麗な思い出。もう取り戻せないことが悲しくて、欠けた席を何度指でなぞったか分からない。それでも、それでもね……出会えてよかったと思うから、私は振り返らない。そう、七海と二人泣いた夜に誓った。この人だけは、死なせないって。

 私の言葉に、野薔薇は消え入りそうな声で「そう、」とだけ呟いた。聡いな、怖いくらいに。

「で、いつまでここに居る気? まさか私に好きなようにやれって言っといてお利口さんする気じゃないでしょうね」

 そして強い。眩しいくらいに。

「あんたがそんなタマかよ」
「……だーれに、言ってんのよ」

 そう野薔薇の頭にポンと掌を置いた。野薔薇はいつもみたいにその手を払い除けたりせずにそっと目を閉じるから、ごめんねと心でひとりごちる。

 そして一歩、踏み出した。ゆっくりと、野薔薇の頭部から名残惜しさを引き連れながらも離れる。本当、教師失格だ。なにかを残せた気はしないし、教えられたかも分からない。それでも、これは私の自己満足に過ぎないけど、よかったと心の底から思えた。

 踏みしめる足に迷いはない。勝手上等。私は、そうやって生きてきた。誰に認められなくてもいい。私は私の決めた道を行く。例えそれが、誰にも肯定されなくたって──

「しっかりやんなさいよ! あんたはこの私の、センセーなんだから!」

──ああ、本当、いやになる。七海に術師だって言ってもらえただけで良かったと思ったのに、また泣きそうになっちゃうじゃん。野薔薇の言葉を噛み締め、胸に刻んで、振り返った。

「当然!」

 にっと笑うその瞳に、僅かな光が反射しているのを気付かない振りをして再び歩き出す。──ありがと野薔薇。あとやっぱりごめん。私はあの時気付いちゃったんだ。灰原が死んだ日、きっと、彼に名前を呼ばれた、あの瞬間に。

『くれてやるよ。私の身体、どこだってね』

 それでもいいと思えるくらいに、七海が好きだって。
 だから、私は行く。例え七海にああ言われたって、その後七海に恨まれたって、私は七海がこの世界にいることを最後の最後まで望んでやるんだ。それがきっと、私がここにいる理由だから。

「……」

 降りた構内は異様なまでに静まり返っていた。所々に転がる死体の山、改造された人間は消えることなく同じように横たわっている。恐らく、私と一緒に落ちたはずの友人も生きてはいないだろう。それに対して胸が痛まなかったわけじゃない。だけど、意識を失いそうな感覚は皆無だった。

 この世界でいう死は特別珍しいことじゃない、有り触れたものだ。仕方がない、ものだ。そんな言葉で片付けられる命なんて一つもないことは分かってる。だけどきっと私にとっては──

「ん? あ、」

 道中、ひどく見覚えのあるものが視界に映った。辺りを見渡せばここは私が出口に向かう際に通った道で、確か呪霊に出会したんだ。何度目だって苛立って鞄を落とし……いや、捨てたんだ。普段そんなものを持ち歩かないが故にそのまま忘れたんだっけ。気付いた時にはもう引き返すのも面倒だった。それが、今目の前にある。

「あ、よかった。携帯壊れてな……って! 着信多!」

 無事点灯した画面には、知らない番号から二件と、七海からの鬼のような不在着信が残っていた。留守電も六件入っている。

──絶対怒ってるやつじゃん……。

 その画面から来る目に見えぬ圧力にぐっと生唾を飲み込んだ。だけど、仕方ない、歩きながら聞くか。そう、耳に携帯を当てた。

『休みの日にすみません。至急連絡をください』

 なんとも七海らしい業務連絡だ。耳に馴染んだ少し低いその声は、電話越しだとそれだけが鼓膜に直接響いて来る。そういえば七海からの留守電なんて初めてかも知れない。大抵掛かってきた電話には出るし、そもそも留守電を残す程の急用に見舞われたことがなかった。連絡手段はメッセージが殆どだし──いや、私たちはきっと、いつも隣にいたんだ。指し示すわけでもなく、ただ、それが当たり前だとでもいうように。

 そりゃさっき野薔薇に言われたみたいに恋人なんでしょと言われても仕方ないなと思った。そう、ほんの少しだけ願ってしまったが故に喧嘩もしちゃったし。

『私は、あなたが──』

 月夜の道を七海の背に寄り掛かりながら言われた言葉に、期待もした。だけど、これでいい。このままでよかったと、今なら思えた。

 耳に当てたままの携帯から続けて二件目の留守電が流れたけど、それはモノの数秒で切れてしまう。声は、入ってなかった。三件目、恐らく私が巻き込まれたであろうことを察知したのか、その声は一件目よりもだいぶ早口だった。『すぐに連絡を』そう言ってその電話も切れる。

 四件目、五件目は無言だった。ただただ、彼の足音だけが響いている。そして最後、六件目が再生され始めた。だがそれは前の二件と同じようにザ、ザ、と地面を踏みしめているだけだ。

「……またぁ? ったくどんだけ足音聞かせる、」
『ナマエ、』
「!」

 声が、聞こえた。私を呼ぶ七海のものだ。だけど、一件目や三件目に録音されていた声からは想像も出来ないほど掠れていて、どこか弱々しい。ずっと聞こえていたはずの足音が、ぴたりと止んで、代わりに聞こえたのは空気を震わせるような、吐息だった。

 瞬間、先程の七海が脳裏を過ぎる。見れば分かるはずなのに生きているのかを確認する七海。私を強く、拒絶する七海。そして──私を盾にして生きるくらいなら、死んだ方がマシだと言った七海。

『ナマエ、』
「……」
『ナマエ』

 何度も、何度も七海は私を呼んでいた。呆れるくらい、情けないくらい、まるで……今にも泣き出しそうな、迷子の子供のように。ぽつり、ぽつり、言葉が落ちて来る。それは凍えてしまいそうな雪に変わる前の雨に似ているのに、身体の芯は熱を発していくような不思議な感覚が私の奥深くを駆り立てていく。

『どこにいるんです』
『怪我、してませんか』
『あなたはすぐ無茶しますから私が……』

 私が、そう繰り返して、また音が呼吸音だけになる。酷く苦しそうで、こっちの息まで詰まってしまった。心臓が痛くて、息を吸って、吐いてるはずなのに酸素が足りてる気がしない。ドクン、ドクン、と鼓動がうるさい。全神経が七海の声に集中してるのが分かった。

『頼むから……っ、君の──』

 見開いたままの目にはなにが映ったのか。そんなの、一つしかない。一人しか、いないに決まってるじゃないか。

 蹴り上げた地面。響く私の足音は……ただ真っ直ぐに、七海へと向かっていた。