序章


 過去と未来は一つに繋がっている。誰だって過去がなければ今がなく、今がなければ未来はない。そんな当たり前で当然のことを考えない人間が、世界には溢れ返っている。それは時に、あるはずのなかった未来へと、繋がっていると言うのに。



 ただ目的に向かい道を歩いていた。人気のないまだ朝が夜を飲み込み返したばかりの時間帯、その足は迷うことなく進み続けている。空に浮かぶ白い月に目もくれず、足元を横切る野良猫に想いを馳せることなく、真新しい制服を、良くも悪くも気にする様子もなく、白線の内側をご丁寧に歩み続けた。

 考える事と言えばそれこそ特になく、だけどなんとなく、自分の進まざる得ない道は面倒そうだというくらいか。全く、余計なものが備わって生まれて来てしまったばっかりに物騒な鉈なんて持って街を歩かなきゃいけないのだからつくづく普通とは贅沢なものだ。だからこれから始まる普通とはかけ離れた生活に期待もなければ楽観もなかった。ただ、呪術師としての一歩が始まる。この先には、ただその事実があるだけだ。

──道すがら開いてるパン屋に寄って、高専に着いたら部屋の片付けを少しして……授業には全然間に合うな。

 踏切が鳴り始めたことに足を止め、腕時計を確認してスケジュールを頭に描く。黒と黄色のコントラストがゆっくりと行手を遮るように視界の片隅で上から下へと降りて来ていた。

 なんでもない道だ。気に止めるものもなく、まだ寝静まってる街は店の一つもやっていない。精々二十四時間営業のコンビニくらいか。にしたって東京とはいえ郊外に出れば田舎のような風景が広がっているところも少なくない。これから行く場所だって、山地の奥だ。

「──」
「……?」

 カンカンとけたたましく鳴り響く警告音に混じって、耳馴染みのあるような、だけど聞き覚えのない声が聞こえた気がして顔を上げた。線路を挟んだ向こう側、自分と同じように電車が通り過ぎるのを待つ同じくらいの年齢であろう、季節外れの向日葵を持った女子が一人。

 特段不思議な光景じゃない。だけど、スッと自分が息を呑んだのが分かった。見開いた瞳に映った世界はまるで白昼夢のように朧げで、朝やけの起こした靄の中に佇むその人から目が離せない。

「    」

 一人だ。彼女も、私も。そして他人だ。なのに、その人が笑ったのが分かった。そして、口元が四文字の言葉を形取って動いた。掛かった前髪で表情は完全には伺えない。辺りはゆらゆらと霞んでいて溶けてしまいそうなのに、心臓の見えない裏側には圧倒的な異物感が残った。それは、呪いに抱くそれに少し似ている。薄気味悪さすら感じるのに、しっかりと胸を掴まれてしまったかのような、不快感。

 風が、吹いた。それは私の髪を揺らし、そして彼女の髪をも靡かせた。カンカン、警告音は遥か先で鳴っていて、鼓膜のすぐ側で鳴っていた。ザッと、私たちの間を電車が横切る。数秒の後、遅れて来た返し風に思わず瞬きをして、開いた視界のその先に……彼女はいなかった。

──なんて、言った?

 まるで別世界から戻って来たような靄のない光景が広がったモノの、身体が謎の浮遊感に襲われていた。遮断桿が上がり切ったにも関わらず、あれだけ迷いなく進めていた足が地面に根が生えてしまったように動かない。

「!」

 ザッと、他人の足音で音という感覚を取り戻し、我に返った。硬直していた指先を軽く動かして、歩き出す。立ち止まる前と何も変わらない景色が広がっている。彼女が立っていた場所を通り過ぎ、徐ろに足を止めた。そして後ろ髪を引かれる気配に少し振り返り、顔を顰めた。

──なんだったんだ。

 そこには何もありはしない。春の要素を微塵も感じさせない東京のコンクリートに書かれた白線、ただそれがあるだけだ。だけど、棘のように鋭くも、目の前に揺蕩うひとひらの花弁のような暖かな感覚が、胸の中に芽吹いた気がした。



 ◇



 東京都立呪術高等専門学校の廊下は、紛いなりとも都内にあるというのに造りは京都などにある昔ながらの建築物を彷彿とさせる。まだ人気のない廊下を噛み締める度に、微かに靴の底でギシ、と音が鳴った。すれ違う人間がいない。まるで、先程の街並みのようだった。

 とはいえ高校といえどここは呪術を学ぶ場だ。呪いが見え、それを祓うための知識や心得を身に付けるための学舎。そんな人間が世の中にごろごろいるはずもなく、ましてや、五年という人生において短い時間を共に過ごす奴が普通の高校のようにいるわけもない。

 朝の出来事は、夢だったと思うことにした。広くないとはいえ人口密度一位のこの東京で、あの瞬間に会っただけの人間にまた会う確率など限りなくゼロだ。頭を切り替える必要性すら抱かずに指定された教室を開けて、私は目に入った光景、いや、その今朝見たばかりのシルエットに目を見開き、自分の時間を止めた。

「あ、一年生だったんだ」

 窓辺に佇み髪を揺らす一人の女。同じ高専の制服を見に纏い、真っ直ぐに私を見つめる瞳は踏切越しでは見えなかったものだ。ドクン、ドクンと心臓が早鐘を打っているのが分かった。この音の名前を知らない私は、まだ夢を見ているんだと思う。

「おはよう!!」
「っ!」

 だけどそんな夢と思っていたものは背後からの耳を劈くような声によって現実へと引き戻される。眉間にたっぷりのシワを寄せて振り返ったその先、想像通りすぐ後ろにいた黒髪でぱっちりとした目を爛々とさせた男が一人、初夏の空を彷彿とさせる満面の笑みを浮かべ、そこに立っていた。

「僕は灰原雄!! よろしく!!」
「……七海建人です」

 もう少しボリューム下げてくれ、とは顔で伝えたが、底抜けに明るそうな彼にはどうやら伝わらなかったらしい。「七海か!! なんかかっこいいね!!」と変わらず全体的に声の張りが凄まじい。というかそんな抽象的な褒め言葉、一体誰が喜ぶんだ。

「灰原と七海ね」
「!」

 よろしく、といつの間にか腰に手を当て、一歩前に出たことにより並んだ灰原と私を、下から眺め自己紹介をする彼女に心臓が一度跳ねた。いつの間に、というよりも、何もかも見透かすようなまっすぐな瞳に自分が映るその光景が、なんとも眩しく見えたんだ。

「うーん、灰原は変態そう。変わったプレイ好きそうだね」
「え?」
「七海は、顔に似合わずゲロ甘で吐きそうなセックスしそう」
「……」

 なんだこの女。途端、ひどい頭痛に襲われた。見目は至って普通。今朝感じた異物感だってありはしない。だけど、その口から出た言葉は一度では理解し難いものだった。隣の灰原は顔をこれみよがしに顰めた私に「七海、そうなの?」なんて平然と聞いてくる始末だ。なんで普通に聞いてくるんだ。そんなプライバシーの最深部にある情報を、なぜ今しがた会ったばかりの奴らに赤裸々にひけらかさなきゃならない? いや、仮に付き合いが長くなったとしたって話す気は毛頭ないが。

「……はぁ、」

 教室に入り、自然と廊下から灰原、彼女、そして私と並んで座り、私は人知れず溜め息を吐いた。灰原と彼女は意気投合したのか、初めて会ったとは思えないほど自然と会話をしている。下世話なものじゃない辺り、先程のは彼女のご挨拶みたいなもんか、と思った。いやあれが挨拶なのはどうかと思うが、私には関係ない。ない、はずなのに、なんだか少し落ち込む自分がいた。世の中、知らない方が幸せという言葉があるがその通りだ。呪霊然り、一瞬でも目を奪われてしまった、女の本性然り。

「ねえ七海、」
「……なんです」
「うわ、めちゃくちゃ無愛想だ」

 ほっといてくれ。そう灰原の声量の時同様不満を顔に書いたが、けらけら笑う彼女にもやはりそれは伝わらなかったようだ。

「ッ!」
「笑えとは言わないけど、タメなんだから敬語なし!」

 ね? と首を傾げる彼女の細い指が伸びて私の頬を躊躇いなく摘んだ。その向こうから顔を覗かせた灰原が「そうだよ七海!! 僕らは三人だけの同級生なんだから仲良くしよう!!」なんて暑苦しくて仕方ない言葉を発している。同じような、真っ直ぐな視線。この呪術師というものを彼らは本当に理解しているのか。そんな疑問さえ浮かんでしまうような、曇りのない瞳が四つ。私を見ていて居心地が悪い。

「分かったから、離してくれ」

 摘まれていた腕を掴み、呆れた視線を隣の彼女へと送る。そうすれば、彼女は「よし」と満足げに笑い、私から手を離し身体を元の位置へと戻していった。

──……クソ、

 自然と机に置いた手がやたらと他人行儀で、そんな悪態を心でひとりごちる。するりと離れた彼女の温もり、サイズ感、どれもが手のひらに残っているような気がして、ピクリとも指を動かせない自分がほんの少し情けなく思えた。

「……今朝、」
「ん?」

 呟くように漏れた言葉。私が教室に入ってかけた彼女の言葉を聞く限り、やはりあれは彼女だったのだろう。私は高専の制服を着ていて、彼女はあの時まだ着ていなかった。つまり、彼女からしたら知り合いを見つけたも当然だった。だから笑った、のかも知れない。この奇特な女は。でも、聞き取れなかったあの四文字が気になってそう声を掛けた。

「なに?」
「……いや、なんでもない」

 なんとなく、その問いは聞いてはいけない気がして、言葉を噤む。だけど口を閉ざした後にそれは何故かを考えた。が、答えは出はしなかった。

 キュッと、雑念を紛らわすように手のひらを握り締めた。私はここに、こんなことを考えるためにきた訳じゃないだろう。そう思うのに、思考に反して刺さった棘が存在を主張するように痛みを発していた。ドクン、ドクン。鼓動は鼓膜の奥で聞こえ、顔を顰めた。認めたくない。だけどその柔らかな棘は毒を私へと注ぎ込み、感じたことのない感覚を与えた。

 そんな私に気付きもしない隣の彼女は、「変な七海」なんて頬杖ついて、何事もなかったかのように「でも、楽しくなりそうだなぁ」なんて呑気なことを言うもんだから、本当、嫌になる。多分私は、彼女に恋してしまったらしいから。